2014年03月の記事 | 今のところではありますが…
「明るい未来の楽校」

【2014.03.29 Saturday 19:03
今日は
「明るい未来の楽校」という、
大道芸ワールドカップin静岡が運営する
街づくりの人材育成のための「楽校」の
公開プレゼンテーションに
ゲストコメンテーターとして
参加してきた。

いやあ、感動した。
35歳以下の方々の学びの場だということだが、
静岡の若い方々の、
未来を思う熱意のようなものが伝わってきて、
泣けた。(←しかも、コメントの途中で!
       マジ、恥ずかしすぎるぜ)


中山間地の問題と街なかにある問題を、
「土間」をテーマに解決していこうという
チーム。

人々のもつ「スキル」とそれを求めている人を
マッチングさせていくことで、
静岡を楽しくさせようというチーム。

日照率4位。いわば「おひさまのおまち」静岡。
ひなたぼっこすることをすすめるチーム。


多様性を認め合える街は「生き心地が良い」街。
静岡をそんな街にするために、
アートと子どもたちを繋げる仕組みを作りたい
というチーム。


4チームともよく考えられた提案だし、
プレゼンテーションにも工夫があったし、
とってもおもしろかった。



ところで、なぜ私がゲストコメンテーター?
理由はよくわからないが、
静岡市の人材育成塾と関係があることは
多分理由のひとつだと思う。



17年前のこと。
静岡市には
人材育成塾「ヒューマンカレッジ」
という事業があり、
私はその4期生として学んでいた。

入塾した理由は、2つ。
ネットワークを広げたいことと、
その少し前に義理の姉が誘ってくれた
生涯学習系の学びの場がおもしろくて、
そういう学びをほしかったこと。
つまり「自分のため」だった。

この塾は、とにかく講師陣が
めちゃくちゃおもしろかった。
トレンドスポッター砂川肇さんは
提出した企画書に赤をいっぱい入れて返して
くださった。
竹中ナミさんは、「チャレンジドを納税者に」
という活動をされていて、
障がいをもった方々が自立するしくみを、
塾の後の飲み会でも熱く語ってくれた。
人類学者の竹村真一氏、
安藤忠雄さんの双子の弟さんの北山孝雄さん。
なんと、「地球交響曲」の龍村仁さん。
今考えると、ありえない講師陣に3ヶ月間、
毎週水曜日、教えてもらった。

しかも、海外研修まであった。
(私たちのチームは、
 オランダのアムステルダム
 スイスのバーゼル、
 ドイツのフライブルグを廻った)

その後、3ヶ月かけて
チーム別に、
静岡市に対して政策の提案を考え、
市長に対しプレゼンテーションして
卒業したのだ。

私はこの学びの中で、
大きく変わった。
それまでは、
自分と
自分の周りの人の健康と成功と幸せのみを考えていたが、
そんなこと、とんでもない!って思った。
それは本当の幸せではないって分かった。

ちょうど、実家の家業を廃業する時期と
重なっていたので、
この変化した私の考えは、
私の今の仕事に繋がっていった。

「自分のため」に入塾したが、
卒業する時は、
「どうやったら社会に貢献できるか」
というテーマが与えられたような
感じがした。


その後、
「ヒューマンカレッジ」は
「まちづくりの学校/コラボ」と名前を変え、
その3期ではアシスタントを務めた。

コラボ3期の講師のお一人
飯島ツトムさんの言葉、
「議論する。話し合うってのは、
 アイディアを交換すること」
は、目から鱗の考え方だった。
話し合うとは、どちらの意見が正解なのか
決めることだと思っていたからだ。
そして、この言葉は、
今の私の
コミュニケーション・トレーナーの仕事の
礎となる言葉だ。


そんなふうにたくさんの学びと、
人脈と、体験を与えてくれた、
静岡市の人材育成塾。
その流れをくむのが「明るい未来の楽校」なんだ。


今回のプレゼンの中で
早速イベントを企画したのは
「おひさまのおまち」を提案したチーム。

彼らのプレゼンを聴きながら、
思い出したことがあった。


フランスのオランジェリー美術館に行ったとき、
その近くの公園で、
一人の若い女性が、
ひとつの椅子に座り、もうひとつの椅子に足をのせ、
ゆったりとひなたぼっこしながら
本を読んでいて、
その雰囲気がすごく気になって、
いつか私もそうやって読書しよう!
って決めた。
で、何年かたって、
すごく天気がよくって、めちゃ暇だったある日、
図書館に本を返しにいこうと歩いていて、
公園を通りかかったときに、
「あれ!待てよ。私、あれ、やってないじゃん」
って思い出したんだ。

そんなふうに、
「おし!」って腰をあげないと、
つまりがんばんないと、
ひなたぼっこもできない
余裕のない自分が、
すごく悲しくなった。

今日はプレゼンを聴きながら、
そのことを思い出して、
ひなたぼっこが
すごく楽にできるような社会って、
やっぱいいわって、思ったんだ。

4月19日に、
大浜公園でイベントをするらしい。
残念ながら私はその日東京だけど、
イベントが成功して、
青葉シンボルロードで、みんなで
ひなたぼっこする日に繋がるといいなと
思う。


どのチームも、
もともと静岡のもっている、
光が当たってないものを掘り起こして、
そこに新しく価値付けをして、
未来に繋げる発表をしていた。

それぞれの企画が実現するといいと思うけど、
たとえ実現しなくても、
「楽校」で学び考え議論した日々は、
彼らの財産になると思う。
そしてきっと私と同じように、
静岡のことを考えれば考えるほど、
静岡をより大事に思えるようになったのではないか。

得たものは、きっと大きいんだろうな。
だとしたら、
それを企画の実現というカタチではないとしても、
恩送りしていってくれるといいなって思う。

もちろん、私も恩送りの途中。







 
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2014年度へと。

【2014.03.29 Saturday 09:55

本当にお世話になった先生が、
この3月31日で定年退職される。
その学校の職員の送別会に参加した。

その先生とは、
とても大きく難しいことを
一緒に乗りこえたと思う。
心の底から「お疲れさまでした」と伝え、
ご一緒できた感謝も伝えることができたこと、
ほんとにほんとによかった。

また、
普段学校の中の活動では、
お互いにあまりにも忙しくて、
話すことができない先生とも、
ゆっくり話すことができて、
とてもいい時間だった。

強面の先生が、
3月に送り出した子どものことを
「あいつ、やっていけるかなあ。
 やっていってほしいなあ。
 いや、いける」

顔を思い浮かべているような目で
話してくれたり、

すごくクールな雰囲気の先生が、
私のかかわっている子の名前をあげ、
「谷澤さん、あの子は、
 いいお母さんになれるでしょうか?」
と話しかけてくれ、
(私は『いいお母さん」の定義がわからないので、
 そこをきいてみたりしたんだけど・・・)
その表情が優しさでいっぱいで心が温まったり。

こういう時間が日常の学校の活動の中でも
持てるといいなあと思った。


学校の中で先生方と話すことは、
子どもに現れている問題そのもの
(たとえば、学力の低下や生活の乱れなどなど)
に対してどう関わっていこうかということが
どうしても多くなる。
それも大切だけど、

子どもを真ん中にして
一緒に支え合おうとする先生方の、
教育観や人生観、つまり価値観みたいなものを
じっくりと聴ける機会が、
こういう場が主ってのは、
ちょっとさみしい感じがするなあ。
で、
こういう場で話せるのはお酒の力もあるかもしれないけど、
どっちかっていうと時間の問題だと思う。
時間の問題とは、
先生方に課せられている仕事の問題だと思うな。
常に
やるべきことでいっぱいだ。

私自身も、
学校の中では、
やるべきことが次から次で、
やったほうがいいことは後回しに
せざるをえないことが多い。

困ったことだ。



ところで、
今週の水木で傾聴の研修にいってきた。
年に一回以上、
自分の学んできた方法ではない研修を
受けるようにしているが、
今回の岩松正史さんが教えてくれる傾聴の研修も、
とてもとてもよかった。

スキルはあるけど、
そのスキルを絶対視してない、
岩松さんの伝え方が気持ちよかった。

聴くって行為は受け身な感じがするけど、
実に積極的に相手を支える行為だ。

ちゃんと聴いてくれる人がいることで、
問題が明確になっていったり、
ひとつもアドバイスをもらわなくても、
解決方法の選択肢を自分の中にもってきたことに、
気がついたりする。

岩松さんは、
話し手が、もし悩んでいたら、
「ゆっくり悩める場所を作ってあげよう」
とおっしゃっていた。
そういう聴き手になりたいよなあ。




質問に応えるカタチで
岩松さんがおしゃったことのひとつは、
新年度の私の活動の「やったほうがいいことリスト」
へのプレゼントだ。

 目の前にマシンガンのようにしゃべる人、
 人の話を聞かない自分勝手な人がいると、
 その人を変えたくなってしまうかもしれないけど、

 その人をコントロールしようとする目的ではなく、

 「それだけ話さなくてはならない何か」をもっているその人を、
 まずは自分が分かってあげられる人になってみよう。

 その人の話を傾聴の方法で聴いてみよう。

つまり、相手を変えたくなってしまう時ってあるけど、
そういう時は、
まずは自分ができることをしよう。
そのひとつの方法が傾聴って訳だ。


私の活動の中での、
子どもを支える先生を支える、という面でいえば、
わざわざカウンセリングルームに来ていただいて・・・
というんじゃくって、
職員室の、その先生の横に座って、
何気なく話を聴かせてもらう、
そういう時間を持とう。
「時間がない」というのは事実だけど、
工夫して、ちょっとだけでもやってみたい。

これを、2014年の「やったほうがいいリスト」に
加えとこう。



新年度から、
活動場所が増える。

年間のスケジュールを
MacのiCalに書き込んで、
しげしげながめると、
ひとつひとつが私の選択した、
大切な仕事だ。

とはいえ、この月ヤバいんじゃない?という月もある。
相当の混乱が予想できちゃう月。

それも私の選択だ。


また、新年度は自治会の組長を担当する。
今日、今年度の組長さんが来てくださって
引き継ぎをした。
今までは義理の両親がやってくれていた仕事なので、
私たち夫婦は初組長。
まったくわからない私に、
今年度の組長さんは、
ちゃんと書類を作ってくださってあって、
丁寧に教えてくれた。
細かい決まり事ややるべき事がたくさんあって、
大丈夫か?私・・・と思うけど、
なんとかやっていこうと思う。



今回学んだ「傾聴」も、
私が今までやってきた「聴き方」も、

ありのままを受け止めて、
目標をもってやるべきことをする
「建設的な生き方」も、

自他尊重のコミュニケーション
「アサーティブ」も、

学び始めた「ロゴセラピー」
(どんな時も人生には意味がある)も、

他者にその方法を伝える前に、
自分が実践できていないと意味がない。

タフな一年となりそうな2014年度だからこそ、
実践の機会は日常の中に、
いっぱいあるんだろうな。


弱音も吐きながら、
時々は凹みながら、
いつもやる気いっぱいでなくても、
やっていきたいものなんだよなあ。











 
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ショートがダメでも、フリーがあるさ。

【2014.03.24 Monday 19:32
今年度、たくさんの講演、講座を行った。
子どもたちへの授業も、
小学校5年から、中学生、高校生、大学生と
いろいろ行った。
嬉しい感想をたくさんいただいた中で、
小学校6年生の男子からの一枚の感想が、
とってもショックだった。

その授業は「心の健康とは?」と題したもので
内容は、
「腹が立つ、くやしい、緊張する、心配になる。
 面倒だと思う。やる気がでない。
 そういうことがあっても、
 心が不健康って訳じゃない。
 そういう気持ちになったとしても、
 そのときそのとき、やったほうがいいことを
 やりながらいこうね」
というようなものだ。

いつも活動している学校ではなかったので、
担当の先生といろいろ打ち合わせをする中で、
自分勝手なふるまいをする男子が7〜8人いる
ことを伺った。
授業に関係ないことを大声で話したり、
立ち歩いたり、
他の子にちょっかいを出したりするかも
しれない・・・。
ということを伺っていた。

しかし、
ま、私は彼らに必要な授業をするだけだと、
6年生に対して、普段行っている授業を行ったのだ。

その結果、
たくさんの感想の中で一枚、
「よくわかんないです!
 全くいみがないと思います。
 (本当です)」
というものがあったのだ。

私はこういう感想をもらうのは初めてだった。
(そういう感想をもった子どもが、
 これまでもいたとは思う。でも、
 そんなふうに書かれたものがあったとしても、
 きっと担任の先生が省いて私に渡してくれたか、
 そう思っても、そう書かなかったか・・・)

その感想は、最初はめちゃショックだったけど、
よく考えてみれば、それは言われて当たり前の感想
だったってことに、すぐに気がついた。

私は、担当の先生に、いろいろ伺って、
その学年のその子どもたちの情報を
いろいろいただいていたのにもかかわらず、
6年生に、普通にやってきた授業を
そのままやったのだ。

目の前の、その子どもたちに向けての授業ではなく、
一般的にやってきた授業を、
昨年の6年生にやった授業
(その学校は毎年呼んでくれtる)を、
そのままやったのだ。

伝わらなくって、当たり前だ!と思った。
めちゃ反省した。
その一枚の感想は、私の甘えを砕いてくれた。



その同じ学校の同じ学年に、
もう一度授業するチャンスをいただいていた私は、
2回目は
「中学校生活に対する不安や期待について」話す予定で、
アンケートを取っていただいた。

中学校生活への不安、期待を、質問したものだ。

私は、今度こそ、
この、
目の前の、
今、まさに、授業を受けてくれようとしている、
その子どもたちへの授業をしようと思って、

アンケートを分析し、
プログラムを考えた。

その授業の最初で、
前回の授業の件を詫びた。

「前回の授業で、
 よくわからなかったと書いてくれた感想があった。
 それは私が、みんなに対して授業を組み立てた
 のではなく、
 昨年の6年生にやったものを同じものをした、
 その準備の足りなさが原因のひとつだと思う。
 ごめんなさい」

子どもたちはしーんと聴いてくれていた。



くしくも、
その授業は、
「失敗」の捉え方の授業になった。

というのは、
みんなの書いてくれた不安と期待は、
背中合わせで、
たとえば、
「部活で先輩と上手につきあえるか」
と不安を書いた同じ子が、
期待の欄には
「部活をがんばりたい」
と書いている。
不安の欄に
「授業がむずかしくなるのが心配」
と書いている同じ子が、
「社会が歴史と地理にわかれるのが楽しみ」
と書いている。

期待が大きく、
がんばりたいと思うからこそ,
不安や心配はわいてくる。
がんばりたくって、期待があるからこそ、
失敗、うまくいかないと困るという考えが
あって、
それで不安や心配になると思う。

もちろん、不安や心配は悪い気持ちではない。
でも、できれば、
不安や心配が小さい方が気持ちが楽だから、
「失敗」のことを考えてみよう!

と授業をすすめ、
コミュニケーションのゲームを体験してもらい、
正解を出すのに、間違った答が大切なヒントに
なることを確認した。

さらに、
私の知人の受験生の話を紹介した。
彼女は今年、大学受験に挑んだ。
一時間目に物理の試験があった。
物理は得意なはずなのに、大失敗。
思ったように問題が解けなかった。
ショックだし、がっかりだし、
どうしたらいいか混乱したが、
そんな彼女の頭に中に、
母親の言葉が浮かんだそうだ。

彼女の母親は、浅田真央選手の大ファン。
ソチのビデオを繰り返し、涙を流しながら見ていて、
見ながら呪文のように
「ショートがダメでも、フリーがあるさ」
と何回も何回もつぶやいていたんだそうだ。

彼女は
「物理がダメでも、数学があるさ」
とつぶやいて、
次の時間の数学に挑み、
今まで史上最高に解けたんだそうだ。
(ちなみに彼女は、
 めちゃくちゃ難関大学に見事合格!)


「失敗」は、
正解を導き出すために、時には必要な資料となる。
「失敗」は、
もう一度、挑戦するための意欲を
与えてくれるものでもある。
「失敗」が、
人を強くし、考え深くし、優しさを育てる。
「失敗」は、
目標やめざすものがある人のもとに、時々やってくる。
「失敗」は、
自分にとって大切なことは何か、再確認させてくれる。

そして人が「失敗」から立ち上がる姿は、
周りに、何にも変え難い、素晴らしい影響を
与える。

何かをすれば「失敗」するかもしれない。
でも、だからって挑まなければ「成功」もない。

そんな授業となった。



その授業をしながら、
あの一枚の感想が、
私の中で、
どんどんどんどん宝物になっていった。

その感想は、
私のパソコンの前に貼ってある。
私って、すぐ忘れちゃうからね。











 
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意図を汲み取ってもらえると。

【2014.03.22 Saturday 17:22

何日か前に、仕事場で、
ほんのわずかな時間、
2歳半くらいの女の子の面倒をみることがあった。

あんぱんまんの絵を描くと、
まねをして○を描く。
○を描き終わるとボールペンをノックして、
「おしまい」と言う。

本当にかわいらしって、微笑ましい、
柔らか〜い時間。

ふっと気付くと、
私のメガネがない。
引き出しをあけて、バックの中を探してもない。

トイレに忘れてきたのかな?
前にいた場所の机の上においてきてしまったかな?
と思って、
彼女に
「めがねがないから探しにいくので、
 ついてきてね!」
とお願いして探し始めた。

どこにもなくて、
ま、しかたないか・・・と一旦あきらめた。
もしかしたら、家においてきてしまったかも・・・
と考えて、
他のことをし始めた。

一人でまた絵を描き始めていた彼女は、
少しすると、
私のそばにきて、
私のバックの入っている引き出しをあけて、
その中を見始めた。
ペンケースをあけようとする。
おさいふを開けようとしている。

私は、それは触っちゃだめだよ!と言おうとして、
彼女が小さい声でつぶやいている言葉を聴き、
言うのをやめた。

「めがね」「めがね」「めがね」「めがね」
と何度も何度もつぶやいている。
彼女は私のためにめがねを探そうと、
私のバックの中の、
ペンケースや
ペンケースの中の印鑑入れや、
おさいふや
ティッシュ入れを開けていたんだ。
ハンカチをひろげ、
名刺入れの中をみて、
めがねを探してくれている。

私は、優しいなあと、なんだか心の中が暖かくなった。
じ〜んとした。

そして、
「ありがとね。
 めがねを探してくれてるね。
 ほんとありがとね」
と言ってから、
「でも、もう、いいよ。
 きっと、別のところにあると思うから、
 あとで探すね。
 一緒にあんぱんまんを描こう」
というと、
心配そうな顔をしたけど、
またボールペンをノックして、
○を描き始めた。




保護者の方を対象に、
子育て講座などで、
「したことを認められて育つと、
 子どもは目標をもつのはよいことだと
 思えるようになる」
ということを話すことがある。

その時の彼女との時間は、
その事例として、
きっとわかりやすいのではないかと思った。

その時、私が、心に余裕がなくって、
何かにあせってたり、
何かにしんどい想いをしたりしていて、
他に気になることもいっぱいな中だったとしたら、
急にバックをさわられてしまったり、
おさいふを開けようとされていたら、
きっと「だめ!それは触っちゃダメ!」
と言ったと思う。

そしたら、
彼女にとってみたら、
せっかくめがねを探してあげようと思ったのに、
なんかわからないけど、注意された、怒られた・・・
というイヤな経験になったと思う。

そのようなことが繰り返されたら、
誰かのために何かをしようと思えなくなる可能性
があるかもしれない。
やってあげた方がいいことを思いついても、
しない方が安全って思うようになる可能性も
あるのかもしれない。
そのうち、思いつかなくなる可能性も、
あるかもしれないなあ。


そう思うと、
子どもと関わるいろいろな大人たちが、
ちょっとでも余裕がある、
そういう社会を作るための整備は、
本当に、本当に大切なことだ。


 もちろん、四六時中一緒にいる親だとしたら、
 頭では分かっていても、
 感情的になってしまうことはあるだろう。
 それはそれで、それが親子ってものだと思う。
 でも、時々は、
 子どもの意図を組みとってあげることって、
 すごく大事だと思おう。




同じ日に、
ネットでベビーシッターを依頼した母親が、
非難されている記事を読んで、
気持ちが沈んだ。

ネットで子どもを預ける場、人を探すしかない状況。

安心して預けるには、ある程度の経済的負担が必要で、
時間的な制約を飲むしかない、今の状況。
そんな中で、ネットで探すことを
選択するしか方法がなかった母親を追い込むような
発言が出る現状。

預かる方も、正規の仕事であっても所得が少なく、
自分の生活がぎりぎりで、余裕がないがための、
瀬戸際の選択で始めたことだとしたら、
(もし虐待があったとしたら、
 どんな理由があるにせよ、それはダメだが)
そういうネガティブなスパイラルを、
どこかでなんとかしなくては!だ。




ひとり親で、
子どもを育てあげた知人が、
「どれだけ周りに助けられたかわからないけど、
 それも、奇跡的になんとか、
 みててくれる人をぎりぎり繋いで、
 やっとだった」
と言っていたことが忘れられない。



まずは、安全に、安心して子育てができること。
その次に、
子どもの小さなつぶやきを受け止められること。

子どもに関わる大人が、
せめて、自分の子どもとのかかわりを振り返られるくらいの、
そういうことが意識できるくらいの余裕をもってもらえるような、
社会になるといいのになあ。


その先にあるのは、

目標のある人や、
今は目標はみつからないけど、
目標をもって生きるってなかなかいいかも。みつけたい!
って思える人がいっぱいいる世の中なんだろうな。



で、結局、
めがねは、
なんと、
家にあったのでした。
だらしないとこ、どうにかしようよ!自分。










 
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また会う日まで、がんばろうね。

【2014.03.16 Sunday 02:17

2013年度、静岡で開催のアサーティブカフェは、
3ヶ月に一度のペースで、
本日4回目を終了。

今日のテーマは「自己信頼」。
9時30分〜17時まで一日かけての講座。

 (以下、「〜〜」はオープンokの方の感想)

午前中には
自分の周りの人間関係を図にしてみることに
取り組み、
さらに、その中から見えてきた
解決したい事柄を
アサーティブに伝えるための
ロールプレイにトライ。

「ロールプレイの時には両親へ伝えたい
 ことについてトライしましたが、
 自分の感情や自分がどうしたかを
 伝えることで、話がわかりやすく、
 伝えやすくなりました。
 やはり相手にどう変わってもらうか
 ではなく、自分発信だなあ・・・と
 再確認しました」

「当初からの課題だったボディランゲージが
 自然に気をつけられるようになっていました。
 やはり毎回フィードバックをもらって改善点を
 言ってもらえているからこそ、気をつけられる
 ようになったと思いました」

「毎回思うのですが、
 ロールプレイでのやりとり、
 勉強になりました。
 伝えることをまとめて言葉にすると、
 違う気持ちが芽生えたり、
 相手の気持ちも受け取れたりします」

「ロールプレイを行うことで、
 自分ひとりでは解決が難しかったことが、
 メンバーの力をかりて、
 アサーティブに伝えることができそうです。
 さっそく月曜日にチャレンジしたいです」



午後は、しっとりと自己信頼に取り組む時間。

今回のカフェでは、
皆さんに宝物をもってきていただいた。

宝物についてスピーチし
その後、そのことについての感想を
その方あての手紙にして書き、渡した。

自分以外の参加者全員から、
温かい手紙をもらった皆さんの表情は、
とってもとってもステキ!!!

「みなさんの『宝物』良かったですね。
 『宝』は、その方の今まで歩んできた
 人生そのものだと思いました。
 自分の『宝物』へのみなさんの言葉、
 嬉しいものですね」

「『宝物』の話がとてもよかった。
 いつも以上に、『みんながんばっている
 んだな』と思えて、勇気づけられました。
 自分の話を否定されることなく、安心して
 話せる場所って本当に大切。
 私は自分の見た目とか顔立ちとかキツメ
 だと思っていてあまり好きじゃなかった
 けど、みんなのメッセージの中に
 『ふんわり』とか『優しい』とか
 『おだやか』とかあって、とてもうれしかったです。
 みんな、ありがとう」

「午後の『宝物』の話、すごく良かったです。
 みんな自分の言葉で話す姿がステキでした。
 人に歴史あり!ですね。
 自分に誠実に話すこと、やっぱり大切です」

「みんなの宝物の話を聞いて、私もとても幸せな
 気持ちになりました。深い深い思い出があって、
 泣きそうになった話もいっぱいありました。
 皆さんからいただいた一言も、温かい言葉ばかり
 で、胸いっぱいになりました」

「宝物への皆のコメントを読んで、心の中が
 ほっこりしました。なかなかこういった事を
 言ってもらえる機会がないので、
 本当に嬉しいです。ありがとうございます」


皆さんの宝物は、
皆さんそのもの。
そして、大切なものを、大切にできる時間って
素晴らしいし、
それこそが自分を大切に扱っていることだって、
そう思った。

ある方は、何を宝物として紹介しようか迷い、
参考までに夫の宝物は何か質問してみたそう。
「あなたの宝物って何?」
すると、彼は、その方を指差しながら、
「エッ?あなた以外に?」
と。

なんてステキな会話!!!

その場面を含めて、
宝物。


「ここ一ヶ月くらいとても落ち込んでいました。
 この一年本当にがんばってきたと思うけど、
 私のしたことは、仕事の関係者にとって
 最善のことだったのかーやっている時は
 そう思っていたがー、ここへきて分からなく
 なってしまいました。
 でも今日みんなと一日過ごし、自信を
 少し取り戻すことができ本当によかったです。
 自分の考え方、しようとしていることが
 良いかどうかはやっぱり分からない。でも
 今の自分にとってそれが最善の方法だと思う
 ならば、もう少し自分を信じてみようと
 思いました。もし自分がとんでもなく
 おかしなことをしたとしたら、きっと
 『それ間違ってない?』と教えてくれる仲間が
 ここにいるかな・・・と思いました。
 私へのメッセージはくせになりそうです。
 『もっと言って!』と  」



ああ!みんながんばっている。

思い通りにいかないことは多いし、
家族のことで心配もある。
体調がふるわない日も、
仕事に追いまくられる日もある。
失敗や間違いが重なることも、
情けなくなってしまう時だってある。

そんな人たちが
楽しく集まることができて
安心して話せる場!

私にとっては、
そういう場が宝物。


2014年度も3ヶ月に一度の
アサーティブカフェは継続します。

日程は、
6月14日(土)13時15分〜16時45分
9月13日(土)9時15分〜16時45分
12月20日(土)13時15分〜16時45分
2015年3月14日(土)9時15分〜16時30分

3月20日から募集を開始します。




*カフェの前に、基礎編で学ぼう!
アサーティブ・トレーニング基礎編in静岡
お知らせは


*このウェブサイトは、
NPO法人アサーティブジャ パン認定講師である谷澤久美子が個人で開いているホームページです。このウェブサイトに関する全ての責任は谷澤久美子にあります。NPO法人アサーティブジャパンが運営・管理しているウェブサイトではありませんので 予めご了承ください





 
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それは理屈じゃない。

【2014.03.13 Thursday 22:27

3月11日の朝のNHKの連ドラ「ごちそうさん」。
終戦の日に疎開先から戻っためい子に、
もう一度疎開先に戻るように説得する義理の妹に対して、
めい子が言う。

私はここにいたい。
ここで戻ってくる家族を迎えたい。
私はここにいたい。
それは理屈じゃない。

この言葉を3月11日にもってくること。
そのために、
このドラマを制作している人たちには、
どんな苦労があって、
どんな葛藤があっただろうかと
考えた。

地震や津波や原発事故で被災された方々は、
めい子の言葉に、ある方は共感し、
もしかするとある方は反発されたんだろうな。

そういうことも分かりながら。
それでもその日に、
この言葉をめい子に言わせたことの意味。

3年目の3月11日。



ある小学校の卒業式での合唱曲。
「おそすぎないうちに」という曲。

♪今ある すべてのものは
 当たり前なんかじゃなく
  今ある すべてのものが
  奇跡的にあるとしたら
  君はどうやって
  それを守るだろう

 生きてる すべての人は
 なんとなくなんかじゃなく
  生きてる すべての人が
  ぎりぎり生きてるとしたら
  君はどうやって
 それを愛するだろう♪

1994年に中山真理さんという方が
作ったこの曲。
この詩の意味も、3月11日を経験した上では、
一層深くなり、一層意味があると思う。

どうやって守るかという問いに正解はなく、
物理的なことでいえば
防潮堤の高さや震災遺構を残すかどうかで
論争がある。
でもそれは物理的なことだけじゃない。

すべての人がぎりぎり生きているとしたら
という仮定は、
3月11日以後、遠い仮定ではなくなった。
理不尽なことは突然おきて、
ある日、あっと言う間に、
仮定が現実となる。

私はその小学校で
3月10日、6年生に
1時限授業する時間をもらったが、
一生かけて問い続けたい問いが、
この詩の中にはあることを話した。

話しながら、
頭の中で、
「12歳に話す前に、
 自分に問え」
と、もう一人の自分が
わめいていた。

新聞で読む、
震災や原発事故の影響を受けた
母親たちのこと、
子どもたちのこと。

「一時は混乱したが、
 学校の先生に紹介されて
 スクールカウンセラーに話をして、
 やっと落ち着いてきた」
という母親の話を読むと、
ここにこうしていていいのかと
思う。

どうやって守るか、
どうやって愛するか、
迷って悩んで、
ぶれまくる私。

迷っているからだと思うけど、
3年目の3月11日は、
テレビの報道が
苦しかった。

目をそむけたくなって、
そして、
そういう自分もイヤだった。

自分のことがイヤになりながらも、
そうやって
私もぎりぎり生きていてると思った。


そうだよな。
私もぎりぎり生きている。

ぎりぎり生きてこの自分で、
目の前の、
やる必要があることを、
ひとつずつ、
たんたんと
丁寧にやっていくしかない。

問い続けながらも、
今やるべきことを
やっていくことだ。







 
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摩擦で熱を持たないうちに。

【2014.03.10 Monday 09:49
毎日新聞のコラム「診察室のワルツ」を
楽しみにしている。
6日付けでは岡本佐和子さん(医大の助教授)の
医療の現場での
コミュ二ケーションについての話題だった。

「よく『高飛車な医師に何といえば
分かるのか』と聞かれますが、
コミュニケーション技術だけでは解決できず、
医師本人の気づきを引き出すような環境作りが
必要になります」
とある。

そして、
患者、看護師、医師、一人一人が
「相手が変わるべきだ」という考えから、
「自分のできることをする」という考えを
もつことをすすめている。

たとえば、患者はさんざん待たされ、
その間に、問診票に詳しく記入して
いたのにもかかわらず、
診察室に入った途端に
「どうして来たの?」
「なぜ熱を計ったの?」
など矢継ぎ早に聞かれると、
「問診票に書いた意味ないじゃん」
「待たせたあげく、何その横柄な態度」
となる。
看護師も医師に対して
「それはないだろう」と思っても
口に出すことはしない場合がほとんど。

その摩擦のあるコミュニケーションの解決を、
各々が自分のできることでしようというのが、
岡本さんの提案なのだ。
(もちろん、医師に対しての
 指導やアドバイスなども、
 充実させた上でだと思う)

まずは看護師にできることとして、
患者に
問診票に記入いただいたけど、
医師からも直接きかれることや、
医師は、意外と大雑把な質問の仕方を
するかもしれないことを
先に説明しておくなどの方法らしい。

アサーティブの講座の中では、
看護師として働いている方が、
同僚とのコミュニケーション、
医師とのコミュニケーションの問題で、
もっとうまく関係を作ろうと参加してくれる場合も多く、
たとえば、
何度進言しても患者に名乗ってくれない医師に
どう伝えればいいのかなど、
練習する場合もある。

でもこのコラムでは岡本氏は、
まずは自分が
「本日担当する看護師の○○です」と伝え、
医師が気がつかなかったら、
「担当医は◆◆です」と紹介すると、
患者への助けになると書いている。

なるほど!だ。

コミュニケーションで
貢献できることがあるとすれば、
これからはそうするつもりだということを、
医師に伝えておくと、
突然の変化に医師を驚かせ、
その後気まずくなる
なんてことをさけることができると思う。

「お忙しい中なので、
 もし、自己紹介されることを
 忘れてらしたら、
 これからは
 私が担当医ですと紹介します。
 患者さんに安心して受診して
 いただけると思いますので」
みたいな感じかな?


同じ、6日付けの毎日新聞の
読者からの投稿欄も
コミュニケーションに関する話題があった。

川崎市幸区に住む15歳(中学生)の
男子の投稿。

「そんなに優しくなかったか」
という見出し。
今川焼を買って帰った話を母親にしたら
「普通私の分も買ってくるでしょう。
 優しくないわね」
と呆れられた彼。
今までしてきたお手伝いのことも考える。
母は皿洗いしても、洗濯たたみをしても
「まだまだ足りない」とのことだ。
だったら、これから
もっとお手伝いをがんばろうと
考えながらも、
最後のまとめは
「また優しくないと言われたら、
 手伝いする気なくなります」
とある。

この母親の背景を考えると、
家事や育児やお仕事などで、
ばたばたされてる毎日なのかな?
ってちらっと思う。

高校受験の前などは、
インフルエンザにかからないよう除菌したり、
食事や睡眠のこと、
いろいろ気を使って、
精一杯応援してきたのに、
「自分だけ今川焼?
 しかもそれをわざわざ報告?」
といらっときたのではないか?

この親子の、
ちょっとした
すれ違うコミュニケーションって
おもしろくって、
せつなくなる。

私メーッセージで伝えれば、
「お母さんも食べたかったよ。
 ちょっと頂戴」
とか、
「次は
 お母さんにも買ってきてほしいよ」
だろうけど、
おもいっきり、
お手本のような
youメッセージ。
「やさしくないね」
そして
「まだまだ足りない」


ま、
物わかりが良すぎる親でなくっていいし、
だいたい、
この投書を出せる関係を作ってる、
このお母さんは、
考えてみればステキなんだけど、
それでも、
彼がお手伝いをもっとしてあげたい!
って思いやすいような関わり方ってのも
あるし・・・。
なんて思う。





いろいろなところで、
コミュニケーションのすれ違いは起こるけど、
みんな一人一人違うんだもの、
すれ違うのは仕方ないこと。
またすれ違えるのは、
かかわっているからこそだ。

かかわっているからこそ生まれる、
その摩擦、
できれば熱を持たないうちになんとかしたいよなあ。

日常には、そういうシーンがいろいろある。







 
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昔の映画が違って見えた。

【2014.03.06 Thursday 11:15
月曜、火曜とテレビで昔の映画を放送していて、
見た。
「追憶」と「クレイマー・クライマー」。

二本とも、若い頃に見たときと感じ方が違って、
自分でおもしろくなってしまった。

「追憶」は、
バーバラ・ストライザンド扮する
政治活動に熱中するケイティと、
ロバート・レッドフォード扮する
普通の大学生ハベル。
大学時代に出会った二人だけど、
正反対の生活をしている二人には
あまり接点がない。

スペインの国状に関して無関心な大学生に対する
ケイティの演説、
「私がこわいのは、傍観者だ」
に心動かされるものの、ハベルは
リッチな友達たちと飲んだり遊んだり
スポーツしたりして楽しむ日々。

そんな二人が第二次世界大戦中に
ニュ−ヨークで偶然出会い、戦後結婚する。
ハベルは作家、脚本家になり、
ハリウッドに移り住む。
ハベルを愛していて、
彼と共に生きるには
自分の信条を貫くことをあきらめるケイティ。
政治的な活動をしないことで
彼や彼の友達たちとの暮らしに
折り合いをつけてたが、
時代は変化していく。
ハリウッドで共産主義狩りが始まるのだ。

そうなると、
ケイティは自分の政治的信条を
押さえきれない。
子どもを身ごもっていたけれど、
二人は離婚をする。

何年かたち、ニューヨークの街中で、
偶然、二人は再会する。
チラシを配るケイティと
テレビの世界に入っていたハベル。
ハベルの隣には、
おだやかに微笑む再婚相手。

この映画を最初に見たのは、
多分、中学生の頃だと思う。

私はその頃、家の継承問題で悩んでいて、
自分のやりたいことと、
周りから押し付けられる価値観の狭間で
常に悩みを抱えていた。

だから、
自分を活かして生きることを選んだケイティを
自分のパートナーとして選ばなかったハベルに、
本当にがっかりした。

意見や主張などがあまり感じられない女性と再婚して、
その暮らしは穏やかだけど、
でも、何に対しても意見があったケイティを失ったことに、
ハベルには思い切り後悔してほしいって願ってた。
でも、どうやらそうではない、
なんとなく淡々としたラストシーンに、
やるせないような気持ちになったものだ。

私はケイティになりきって映画を見ていた。
その後、何度かこの映画を見ているが、
見るたびに、
やっぱりおもいっきりなりきって見ていて、
最後はいつも、
この女性のすばらしさを理解しないハベルに、
なんというか、
「狭い男だなあ」と考えることで、
自分を納得させていたと思う。

なんだけど、
今回、改めてゆっくり見て、
自分を押し殺していたのはケイティだけではなく、
本当は本を書くということに積極的ではなかった
ハベルが、
ケイティの期待に応えようとしていた姿、
つまり、折り合いをつけてたのは、
両方だったんだってことに、
ほんとに恥ずかしいんだけど、
初めて気がついた。
あまりにもケイティになりきり過ぎて、
見えてなかったんだと思う。

さらに、パートナーとして一生を暮らせなかったことに、
ケイティだけが残念な想いをもっていた訳ではなくって、
ハベルも、ケイティの自由な活動を支援できなかった自分に、
ちょっとした情けなさも持っていて、
でも、その一点だけはどうしても譲れない一点だったんだって
すごく分かった。


私は時々思い込む。
中学生の私は、
「周囲からの価値観の押しつけ」に、異常に反応し、
ソレ以外のところに目がいかなかったのだろう。
それ以後何度か見たけれど、
そういう映画として決めつけて見ていたから、
「思い込み」が働いてしまったんだろうな。


「クレイマー・クレイマー」も、
子どもを置いて出て行った母親が、
自分の都合で子どもを取り戻したいと
いうのはいかがなものか?
という映画だと思っていたが、
そんな善悪のストーリーでは全然なかった。
幼い頃の私は
「どっちが正義か」という価値観の
中にいたんだよなあ。

今見ると、
母親の苦しみも、すごくよく分かった。
彼女には彼女の背景があって、
子どもを残して家を出たときは、
そうせざるをえない結婚生活があった。
それまでのキャリアを捨てて、
夫が望む「妻」「母」を強いられることの
辛さ。

ただその辛さはすごく分かるけど、
もし、彼女にコミュニケーションの能力があって、
子どもを置いて出るという選択をするようになる前に、
少しずつ、夫の価値観も受け止めながら、
でも毅然と「私はこうしたい」という対話ができていれば、
どんなによかったかと思う。



本も映画もドラマも、
結局は自分の読みたいように読み、
見たいように見ている可能性がある。

主人公以外の人の事情や背景を描いているから、
少し広い視点でとらえられる本や映画でさえ、
私の場合、そうだったのだから、
自分の人生の中の出来事は、
結構な思い込みや考え過ぎや、決めつけがあるかもって、
分かっておきたいと思う。

私のように
そういう傾向が強かったから、
過去の出来事の検証を、
まあまあバランスがよくなってきた時点で、
やってみることをおすすめする。

もしかすると、すごく嫌な思い出の、
違う側面が見えてくるかも。
ただ、一人で検証するのも大変だから、
安心できる人と一緒だといいかも。







 
author : tanizawa-k
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本の中のモデル

【2014.03.01 Saturday 10:45
ダグラス・ストーン,ブルース・パットン,シーラ・ヒーン
日本経済新聞出版社
¥ 1,680
(2012-11-21)

この本は、以前、
「言いにくいことをうまく伝える会話術」
というタイトルで出版されていて、
それも読み、その第二版。
第二版が翻訳されて出版されてすぐに読み、
それからいつも手の届くところにおいてある本。

おもしろいんだけど、
第一版の本にも同じ事が書かれているのに、
スルーというか、マーカーはほとんど引かずに読んでいて、
第二版の方では、マーカーで真っ赤になっている箇所がある。

それが
第四章
(相手に)「責めを負わせるのはやめよう」の中の
「あなたにも責任があると考えてみる」という部分だ。
(第一版を読んでいた時は、
 まだまだ自分が「言えない」のは「受け取ってくれようと
 しない他者のせい」と考えていたのかもしれないな。
 だから「自分にも責任がある」って部分は
 都合が悪くってスルーしたのではないかと思う)


私はここに揚げられている事例が本当に好きだ。


アシスタントの女性が、
A社向けのプレゼンテーションへの荷物に
まちがったストーリーボードを入れた。
そのために、さんざんなプレゼンテーションと
なってしまった。
帰社後、アシスタントの女性に、
どうこの件を伝えるか、という場面だ。

方法1は
「あなたが準備してくれたボードが違っていたことで、
 ひどいプレゼンテーションとなってしまい、
 会社としてはとてもまずいことになった。
 以後、気をつけてほしい」
と冷静に伝える。

つまりこの方法1は、
この問題を引き起こしたのは彼女で、
彼女だけが悪いという立場に立った
発言になっている。



方法2は「自分にも責任があると考えてみる」
を使った方法の紹介だ。

上司
「今回、荷物に違うボードが入っていた。
 とても困った。
 どうしてこういうことになったか、
 私たち二人のその日のことを思い出して、
 一緒に考えてみたい。
 あなたからみて、自分は今回、何かいつもと
 変わったことはあった?」

そう切りだすとアシスタントは
その日のことを話しはじめる。
その日は3件の案件を抱えていて上司も自分も
忙しかった。そんな中、今回のプレゼンに
どのボードを使うか、実は自信のないまま準備
してしまった。どっちみち、いつもそうだし、
ご自分で確かめられるのだろうと思っていた。
質問をしなかったのは、
この件のひとつ前の仕事の件で、
「どのボードを使うか」という質問をしたとき、
「腹を立てられたので」、それを判断するのは
自分の責任だと思った。しかし、時々何件かの
仕事が重なると、情けないけれど混乱してしまう
ことがある・・・
と話す。

上司は
「わからないことがあれば
 いつでも質問してくれていいんだよ」
と言う。

ステキだ。
ステキだけど、次の言葉がもっとステキ。
なんか、そこを読む度に、
ぐっときてしまう。

上司
「しかし、あなたの話をきくと、
 私はいつでも、質問しやすい雰囲気だという訳
 ではないようだね」

この発言が、
自分の行動の責任を、
ちゃんと言葉で認めていくことにつながる。
ここからぐぐっとアサーティブになっていく。

この後、二人の話し合いは、
上司が
「確かに私は、話しかけづらい雰囲気になることが
 あるかもしれない。
 私もこれからイライラしたり、ぶっきらぼうに
 なったりしないように心がける必要があると思う。
 しかし、あなたも、準備物に自信がない時は、
 たとえ私がどんな雰囲気であろうと、
 ちゃんと問いただしてくれないといけない」
と言い、
さらに
「この話し合いのことを持ち出してくれてかまわない。
 『あなたが忙しいのはわかります。しかし、ちゃんと
 質問するようにとと言ってくださいましたね』
 と言ってくれてかまわない」
と進んでいく。

つまり、どちらかだけが悪いのではなく、
二人のこれまでの「何か」があいまって、
今回の問題が起こった。
それを解決していくには、
二人とも自分の行動の、
どこをどう変えたらいいかが
具体的にわかるところまで話し合えるのが、
すごくアサーティブなんだと思う。

そしてそのスタートは、
どちらが悪かったかはっきりさせようということではなく、
次からこのような問題が起こらないようにするように、
起こったことを理解しよう・・・という姿勢だと思う。


私は、この部分を、何度も何度も読んでいる。


そして、この事例が
「自分にも責任があると考えてみる」モデルであると
同時に、
「雰囲気で伝わるものを改善していく」モデルとしても、
私にとっては重要だ。


私は実の父に対して、
いつも「忙しい雰囲気」を出していたと思う。
そのことで父は、
多分私にめちゃ気を使ってくれていた。
気を使うばかりに、ぎりぎりまで、
私に話せないことや、
相談できないことがあったはずだ。
当時の私は、「なぜ言わないの!」と
いらいらしていたが、
父は言えなかったのだと思う。

私のもっている「雰囲気」で伝えることを、
アサーティブではネッチーのパターンという。
大分改善していると思うけど、
先日義理の父に対してしてしまっていることに
気がついた。
夕飯を一緒に食べるとき、
義理の父は少し遠慮っぽく、
なかなか手が料理に出ないことがあるんだ。

それは何か私の醸し出す
「雰囲気」があるのだと思う。
なんか、私には、そういうところがあるんだと
思う。

それで、ある時から大皿料理の場合は、
「お義父さん、
 これ、鶏と大根の煮物ですが、
 取り分けます」
と、全部の料理を説明しながら
小皿に取り分けることにしてみた。
そしたら、よく食べてくれるようになった。


自分の責任を認めて、
言葉に出したり、
行動を変えたり、
そうして具体的に改善していく。

変えていくと、
関係が変わっていって、
それは結局は気持ちよいのだ。

これまでと同じ方法で
「ただ気をつけよう」と決めても変わらないが、
コミュニケーションを変えていくことで、
気持ちよく変わっていくことは
たくさんあると思う。


この本の、
この上司とアシスタントの女性の事例は、
私のお手本!



 
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谷澤 久美子
counselor