2015年11月の記事 | 今のところではありますが…
ぶつぶつ。

【2015.11.24 Tuesday 09:37

思春期のころ、私はニキビがひどかった。
背中にもできていて、
私は父親のせいにしていた。
「お母さんに似れば
 こんなにニキビにならなかったはずなのに」
と同じ肌質の父親を憎らしく思っていた。

母はとても心配して、
私をいろいろなところに連れていってくれた。
今でいうとエステ的なところや
美容整形的なところもいった。
あるとき
母の友達のすすめで、
彼女が信仰している宗教の集まりで、
一人一人その主な方に悩みを言うという儀式の
ようなものに参加した。
私がその主催されている方の前に進み出て、
ニキビがひどくて背中にも出ているというと、
その方は、
「心の汚いぶつぶつが出てきてる」
と言われた。

このことは、
多分、当時の私にとってみれば、
すごくショックだったと思う。
ただ、その時の私は、
ショックって感じてた心に蓋をして、
すごく軽い感じで
「心が汚いんだってさ」
くらいの感想を母に言い、
もう二度と行かないという行動で
自分を守ったと思う。

私は、
その時、
めちゃくちゃショックだった気持ちを
誰にも言わなかった。
誰にもというのは、
自分自身にも。

今思うと多分、
ショックを認めてしまうと、
自分の心が汚いって言葉を
まともに取扱うことになってしまって、
それを検討することで、
自分でも自分の心が汚いことを
確信することになることが怖かったんだと思う。

何しろ、その頃の私の心は
不平や不満で充満していたから。
(ただ、それは思春期の子ならもつものだと
 今の私なら分かる)

「長女に生まれて、決められた道を
 歩まなければならない不満」

「私の真似ばかりする知り合いへの
 嫌悪」

「厳しい校則への反感」

「思うようにならない
 成績へのいらだち」
など。

なぜ、今になって急に
このことを考えてみたかというと、
日曜の夜にあった友人が、
私のことをめちゃくちゃ誉めてくれたからだと思う。

私は、これまで
人格的なことをほめられても、
人間的に好きと言われても、
心のどこかで
「全部暴露してしまったら、
 きっとそうは思ってもらえない」
「そこまでの人間ではないし」
と思ってた。

でも彼女と話していて、
とっても尊敬する彼女が
すごく私をほめてくれて、
その夜、
ベットに入ってから
なんだか涙がでてきて、
あれだけほめてくれる彼女の言葉を
ちゃんと受け止められないとしたら、
何があったんだ?自分・・・
と考えてみて、

この
「心の汚いぶつぶつが出てきている」事件に
思い当たったのだ。

私はあの時、
命の部分で
ショックを感じていたと思う。
ただし、
それを言葉でつかまえてはいなくって、
考えないようにしていたと思う。
その整理できてなかったものは、
どこにもいかず、
長い間私の中にあって、
私=「汚い心の持ち主」
としてしまっていて、
それがいつのまにか、
真実のようになってしまったのかもしれない。


今になって思うと、
あの時、
私にあの言葉を投げかけた方は、
私を成長させてくれようとしていたと思う。

不平不満がいっぱいで、
他者のせいにばかりしていた私に、
それじゃ、人生、切り開いていかれないよと、
そういうことを言ってくれようとしていたと思う。
何回が通えば、
あるいはそういうことになっていったのかも
しれない。

しかし、思春期の私には、
そんなふうに受け止められる心の器はなかった。

なかったのなら、
誰かにぶちまけられれば、
「それはショックだったね」
とか
「その人があなたの何を知ってる訳?」
とか
「じゃ、ニキビができてる人は
 みんな汚い心の持ち主か?」
とか、
一緒に考えてくれたり、
励ましてくれたり、
慰めてくれたりして、
きっと、
ここまで引きずることもなかったと思うが、
あの頃の私は、
言えなかった。

それが言えないのが、
これまた思春期なんだろう。



ほんと、恥ずかしいが
この年になって
またひとつスッキリとした。

私の心は、
そりゃ汚い時もあるけど、
いつもいつもそうって訳じゃない。

心の底から
認めてくれる友人もいる。



でね、
私は最近、
今まで以上に、
子どもたちの心を守りたいって強く強く思う。
たった一言が、
ものすごく傷をつけてしまうこともある。
もちろん、その傷も、
このぶつぶつ事件のように学びにもなる訳だから、
まったくダメッてわけじゃないけど、
でも、できれば、
必要以上なダメージなく育っていってもらうには
どうしたらいいかって考える。




さてさて、
心が汚いとかきれいとかのことだけど、
いっこに決めなくっていいって思う。

私の心はめっちゃ汚い時もあるし、
すごく澄んでる時もある。
かき混ぜられたように混乱してる時もあれば、
うわばみだけはきれいな時もある。
激しく波打ってる時も、
静か〜な時もあるのだ。

いいじゃんね?それで。



 
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確認しきれず。

【2015.11.20 Friday 18:51
またまた
私のドジ話→情けない話です。

今日はある中学校で全校道徳の講師の仕事があり、
ま、道徳を語れるような人間ではありませんが、
なんとかかんとか、とりあえず、いろいろありながらも
がんばって生きてる大人として、
「自分とのコミュニケーション」というタイトルで
話してきました。

で、帰り道。
車の水温計が、なんだか変な動きをしてるな
とは思い、
針がHの方に寄り気味で、
Hのランプも時々ついたりしていて、
まずいなとは思いつつも、
スーパーで買物している間に、
平常に戻ってくれるかも・・・な脳天気な感じで、
なんとか家までたどり着き、
家の駐車場に入れるために
グっと道路に出てバックしようと思った瞬間に、
うんともすんとも動かなくなってしまいました。
道の真ん中です。

ヤバっ!
私は少々パニック状態。
とにかくかかりつけの車屋さんに電話し、
助けにきてもらうことにし、
しかし、この道をふさいでしまっている状態で、
まいったなあと、困り果てておりました。

まず一台の車が左からやってきました。
訳を話し、
Uターンしていただきました。

次に右から
白いトラックがやってきました。

近寄って、
「申し訳ないです。今車が動かなくって」
というと、
「えっ、じゃあ、僕ら
 押しますよ」
と二人の、
若い男性がおりてきて、
「では、えんじんをかけて、
 バックにいれて」
と頭がとっちらかってる私に指示し、
押してくれたんです。

あ〜なんてありがたい。
なんて、優しい!!!

しかも、
彼らは、
日焼していて、
ガテン系(すみません、表現が古くて)で、
それで
三代目j soul brothersみたいに
顔が小さく、
なんかもう、ほんと、
かっこよかったです。

駐車場に車がおさまり、
ほっとして、お礼を言おうと
車から出ようとすると、
なんということでしょう、
多分あまりにあせっていて、
右の壁にせまりすぎていて、
運転席から出ることができません。

なんとか、助手席に移動して
そこから出てお礼を言おうとすると、
さ〜とトラックは走り去りました。

後ろに会社名が書かれていたのですが、
「飛○板金工業」と書かれていました。
その○は「島」か「鳥」か、
ちょっと分からず。

それでも、
なんとか一言お礼が言いたい!
ネットや電話帳を使って
夕方からめちゃくちゃ調べているのですが、
みつかりません。

ああああああああああ!!!




私は今日
中学生たちに
「他」と出会うことで
自分を確認できることもあると話しました。
そして、自分の性格をひとつのもので
くくらなくっていいって。
いろんな自分がいていいよって。

その例として、
先日の朝 ジョギング中の情けない話をしたんです。

朝走る時は5時にスタートします。
まだ暗いんです。
その日走って1㌔くらいの地点の歩道に、
なんと人が倒れていました。
歩道にうつぶせになっている感じです。

私は、びっくりして、
近寄ってみると、
むにゃむにゃ言っていて、
めちゃくちゃお酒くさかった。

助けよう。
救急車を呼ぼうと思ったのですが、
酔っぱらいみたいだし、
ちょっと怖いし、
暗いし・・・
しかも病気とかけがとかではなさそうだし・・・
といっぱい言い訳がでてきて、
それで、情けないんですが、
自分の身を守る方を優先し、
そのまま走り去りました。

一㌔くらい
走りながら、
頭の中で、
ぐるぐるいろいろ
考えてました。
罪悪感でいっぱいでした。
あの人があそこで、
もしも、
死んでしまったらどうしよう、
あ〜やっぱ、あのままにしておいてはダメだと
思い直し、
戻ると、
1人の男性が
救急車を呼んでくれているところだったのです。

私は少し安心して、
大丈夫だと、その場を去りました。

そして、
もう一度後で戻ると、
倒れていた方は、
救急車の職員の方に
「こんなとこで寝てはだめでしょ。
 警察いく?」
とお説教されていたので、
「あ〜これはもう大丈夫だ」と
今度は心底安心して
本格的に走ったんです。

このことを事例に、
「私の中には冷たさがある。
 自分の身を守ろうとする
 自分本位のところがある。
 でも、それだけだったら、
 多分罪悪感はわかなかった。
 少しの優しさや、
 少しの思いやりや、
 そういうものもあったから、
 自分を責めて戻ったと思う」

「自分の中の性格みたいなものを
 ひとつでくくらなくっていい」

ま、みたいな感じのことを
中学生に話したんです。



で、帰ってきて、
私は、
こんなふうに助けてもらって、
本当に本当に心底ありがたかった。
あの方々は、
仕事から帰るのが遅くなるとか、
疲れているのにとか、
そんなこと、ちょっとも考えないで、
困っている私を見て、
瞬間的に動いてくれたんです。

道徳で話ができるのは、
私ではなく、
三代目j soul brothers似の二人だと思います。


私は
自分が本当に情けないです。
あの酔っぱらってる人が、
夫だったら、
友達だったら、
妹や義理の姉のパートナーだったら、
私は助けてほしいです。

瞬時にそう考えなかった自分が
ほんと恥ずかしいし、
だから、これからはもう、
相手がどういう状態であっても、
困っていたら、
動くと、
ここに決めました。


三代目j soul brothers似のお二人という
「他」と出会って、
またまた確認した自分。


55才すぎても、
まだまだ確認しきれておりません。
しかも、イヤな部分も
まだまだありそうです。
はあ〜。













 
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「自分を知るための社会学入門」

【2015.11.13 Friday 19:52
内田樹先生の推薦の言葉を見て
帯買いした本。大正解だった。
もう一度大学で勉強するなら
社会学を学びたいと思うほど。



「メタ・メッセージ」の章では、
社会学の意義を
いろいろな事例で表している。

たとえば
恋人から
「今度の日常どうしてる?」
と訊かれたときは、
「日曜にデートしようよ」
という誘いがこめられていたりする。

「なんかコーヒーが飲みたいね」

「コーヒーいれてきて」

「時計もってる?」

「今何時か教えて」

 (これは、発達障がいの視点で
  考えることもできる) 

人が伝えたいメッセージは、
元のメッセージだけではなく、
そこに込められた意味などがあって、

で、それは、
単純に個人の意識の問題だけではなく、
社会の影響を受けていることも多いから、
「人間と人間」「人間と社会」の
関係を暴き、理解していく社会学が
おもしろいという訳だ。



また著者は
自分の人生初デートの失敗を例にして、
マートンという社会学者の提唱した
「事前の社会化」という概念を説明する。

人生初めて、つまり体験したことなどないのに、
著者と彼が交際を切望していた女性は
なんとかデートにふさわしい状況を作ろうとする。
ま、それは残念ながら失敗するのだが、
大事なのは、
一度もデートというものをしたことがなくても、
知らず知らずのうちにどういうものと
無自覚に学習をしていて、
人間は、そういうふうにふるまおうとするってこと。

こうやって、
「メタ・メッセージ」とか「事前の社会化」とか、
名前がつくと
「ぼんやりとしてかたちで刻まれていた記憶が
 明確に説明され」、
「今現在、未来において遭遇する問題を理解する
 うえで一つの道具を手に入れたこと」
に確かになる。


私にとって、特に興味深かったのは
「『私探し』にさよなら」の章で、
「自分が自分であるためには、
 他者の前に自分を押し出す必要」があり、
「他者からの評価がどのようなものかを
 確認しながら生きている」
という自己像を
「他者との関係において
 『鏡に映る自己』という概念」
で説明していること。

そして、現代を生きる人の一つの苦しみを
「操作された自己と、
 操作している自己とが乖離しすぎたり、
 望むような自己が
 他者の鏡に映らなかったりすると、
 不安でいたたまれなくなってしまいます」
と。

「アイデンティティを確立させなければ
 ならないという呪いから解放される
 ことこそ」
苦しみから解放されるという考えに繋げている。

私の学校での相談の場では
このことが元のところにあっての問題が
多くあるので、
ものすごくうなづいて読んだ。




毎日普通に暮らしていて起こることや、
やってくる出来事、
他者の反応や、
自分の考えなどは、
社会学者たちが、
すでにいろいろな名前をつけて
説明していたことが分かると、
なんだか、すごくおもしろい。

こんなふうに、
ものすごく身近な事例から
社会学の知に触れさせてくれる授業を
うけてみたいと思う。



で、
私は来週、
ある中学校で
「自己理解」について話す。

岩本先生のようにはいかないとは思うけど、
脱線しておもしろおかしい話で「おもしろい」
という授業ではなくって、
中学生たちのもやっとしたものが、
「あ〜そういうことだったのか」
と霧が晴れていくような、

これまでの苦しい辛い体験に、
自分なりのテーマやタイトルが
つけられるような
そんな時間を作れたらいいと思う。


って訳で週末は
プログラム作り!







 
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使うと上手になり、使わないと錆びる。

【2015.11.11 Wednesday 11:44
朝走ろうと思って4時50分に
目覚ましをかけた。
とりあえず目覚めた。

あ〜もう少し寝ていたいなあ、
なんだか種子骨のところが
 痛いような気もするし、
昨日ハードだったから
 からだもちゃんと労りたいしなあ

はい、出ました、言い訳。
いやはや
上手になりました、
自分を納得させられる言い訳。
幼い頃から使い続けて、
すごい腕前。


そうなんだ、
使えば使うほど、上手になるもの、
いろいろある。

相手が私を責めないくらいで、
なおかつ
自分が大きな罪悪感を持たないですむくらいの
小さな意地悪。

自分の権利を笑顔で優しい言葉で主張して、
他の人には譲ることをしない強欲。

よい結果を自分の手柄にしてしまうような
言い方。

これらもやればやるほど、
上手になってしまう。


そんなことをやっていても、
うまくいかないことは分かってるのに。

そんなことが上手になるために
生きてる訳ではないのに。


そんな私にとって、
杉井保之さんによる、
小学校4年生への「心の授業」は、
ちょうどいいタイミングだった。
(杉井さんは、
 「CL〜建設的な生き方」を
 教えてくれた方)
久しぶりに聴く彼の話は、
ずどんずどんと胸にきた。

「幸せになろうと思って
 学校にこよう」

「幸せになるには、
 自力と他力必要。
 ただ、その割合は1:9。
 つまり自分の力がいくら強くても、
 応援してもらえる人に
 ならないと
 幸せにはなれないんだ」

「人から応援してもらえるためには、
 一所懸命やること
 人からの応援に気付けること
 他の人の幸せを願うこと」

「自分を幸せにする努力を
 積み上げていこう
 今ある幸せを味わおう」
 

ほんと、その通りだ。
ちゃんとした正論は、
やっぱり気持ちいい。
ストレートに届いてきた。




筋肉も使わないでいると
衰えていく。
書くこと、読むこと、考えること、
しないでいると、力は弱まる。
使わない包丁は
錆びていく。

私の中に大事にとってある、
勇気や
根気や、
忍耐や、
ほんとの優しさや、
とにかく行動すること、
ちゃんと使ってあげないとなあ。

錆びて使えなくなる前に。



<谷澤相談室を主宰し、
 一番最初の相談の方からの
 贈り物。
 スタートを思い出せ、自分>







 
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「うれしい」と「しあわせ」

【2015.11.06 Friday 09:56
「うれしい」と
「しあわせ」はどう違うの?

そんなことをつぶやいた中学生がいて、
本当に中学生はおもしろい。

私はおおまかな情報を伝え、
あとは考えてみてごらんと
授業に送り出し、

その後、

こういうことを
中学生に分かる事例や分かる言葉で
説明できるのが、
本当に分かっているってことだよな
なんて考えて、
そういう機会を与えられていて、
日常的に訓練している訳だから
「なんと幸せな仕事についているのか!自分」
と考え、
「出たよ、しあわせ」
と思った。

先週は小学校5〜6年生に、
「心の健康」についての授業をした。
これは保健室の先生が企画された
学校保健委員会でのこと。
その先生の子どもたちへの思いが
素敵で、
しかも、
授業としてすごく考えられていたものだった。

アンケートがすごかった。
「悩みはありますか?」という質問は、
アンケートにはよくあるものだが、
その先生は、
中学校に依頼して、
その小学校を卒業し
現在中1になっている子どもたちにも
同じ質問をしていた。

中1になると、その数はぐっと増えていて、


それは、
部活、先輩後輩、違う出身小学校の子との交わり、
いろいろな先生との出会い、からだの変化、
塾でのこと、インターネット・・・
などという、
世界が広がったからこそだし、

「もやもや」「くよくよ」などと呼んでいたものが
「なかなか上達しないヘディングの技術について」
 (架空の事例)
とか
「aさんは、
 一対一だと仲良くしてくれるけど、
 私はクラスの中で嫌われているから
 クラスの中では、aさんは私に話しかけない。
 それはすごくいや」(架空の事例)
など、
言葉になってきたからこそだし、

つまりは、
成長と共に葛藤がふえていくことを意味していた。

(ちなみに、そのアンケートの集計では、
 1年前に5〜6年生に対してとった時のものとも
 比較してしていて、
 現在6年生が5年生だった時の数、
 現在中1生が小6だった時の数、
 両方とも、年を重ねた方が多かった)

そういう素晴らしい準備をふまえて、
私の話。
小学校5〜6年にわかる事例でわかる言葉で
心の健康を語ることは、
鍛えられる。

思いがけない質問も出た。
「谷澤先生は、
 今日この授業をしようとすると、
 緊張して、上手にできるか不安だったと 
 おっしゃいましたが、
 先生が他に不安を感じることは
 どんなことですか?」

私は本音でしゃべる。
「私ね、他の人からどう見えるか、
 すごく気になることがあるの。
 むずかしい言葉でいうと、評価
 なんだけど、
 それが気になる。
 とくに自分の実力以上に高い評価が
 ほしくなってしまっている時、
 どう見られてるかな?と
 不安になったりするよ」


ちなみに、
その授業でやったことは、
「生きてるといろいろあるけど、
 いろいろあったとき、
 まず、最初に浮かんだ感情を
 なかったものにしないってのが、
 大切なんだ」
ってことを伝えたつもり。

「こわい」
「心配」
「悲しい」
「苦しい」
「腹立つ」

そういう感情がわいたときに、
そういう感情がわいてしまった自分のことを
ダメって思わなくっていい。
「ああ、今おれ、悔しいんだな」
とまずは、認めよう。
これが、なんといっても一番伝えたいことだった。

だって、それは、
すごく難しいことだけど、大切なことだから。

湧いてきた感情を無視したり、なかったことにしたり、
責めてしまったりすることで、
問題は大きくなっていくから。

以下は小学生には伝えなかった、
ちょっと複雑なことなんだけど、
ここに書いておこうと思う。


感情は生理現象とか、生理的な反応と言われていて、
私たちの命を守るために出てくるもの。
それに対して、
思いや考えは脳で作り上げるもの。

感情は反応ででてきてしまうものなのに、
ないがしろにしてしまうと、
どこか出せる瞬間や出せる場を
探してでもでてくることがある。
それは時々胃の辺りとか。肩のコリとか。
その間、やっかいなことに、
思いや考えを脳で
作り上げてしまったりすることが多い。

Aさんに挨拶した。なのに返事がなかった。
「ムカっ」としたら、
「私は腹立った」でいいし、
そう捉えると感情は消えていくまで早いけれど、

「このくらいのことで腹立つなんてせこいし」、
などと感情を押し込めてしまうと、
「Aさんに嫌われているのかな」なんて、
脳で作り上げた思いや考えがでてきたりして、
心配なんて感情をうんだりして、
そのことは問題を長引かせる。

だから、
まずは
わいてきた感情をつかんで、
頭の中で言葉にしておこうって訳だ。




で、
「うれしい」と「しあわせ」も
その関係だと思う。

「うれしい」は反応。
そこから「これは幸せだよな」と
脳で言葉にすることで、
そのことは幸せとして刻まれる。

本能と知性の関係でもあるのかな?

もちろん、
好きな人から告白されたりすると、
「うっ、しあわせ」と直接幸せ感がわいてくることもあるから、
そういう時は「しあわせ」を感情と
とらえていいかもしれないけど、
大概は、
「嬉しい!」などがきて、
それを味わっているうちに「しあわせ」は
しみじみと
頭で考えるんだと思う。

「うれしくってしあわせ」
「たのしくってしあわせ」
それがいっぱいみつけられるといい。
いっぱい
いっぱい
脳に刻めるといい。

しかも「しあわせ」は
「苦労できてしあわせ」の場合もあるし、
「大変だけどしあわせ」の場合もある。

カルが元気でいてくれることが
ありがたくってしあわせだし、
時々は
忙しいこともしあわせと
頭で捉えることもある。


今度、
その中学生と会ったとき、
少し深い話をしてみたいな。


「うれしい」はわいて出てくるものなんだけど、
「しあわせ」はみつけられるものなんだよって。
       刻めるものなんだよって。






 
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谷澤 久美子
counselor