自己をならい、自己を忘れる。 【2013.09.29 Sunday 20:13】 |
今日は、私の祖父母、両親の法事があった。 祖母、母が27回忌、 祖父が23回忌、 父が17回忌となる。 その席で、お上人が、 ご自分の仏道に入るきっかけになったことを 話してくださり、 その話の中で、 道元の 「自己をならう 自己を忘れる」 の言葉を紹介してくれた。 それで帰宅後調べてみた。 「仏道をならふといふは、 自己をならふ也。 自己をならふといふは、 自己をわするるなり。 自己をわするるといふは、 万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは、 自己の身心および他己の身心をして 脱落せしむるなり」 「自己をならふ」というのは、 自分のことをよく知るってことだと思う。 自分がどんな時に嬉しくて、 どういうことに心を震わせるのか、 どういう時に権利が侵されたと感じて、 その時にはどういう感情がわいて、 からだにはどういう変化がおこり、 その後とりがちなふるまい方は何か? 他者との関係の作り方で、 どういうパタ−ンをもち、 どんなことにストレスを感じて、 その時は、どういうふうに解消して、 そして問題そのものには、 どうやって取り組んでいくのか? もっともっと、 様々な自分のコンテンツを分かること。 そして、 「自分の取り扱い説明書」を 作っていくということ。 それは、すなわち、 自分のことを、 とってもとっても大切に扱うってことだ。 仏道をならうということは、 まずは、 自分を大切に扱うってことから始まるって その考えに、 びっくりした。 そして、 今の私にすごくぴたっときたのは、 その次だ。 「自己をならふとは 自己を忘れるなり」 あ〜53年かかって、 今年の誕生日、 なんとなく、 もう自分自分ってのは おいておきたいと、 走りながら考えた、あのことは、 この道元の言葉と関連あるのではないか!!! もともとの意味は、 自分について様々な角度から考えて分かったと 思ったとしても、 それを疑ってみるというか、 それさえも、 決められた環境の中で得てきたことや、 その中でもしかしたらある思い込みをもって 選んできたものから見つけた自分の特性かも しれないから、 一旦、全部捨てて、考えてみよう・・・ ということらしい。 ただ私は、この言葉を読んだ時、 もう自分自分って、 なんでも自分に引きつけて考えることなど、 やめてみようと考えたことの、 後ろ盾をもらえたような気がした。 自分に、 執着しないでいいってこと。 すごーく考え続けて、 考えた上の自分に、 いつも 捕らわれなくていい。 そんな感じ。 「万法に証せらるるといふは、 自己の身心および他己の身心をして 脱落せしむるなり」 とは、 一切のものは、 自分の一人の力ではないから、 周りのおかげで生きているてこってことを、 わかっていくようになる ってことらしい。 私は 他者からの評価だけに依存して生きていた時間が 長かったからか、 自分に執着し、 「自分をならう」ことに意外に時間がかかって しまったかもしれない。 やっと「自分を忘れる」ってことが 自分の中からわき上がってくるように 生まれてきたから、 ちゃんと意識して、 少しずつ重心を変えていけばいいんだよな。 自分と 他者。 自力と、 他力。 自立と、 共生。 で、きっといつか、 自分でギアを入れるんじゃなくて、 自然に、ほんとに自然に、 めちゃバランスよくなるんだろうな。 うちのお寺のお上人も、 きっとぶきっちょな方ではないか。 いろいろ迷いながら、 うまくいかないことにぶつかりながら、 生きてこられたと思う。 だからお上人の口から出る言葉は、 リアルだ。 受けそうだと何かを覚えてしゃべってる訳でも、 誰かの言葉をそのまま教えてくれているんでもなく、 ご苦労しながら、 ひとつひとつ自分で考えて確かめて そして掴みとってきた今のところの確信を 話してくれているように感じる。 それで、私の心に届いてくる。 ってな訳で、 祖父母、両親は 亡くなってしまってからも、 こういうチャンスを私にくれるんだ。 |
author : tanizawa-k
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