2014年10月の記事 | 今のところではありますが…
つながれえええ。

【2014.10.29 Wednesday 10:49
「あたりまえを疑え」という本を
手にいれて、さ、読もう!と思った時に、
岩瀬さんの「せんせいの作り方」という
本が届いて、岩瀬さんの本を先に読もうと
ページを開くと、
第一章が
「『あたりまえ』を問い直す」
だった。

つながってるやん。


岩瀬さんの本の「あたりまえ」は、
岩瀬さん自身が
かつて「あたりまえ」と考えて
実践してきた
「『一体感と凝縮生を活かして』
学級をまとめる」という方法を、
ほんとにそれでいいのかな?
と問い直すところからスタートしてた。

つまり、自分の中に
刷り込まれてしまってた、
思い込みのような「あたりまえ」を、
根底にして「教育」の現場にいることに、
違和感を覚えた彼自身の物語。

一方、
「あたりまえを疑え!」には、
まかり通っているような通説、
たとえば
「最近のこどもは少子化で
 きょうだいげんかをしてないし、
 人間関係の作り方が下手」
などは、
数字を見ながら確認すると
事実と違っているものもあると書かれてた。

「無意識に、誰でもない誰かに
 後押しされながら思い込んで
 いることの中には
 たくさんの誤解があることに、
 注意する必要があり」、
本当に確かなことは何か、
自分の目で見て確かめることから
考えを深めていこうと説き、
その手がかりを
10のテーマですすめている本。

めちゃおもしろかった。

特に自閉症スペクトラムしょうがいをもつ方々の、
「他者の気持ちや場の雰囲気を理解することが
むずかしい」
に関する辛さを書いた部分は、
とても納得できた。

彼らの辛さを理解するために、
まずは他者の気持ちを思う「感情移入」に
ついて説明している。
感情移入には自分が相手の身になって考える
「一方的な感情移入」と、
自然に自分の中に入り込んでくる
「浸透的で双方向的な感情移入」の2種類があり、

自閉症スペクトラムしょうがいをもつ方々は、
「浸透的で双方向的な感情移入」というベースのない中で、
「一方的な感情移入」で相手を理解しようとするために、
様々な困難がおきているという説明だ。

「自閉症スペクトラムしょうがいをもつ方々は、
空気がよめない」と
「あたりまえ」のように結論づけていては、
サポートに限界みたいものを感じる場合もあるが、
「他者のきもちがわからない」や
「空気をよめない」とは、
どこがどうそうなるのかを
細かく言語化されていると、
サポートのイメージがひろがる。

これはまた改めて感想を書きたい。


・・・という訳で、
そういう本をまとめて読もうと思った訳では
ないのに、
つなげて読める幸せ。



で、一番最近読んだ本は
「小さないじわるを消すだけで」。

よしもとばななさんと、ダライ・ラマ14世対談
などを本にしたもの。

よしもとばななさんの講演部分が
めちゃすばらしい。

「小さな棘、ささやかな悪意、
 そういうものを徹底的にとりのぞいていったら、
 何がどう変わっていくのか、
 人生をかけてしばらくみてみたい」
と試み始めたばななさん。


小さな意地悪とは・・・
「その場でできることの中で、
 人をできるかぎり小さくではあるが、
 あえて傷つけながら、
 自分が論理的にも倫理的にも
 正当化できるやり方をして、
 ストレスを発散してしまう」

「小さな意地悪には責任が伴わない」

ふむふむ、分かる。

罪悪感を、それほどまでに抱かない程度に、
自分に対して細心の注意を払いながらも、
相手に対してちくりとしちゃう、
そんな感じのことだな。

私は、
いたたた!と思った。

これって、アサーティブでいうところの
ネッチーパターンだ。

つい最近、
夫と義父との夕飯時のこと。
その日、私と夫は
島田市の大井川マラソンに参加した。
ごはんを作る気力がなくって、
お弁当を買って帰った。
疲れきっていた私と夫は
すぐにフタをあけて食べ始めた。
義父は、ながめている。
フライドポテトをいくつかつまんで、
「は〜、食欲がわかない」と言った。
その瞬間、私の中で意地悪な気持ちがわいた。
(からだを動かさないでいるからだよ!)
ただそれをそのまま口に出したら、
そこは責任が生じることを私は知っている。
それは言わない。
それで、あえて、そのことにはふれずに、
夫に
「今日、初めてちゃんと座ってごはん食べたね」
と言ってのけたのだ。あ〜いやみな瞬間!
いかにも、活動しているからこその食欲!
ってな感じで。
それは、私の中の、
責任を最小限とらなくてもいいくらいの、
でも、確実に義父を傷つける言葉だったと思う。
直後、やば!ネッチーやっちまった・・・、
すべての言動には責任あると考え直し、
すぐに自分を立て直して、
義父に話しかけ、
義父は時間をおいて食べることにしてくれた。

そのことがあっての、この本。
つながってる。

そして、
本を読みながら、
以前、ドラマセラピーの役割劇で
「意地悪な人」を演じた時、
なんだかすごく気持ちよくって
自分でもびっくりしたことを思い出した。
やっていいというお墨付きでやると、
こんなに気持ちいいってことは、
自分の中に、
意地悪な部分が多分にあるって確認できたし、
本当はそういう自分の部分を
自分でももうあきあきしてて、
いいかげん、もうやめようって分かっているんだ
と思う。

だから、
こんなに真っ正面から、
「小さな意地悪をやめよう」と
決めて実践しているのが、気持ちよい。

ばななさんは、たとえば
失恋してかまってほしそうな人がきたら
「どうした?今日は時間ないけど、
 来週にはなんとかなるよ」とか、
作家志望の人にアドバイスを求められたらしているそうだ。
(以前は作家志望はみなライバルって思ってアドバイス
 しなかったけど、それは小さい意地悪って思ったんだそうだ)
そうしていたら、
「私の変貌が少しずつ大きな流れを作っていることを、
私ははっきり感じることができます」
って、書いてある。


なんか、そろそろ私も、
私自身が本当に心の底から、裏側までも、
「善き人」になりたいと思ってるんだと、
そんなふうに思う。


で、つながっているんだけど、
ひょんなことからあいた時間があって、
映画「プロミストランド」を見た。
(めっちゃ久しぶりの映画!!!)
それは大企業で土地を買収していた人が、
企業の横暴なやり方の道具の
ひとつだった自分に嫌気がさし、
自分を誇れる生き方に
チェンジしていくストーリーだった。


なんかね、
正々堂々と、
小手先ではなく、
善くありたいんだよなあ。








 
ダライ・ラマ14世,よしもと ばなな
幻冬舎
¥ 1,296
(2014-10-22)

author : tanizawa-k
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歩み寄る。

【2014.10.25 Saturday 11:11

過去のことで
どうしても納得できないことがあったり、
許せないと思うほど、はらわた煮えくり返って
いることがあったりしたとき、

過去は変えられないから、
未来に向かって
今やれることをやっていこうと
考え、実践できることは
とっても幸せなことだと思う。

でも、そうは思えず、
行動できない時だってある。


過去にこだわっていても、
何も始まらないって分かっていても、
考えが堂々めぐりする。

そこに留まり続けたくないのに、
そうしている自分を情けなく思い、
なぜ他の人は切り替えらるのか?
と考えると、
別の悩みまでやってくる。

なぜ私はいつまでもこんなに
気になるのか?
気になる自分が悪いのではないか?
自分が何か足りないのではないか?
ダメなんじゃないか?
と。

でもね、
それだけそこにこだわらずにいられないなら、
それだけの背景があるんだと思う。

学校の活動の中や、
主宰している相談室や、
講座の中で、
あらゆる年代の方々、
様々な立場の方々の話を伺う機会があるが、
そこにはその方にしかわからない理由がある。
小学生のまだまだ短い人生の中にも
背景がある。

その人が味わってきた辛さ、
そうせざるを得なかった行動、
そう考えなければ生きてこれなかった考え方、
それを使ってなんとか暮らしてきた表現方法、
よくわいてきてしまう感情・・・
など、
いやいや、
言葉にはあらわせないような
様々なことがあっての今だと思う。




とはいえ、
その中にいて苦しいのはご本人だ。

誰かを責めても、
あるいは自分を責めても、
やはり
とてもとても苦しいと思う。

時代や社会や制度や世間や、
それらを責めて、
それですっきりと、
未来にむかって
今できることをし始めることができたら
それもありだけど、
そうでなければ、
やっぱり辛いのはご自身だ。


じゃ、どうしたら
そのスパイラルから抜け出せるのだろう。


やはり、
まずは外に出すってことじゃないか。

ぐちゃぐちゃのまま書いてみる。
話してみる。
それも、
安心できる場所に書くのがいいし、
安心できる人に聴いてもらうがいい。

(安心できない場で書くと、
 変な広がり方をしないかとか、
 別の問題が起こるし、
 安心できる人相手に話さないと、
 説教されてしまったりして、
 また別の悩みが生まれてしまう)

そして、その外に出してみた事情を、
しげしげとながめて、
あるいは、受け止めてもらって、

それだけのことがあったのに、
それを抱えながら生きてきた自分を、
まずは
「よくやってきた自分」と、
自分に言葉をかけてあげてほしいと思う。


そしてその後で、
過去の事実を認めることをしてほしいと思う。

過去の事実とは、
「どうしても気になる出来事」だけではないはずだ。
つまり、ネガティブな側面だけでなく、
その出来事があまりに大きかったので、
忘れてしまっている、
あるいはなかったことにしてしまっている、
よかったこと、
うれしかったこと、
楽しかったこと、
幸せだった時間・・・
そういうことも、
思い出してみたらいかがか。

ポジティブなことを思い出して
例の出来事を忘れた方がいいと
言っているのではない。
例の事ももちろんあるし、
あいかわらず気になるけど、
それだけじゃなかったことを
意識しよう!って思うんだ。

そのことは、過去に
自分から歩み寄る勇気ある行動だと思う。



それができたらその次は、
今、もし、その出来事が、
今の自分にふりかかったとしたら、
今の自分ならどう対処するか
代替案をもてるといい。
もちろん、もう過去には戻れないから、
そんなこと考えたって
どうにもならないんだけど、
でも、今の自分ならこう対応する
という方法がもっていると、
その次の段階にいきやすい。

次の段階とは、
その出来事が自分の人生に起こった意味を
考えるってこと。

少なくとも、
代替案をみつけられた後なら、
そのことの意味は、認められるはず。

そして、そこまで考えておくと、
その時にはすでに、
その出来事が、
忌々しい出来事ではなくなってる可能性は大きい。


そうなると、
その出来事を思い出しもしない瞬間も
できてくる。

あっそういえば、
忘れてた!
あれ?なんだけ楽なんだけど・・・。
みたいな感じ。

それは、
お金の心配をしなくてはならない時は、
お金のことを常に考えながら暮すけど、
ある程度安心して暮らせると、
お金のことを忘れちゃってるみたいに。



なんてことを考えた。








 
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今日は決めない。

【2014.10.24 Friday 09:31

「今日は決めない」ということを決めた
会議を行った。

教育の現場でのことで、
ある学年の先生方との会議だ。

なぜ「決めないと決めた」というと・・・

・半月ほど前に開催した会議で
 一度結論が出たのだが、
 何人かの方の中は、迷いながらの結論だった。
 その後、現場の中で想定内ではあったけれど
 問題が起こった。
 ↓ 
・再度検討しようということになった。

という流れだった。

再度開かれた会議の中では、
A案(決定していたこと)
B案(別の意見)
があり、
それぞれの意見をきいたあと、
全員の意見を発言してもらった。
参加された先生(ほぼ学年の先生全員)が
意見を発言くださり、
2案に集約はされるけど、
多様な、温かく、表現は違っても
子どもたちへの想いを感じられる、
そういう意見を聴く機会となった。

その中で、
ある先生が
前回の決定の過程では、あまり深く考えていなかった
ことを正直に告げてくれた方がいて、
「誠実」であることのパワーを感じた。


この会議のテーマは、
ある子どもの指導方針にかかわることだ。

今回の会議の結論は、
どちらかに決めない、
全員で考え続ける。
ただ、期限があることなので、
ぎりぎりのところで担任の先生が決める。
担任の先生が決めたことは、
それがどちらの案であったとしても、
学年全員で応援しよう!
ということを決めた。

担任が決定するために必要なことで、
協力できることはないか質問された方がいたり、
会議終了後には、協力を申し出ている方もいた。

若い先生にとっては、
キャリアのある先生の教育観のようなものに、
ちょっとだけだけど触れる機会になったと思う。
それから、どの意見も大切に扱われる場の
温かい空気を感じられる機会にもなったと思う。

そのポイントは、
あの最初に正直に話してくれた
前回はあまり考えていなかったことを
告げてくれた先生のおかげだったように思う。



私も会議の最後に、
先生方に謝った。
前回の会議の時に、
結論を急いだ私は、
ある程度のところで「専門家」としての意見を述べた。
「専門家」としての意見は、多分強いから、
それ以降B案をもった方々は、
多分言い難くなったと思う。
「今日のように、あの時全員の意見を
きかせてもらえるようにしなかった
私は責任がある。本当に申し訳ない」
と頭を下げた。


会議の質って、
何を決めたかってのも大切かもしれないけど、
実は「どう決めたか」なのかもなあ。

決めたけど、もやもやしている人が多いと、
結局実践に結びつかないことが多いし、
何かひとつ問題がおこるとぶれることもある。
でも、充実した話し合いの時間をもつと、
明確に決めなくても、
自主的に動けることもでてくる。
そして、また開けばいい。

この会議の時間を共有した先生方は、
成熟したチームへのステップを踏んだと思うし、
その場にいることができたことを
とってもとっても幸せに思う。



効率的で、結論がでて、役割分担できて、
次までに何をどの程度やるか明確になる
そういう会議は必要だと思う。
ただ、時々は、
こんなふうな、きちっとしてない、
ぼんやりとしていて、あやふやな、
そんな会議もいいのかもなあ。
私はそんなふうに思う。




 
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聴き合える関係。

【2014.10.19 Sunday 05:33
私が使っている化粧品は、
無料サンプルを送ってくれる会社の
化粧品だ。
最初は、
その無料サンプルに申し込んで、
それがよくって使い始めた。
でも、購入し続けているうちに、
「待てよ、その無料サンプル代は、
 結局商品に上乗せされてる訳だ」
となんだか妙に悔しい気持ちになってきて、
それからはそのコマーシャルが流れる度に、
「だから、無料っていうけど、
 それは、私たちが払ってるんだよ、ねえ」
と家人に同意を求める。
私としては、そんなこと言ってもムダだと
分かりながらも、
ただ、ちょっと発散させたいだけだ。
「そうだよな」
って言ってくれればそれで済む程度のことだ。

しかし、家人は言う。
「そういうこと、ボクに言われても困る。
 この会社に言って!!!」

家人は、私のぼやきを
解決してあげたいと思ってくれているんだと
思うけど、
その反応で一層イラっときてしまう私。


・・・なんてこと、ありませんか?


私自身だって「聴く耳スイッチ」が入って
ないとき、相手をイラっとさせてしまう反応を
やっちまうこと、ある。

義母の「調子悪いわあ」という言葉に、
「そうかあ、どんなふうに?」と応えず、
「もう休んだらどうですか?」って
アドバイスしちゃったこともあった。

誰の本に書かれていたか、
もう忘れてしまったんだけど、

「私たちは上手ではないやり方を教わった
 善意の人間から、
 上手ではないやり方を教わるのが実情だ」

という文章、
ほんとだなと思う。

私たちはコミュニケーションを
体系的に習ってないから、
自分の体験してきたことの範囲の中で、
よさそうなことをしていて、
それは聴き方もそうで、

相手の話してくれたことに、
判断を伝えたり、
アドバイスしたり、
ごまかしたり、説得したり、
そういうことをしてしまいがちだ。

それも相手を思ってこそだ。
(時々は面倒くさいからとか、
 自分に余裕がなくってとか、
 そういうこともあるかもしれない)

でも、時々、
そのことが、関係を
複雑なものにしてしまう。


そんな訳で
18日(土)は、
「応える・共感する力をつけよう」という
勉強会を開催した。

理論やスキルを学び、
それを練習したが、
ペアになって練習する参加者の皆さんを見ながら、
「あ〜こういう関係が、
 社会のあちこちにあったらなあ」
と心から思った。

お互いをわかろうと聴き合ってる姿。

相手を支えようとして聴き合っている姿。

相手が、何を伝えようとしてくれているのか、
分かろうと思って聴き合う姿。


目の前の、
今、
私に話してくれている人は、
自分で解決する力のある一人の人で、
その人が私に話し、
その話を私がただただ聴くことで、
考えを整理し、
どう行動すればいいか、
まとめている・・・。

そして、私も、
ちゃんと「聴き手」になってくれる相手の前で、
安心して話せる。

そういう関係が
あちこちにあったら、
今社会にある問題の、
ある程度のことは解決するんじゃないだろうか。

そんなことを考えた。



参加者の方からのオープンOKの感想を
シェアします。
●自分自身、辛いことがあったとき、
 問題を回避したり、ごまかしたり、
 自分に論理的説得を試みたり、
 元気づけたり、
 そうやってなんとか乗り切ってきたから、
 相手に対して、そういう聞き方をする
 傾向をもっているのだと思いました。
 私にとって自分自身を見つめ直す時間と
 なりました。(H)

●今まで自分は、「私の話を聴いて」という
 欲求から他の人の話を聞いていたことに、
 まず気づきました。聞いたあとに、
 何かしらのアドバイスや判断をしてしまって
 いたことにも気がつきました。
 もっと言えば、「あ〜私の方がまし」
 「私って意外といい人」などと驕りも
 あったなあと。
 特に子どもに話をするときは、心のスイッチ
 OFF状態でいたと反省。主訴を分かろうと
 していませんでした。
 理解されるって、すごく気持ちが落ち着きます。
 まず自分がそんなふうに聴けて、応えて、
 共感できるように練習していきたいと
 思いました。(大場様)

●(私は間違っている!と思う意見に対し)
 共感したくない!(と思ってました。)
 でもその考え方が、正論でおしまくったり、
 すぐにアドバイスしたくなる傾向に
 結びついてしまうのだと、自分に警告です。
 同感と共感は違うのだと肝に銘じます。
 改善点は伸びしろという言葉、印象的
 でした。(Y)

●自分の聞き方のパターンを知る事ができ
 よかった。
 パターンを理解したあと後のワークで、
 またいつものパターンをとってしまって
 いたので、笑ってしまいました。
 セミナーの中で様々な方とコミュニケ−ションを
 とるのも非常に勉強になります。(いっこ)

(まだまだたくさん
 素敵な感想をいただきました。
 ありがとうございました!)


この講座は、
2014年谷澤相談室勉強会第二回
「応える・共感する力をつけよう」。

第三回「自分の中にある力を再確認しよう」
(2015年1月10日土曜日開催)の
参加者募集を開始しました。詳しくは→


また、「聴き方」を含む、
ストレスマネージメントの講座を、
うるプラスさん主催で行います。
詳しくは→





 
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自分の都合。

【2014.10.17 Friday 08:54
人って、時々、
自分にとって聞きたいこと、
見たいものしか、
受け取らない。

昨日の朝、東京FMを聞きながら仕事場に向かうと、
成功した天才ピカソから働き方を考える・・・のような
話が聞こえてきた。

その中でピカソの多作ぶりについての話が出て、
その理由として、
あきらめることを知っていたから、
途中の作品が多く残っているという話が
印象的だった。

こりゃだめだなと思ったとき、
そこにいつまでも固執せず、
途中で筆をおくことで、
生涯表現するということを
貫けた・・・。
逆にいうと、
生涯に渡り表現者であるってことを
あきらめないために、
しばしば、作品の完成途中で
あきらめるという選択肢も使った
ということ。

あきらめることで、あきらめない。

私はこの考え方が
とても自分にあっていると思った。
そして、自分に都合よく使っていると
思う。

話がめちゃ卑近な例になってしまうけど、
たとえば、
帰りが仕事で遅くなってしまって、
無理すれば夕食の支度ができるけど・・・
なんて時、
早々にあきらめて、
「家族との生活と
 大切な仕事を長く両立させていくこと
 をあきらめない」
ために、
今日は宅配ピザ!
みたいなこと。

こういう例は、いくらでも出てくる。
多分、いろいろな場面で、
毎日使っているんだと思う。




・・・ってことだよ、私!

この時ピカソから
現代に生きる人たちの働き方みたいな話題で、
確か3つのポイントで話してたけれど、
私はこの「あきらめることで、あきらめない」
しか覚えていない。

私は、
自分に都合のよい部分しか
頭に残らない時があるんだよなあ。


もし他の2つが、
今の自分にとってすごく大切なアドバイスだったら、
すごくもったいないなあ。

見逃していることが
いろいろあるんだろうなあ。

同じような情報ばかりを
探してしまっているかもしれない危険も、
考えてみよう。


仕事に関しては、
客観的にあろうとすることに神経を注ぐ。
その反動か、
日常生活は、視野がせまくなって
いるように思う。

なことに気付く朝。




 
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ハアハア言いながらも。

【2014.10.10 Friday 09:17
特に思春期の子どもたちに対して、
心は当然不安定ながらも、
それでも、なんとか毎日をやっていけるように、
そう考えながら、
学校の中で相談の仕事をしてきている。

その16年の活動の中で、
学校保健委員会などでの講師の仕事を
ハアハア言いながらやってきた。

迷いながら、
自信もないまま、
それでも、
今何を伝えたいか、
子どもたちにどのことをどう伝えたら、
ちょっとは安心してもらえるか、
やってきた。

そうやってやってきて、
時々ギャフンとなるようなショックな感想を
もらうこともあるし
(ま、それは勉強になるのだが)、
時々、報われる思いをすることもある。

最近の嬉しい反応を2つ。


1つ目のこと・・・

10年くらい前になるのかなあ?
「親友はじぶん」というタイトルの絵本?を
手づくりした。


私が文章を書いて、
知人の真島タケシさんという方が絵を描いてくれて
デザイナーの中村裕輔さんが構成してくれ、
その頃活動を共にしていた
「静岡市民総目利き化推進委員会」という街づくりの
仲間が製本を手伝ってくれた。

中学で相談員として活動していた私は、
その年の卒業生にプレゼントする目的で
作った。

内容は

親友がほしかったら、
まずは自分の親友になってみよう。
そのためには自分のことを
よく知ることが大切。

自分のことをよく知るためには、
いろいろな体験があるといい。
いろいろな体験は
客観的になれる時間を作ってくれ、
そのことは自分を確認できることと
繋がる。

まず、体験は他者との出会いを、
自分にもたらす。
他者と出会って、
その他者との違いや共通点などから、
自分が見えてくる可能性があるのだ。

また、いろいろな体験をすると、
自分の中にいろいろな感情が生まれる。
そのことからも自分が見えてきやすい。
たとえば、
自分の作ったものをばかにされ、
すっごく悔しくなったとしたら、
そのものがめっちゃ大切だったか、
あるいは自分は他者に認めれたい
思いが強いか・・・って
考えるきっかけになる。

そうやって自分のことを知って、
親友にみたいに思えると、
自分のことを大切にできるようになれそう。
そして、自分のことを本当に大切にできて
初めて
他者のことを大切にできるようになる。

・・・

みたいなもの。

この絵本をパワポーイントにしてあって、
ある中学校で学校保健委員会の講師をつとめた時、
読み聞かせした。
昨年の6月だ。

昨日、その学校の職員の方から、
その中の一部をお便りに使ったという連絡をいただいた。
↓の部分。


こういう反応って、
なんて嬉しいんだ!!!と思った。
私の作ったものが
その方の目の前の子どもたちに必要なものとして
使ってもらえること!!!

さらにそのお便りは、
あるクラスの先生の目にとまり、
その先生の目の前の子どもたちに必要だと
その先生が考えられて、
学級たよりに掲載してくれたものも、
同封いただいた。


他との出会いは、
エネルギーがいる。
でも他と出会うからこそ、
得られることの大きさは
はかりしれない。

そのことを、
その先生方が伝えたい!って思ったとき、
役立てたかもしれないこと。
よかった。



2つ目。
9月の終わり、ある高校で講演をした。
この高校は日常、活動はしていないが、
講師として依頼くださった。
「心の健康」についての講演をしたが、
昨日、感想が届いた。

これは中学校でやっている、
まず生徒に「心の五七五」を書いてもらい、
それを私がカテゴライズして
心の健康に結びつけて話すものの、
高校生バージョンだ。

その中の2枚にめちゃくちゃ励まされた。

「紙には本音が書けると思った。
 なので、紙に書くことは良いことと
 思った。(途中略)
 (今日の話は)今までの自分には無かった
 考えだったので、いろいろな話を聞けて
 とてもよかった」

この方に、他の人の個性的な五七五が
届いたということだと思う。
そして本音を表現することのすっきり感や、
他者の本音を知ることも、
それほど怖いことじゃない
って分かってくれたように思う。
また、彼が今までは、
もしかしたら「書く」ということを
あまりしてこなかったかもしれないけど、
これから、何か自分の中にぐちゅぐちゃとした
想いがたまってしまった時に、
書いてみるという選択肢ができたとしたら、
すごくいいなあと思う。

高校生ってすごいなあと思うのは、
頭の中に自分にとって必要な言葉を
メモっておいてくれて、
それを、結構正確に感想に書いてくれていること。

ポイントになる言葉は、
パワーポイントで作ったものに映しながら話したから、
目からの情報もあって、覚えやすかったのかな?
この表れは、7月に行った高校でも、
そうだった。
このあたりは、中学生と違うところだ。


もう一枚の感想。
「自分たちが作った川柳を使って
 話してくれたので、
 珍しく眠くならなかったし、
 面白くて笑えたし。
 こういう講話だったら
 自分のためにすごくなるし、
 いくらでも聞いてられるなって
 思いました」

ありがたい感想!!!


この生徒たちが作った五七五を使った講話は、
実は準備が結構時間がかかる。
カテゴライズすることや、
それをタイプすること、
話の流れは作品が集まらないと作れないし、
かといって、子どもたちが作品を作ってから
講話まで長く時間があいてしまうと、
生徒たちの「今」を捕まえられない。
だから、大変なんだけど、
でも、プログラムができていくプロセスを含めて、
実はめちゃ楽しい。
生徒の作品に笑ったり、泣けたり、
感心したり、はっぱかけられたり。
当日も緊張はするけど、
一枚一枚、いろいろな想いをもって
選んだものなので、
それを作った生徒と対話しているように
話せる気がする。

だから、この高校の校長が、
講演のあと言ってくれた言葉
「ライブ感があった。
 生徒たちとやりとりしながら
 すすめている感じがあった」
は、私にとって最高の褒め言葉だなあ。



・・・というふうに、
試行錯誤しながらの
子どもへのプログラムだけど、
続けていると、
時々、報われる。
べつに私が報われることが目的じゃなくって、
なんとか子どもが安心して生活してもらえる
ようになればそれでいいんだけど、
それでも、こういう瞬間は、
やっぱ、嬉しいなあ。





 
author : tanizawa-k
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あふれてしまいそう。

【2014.10.06 Monday 18:54
小学生への「心の健康」の授業のことを考えていて、
このことが必要なのは、大人も同じだと
つくづくと思う。


「悲しい気持ちや、
 心配な気持ちや、
 怒りの気持ちなどが、
 心の中にいっぱいになってしまうと、
 誰かにぶつけたくなってしまったりするもの。

 できるだけ、そういう気持ちにならない
 ようにしたいけど、
 人間、そんなにうまくはできない。

 大切なものをなくしたときには
 悲しい気持ちになるし、
 うまくいくかどうかわからないことが
 あれば心配になる。
 自分にとって大切なことを
 どうでもいいようにされたら腹はたつ。

 そういう気持ちになりたくない
 って思ってても、
 なってしまうことだってある。

 そういう気持ちになるのは、
 防衛本能が働いているってこと。
 気持ちは命を守るための
 からだのはたらきだ。

 だから
 そういう気持ちになることは
 悪いってことじゃない。
 でも、ためるってことは、
 なるべくしないほうがいい。

 問題なのは、イヤな気持ちを
 感じることじゃなくって、
 そういう気持ちを繰り返し感じて、
 ためてしまうこと。

 ためないようにするために、
 どうしたらいいと思う?」

みたいなプログラムを、
どんな事例を使って、
どんな例えを使って
話そうか、
考えた。

「どうしたらいいと思う?」
と問いかけると、
子どもたちは、
ストレス解消法のことを
考えるかもしれないな。

もちろんそれもいいだろう。

あるいは、問題に立ち向かおうと
する子どももいるだろう。
悲しみのもと、心配のもと、
怒りのもとの
問題を解決するために
自分にできることを考えて行動するってこと。

それはすごいことだと思う。

それらにプラスして、
誰かに、
その心の中のことを話すって
アイディアが出てきてくれるといいな。


そんなふうに思う。


このことが必要なのは、
大人も同じだ。

大人になると、
心の中があふれてしまいそうでも、
上辺を取り繕ってがんばって仕事していたり、
そこにある問題に手をつけてしまうと
日常に支障をきたしそうで、
先送りすることでなんとか日々を生きていたり、
そうやって、
必死に
今日を過ごしている方も多いと思う。

そういう時に使ったストレスの解消法が、
依存になってしまいそうで、
そのことで新しい心配事が
おそってきている人も
いるかもしれない。




あふれてしまいそうで、
爆発してしまいそうで、
誰かにぶつけてしまいそうで、
それでも
飲み込む、いろいろな思い。



それらを安心して
吐ける場があるといいな。

口からやっと出した想いを、
大切に扱ってもらえる場が、
いろいろな人にあるといい。

じゃまされず、
ただただゆっくり
聴いてもらえる場が、
さくさんの子どもや大人に
あるといいよ。

あふれだしそうな想いを
誰かにわかってもらえたら、
どんなにすっきりするだろう。


子どもにも
大人にも、
「わかってもらえた!」という経験は
必要だ。

その経験は、たくさんあればあるほどいいし、
その経験をした人は、
誰かをわかってあげられる人になる可能性大。



「わかってもらえた!」という
その瞬間、
あふれだしそうに重かった
心の中のバケツは、
ずいぶんと軽くなると思う。






 
author : tanizawa-k
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谷澤 久美子
counselor