2013年07月の記事 | 今のところではありますが…
「天使の分け前」「ブルーノのしあわせガイド」

【2013.07.31 Wednesday 01:35
7月は2本映画を見ることができた。

1本は「天使の分け前」。イギリスの映画。
傷害事件を起こしたロビーは、なんとか収監は免れ、
社会奉仕300時間の刑を受ける。
彼には恋人がいて、子どもが生まれるが、
そのことを喜んでくれたのは、
社会奉仕の指導をするハリーだけだ。
ハリーは、とっておきのウイスキーをあけて
お祝いをしてくれる。
ロビーはその時始めてウイスキーを飲み、
それがきっかけでウイスキーに興味をもち、
図書館で本を借りて調べ始める。
ハリーは、そんなロビーの生きる道はこれかと思い、
醸造所に見学に連れていったりする。
そんな中、高価な幻のウイスキーの樽がみつかり、
それがオークションにかけられることを知り、
ロビーはその樽から4本分だけ盗んで、
新しい生活をするための資金にしょうと計画する。
計画は成功、残念ながら2本は割れてしまったが、
残りの一本を高価で売ることができ、
さらに醸造所での仕事もみつけ、恋人と子どもと
3人の生活を始められるようになるという映画。

社会の底辺から抜け出すのに、
盗みを働いたことをきっかけにするのが、
なんとなくひっかかるが、
それでも、ウイスキーなだけに、納得させられる部分がある。
ウイスキーは樽の中で長い年月の間に少し蒸発するという。
それを「天使の分け前」と呼ぶらしい。
ロビーのリスタートに、ちょっとだけ分け前が与えられた・・・
って考えようと思う。
ロビーは、カッとするとキレてしまい手を出してしまう傾向
があって、でも、ハリーという自分の味方を得たことと、
何としてでも守りたい家族ができたことで、
相当我慢強くなる。

そして、一本残した幻のワインを、
ハリーの家の居間のテーブルに、
感謝の言葉とともに置いておくロビー。



ハリーが、なんといっても素敵。
ハリーみたいに、信じてくれて、味方になってくれて、
守ってくれて、背中押してくれる人。
この映画は夫と見たが、
夫は、そういう人が欲しいというより、
そういう人になりたいって思ったようだった。
どちらかというと、私もそうだなあ。

これは私の想像なんだけど、
ハリーも、孤独でどうしようもない時が
あったに違いないと思う。
その時に、誰かが親身に味方になってくれた瞬間が
あったんだと思う。
そういう経験ってされた瞬間に、
そうされるとどんなに心強いか分かる。

私も何度かあるが、
一番最近は、今年の4月に、
昨年末からの困難とそれに伴い受けた批判の言葉を
仲間に話した時、
仲間が
「うちの大事な谷澤に何してくれる!」
と真剣に言ってくれたこと。
それがいつまでも温かく胸の中にあって、
種火みたいになってくれているんだ。

それ知ってしまうと、
そうすることが「人」を支えるってわかるから、
自分もできたらいいと、
なんか、思う。

その仲間のように、
ハリーのように。

ま、もう社会にお返ししていく
年齢ってこともあるしなあ。





もう1本は「ブルーノのしあわせガイド」。
イタリアの映画。

中年の男ブルーノは昔国語の教師をやっていたが、
離職し、今はゴーストライターと家庭教師で、
なんとか凌いでいる。
ある時、家庭教師をしている子の母親がたずねてきて、
家を長期間あけるので子どもをあずかってほしいと
頼まれる。しかも、驚くことに、その母親とは昔
関係があり、その子は自分の息子だった。
本当の父親だとは知らせずに、息子との2人暮らしを
始めるブルーノ。息子は成績は悪く、ふまじめだ。
ある時学校に呼び出され、このままだと卒業できないと
言い渡され、家で猛勉強をさせることにする。
しかしちっとも身を入れない息子。
厳しくするブルーノ。2人の関係はぎくしゃくし始める。
そんなある日、
ギャング風の男から盗みを働いた息子は追われる身となる。
ブルーノは彼を守ろうとするが、2人はみつかってしまい、
身を以てかばおうとしたブル−ノは殴られる。
しかし、そのギャング風の男は、なんとブルーノの昔の
教え子。他の教科は一切評価されなかったが、ブルーノ
だけは点を与えてくれたことから、その教科が好きになり、
今でも芸術に親しんでいることを告白する。
息子はブルーノを見直す。やるじゃん、オヤジ!なかんじ。
ちょうどいいタイミングで、めちゃくちゃ素敵な女性が
父親の寝室から出てきたりもする。
ブルーノを尊敬し始めた息子は、
以前とは勉強する態度がまったく変わる。

そういう映画。
これはもう、100%気持ちいい映画だった。

原題は「シャッラ」というローマの若者の言葉で、
「なんとかなるさ」とか「リラックス」とか
そういうような言葉らしい。
肩の力、ぬいていこうよ・・・な感じが
映画の隅々からしていて、とってもいい。

なんだけど、なんとかならないことも人生にはあって、
それは息子のピンチや落第という問題。
このピンチがあったからこそ、
2人は本当に近づくことができたんだけど、
実をいえば、ピンチが2人の関係を決定的に駄目にする
ことにもなりえた。
たとえば、ピンチの時にブルーノが息子を
本当に守ろうとしなければ、そうなったと思う。
落第を目の前にした息子をほおっておけば、
関係も悪くならならかったけど、
単なる共同生活者。

その2つの境目をブルーノは
「過去」の自分に助けられた。
熱心に教師として教えてきた日々があったからこそ、
息子の尊敬を得るこができたんだもん。
そこのところの展開が、
私としてはとっても好きなパタ−ンなんだなあ。

天使の分け前とはいえ「盗み」で解決するより、
自分の力(過去の力でも)で解決していく様子を
見たほうが、
やっぱ気持ちいいよなあ。

映画っていいなあ。
8月は
いっぱい
見れますように。


author : tanizawa-k
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「4つの小さなパン切れ」

【2013.07.28 Sunday 22:06
マグダ・オランデール=ラフォン
みすず書房
¥ 2,940
(2013-05-10)

 「4つの小さなパン切れ」は、
16才の時にアウシュビッツ ビルケナウに強制収容された
マグダさんが、長い沈黙の後に告白した
「いかに人生を取り戻したか」が書かれている。

強制収容所に収容されたその日、
母妹と、彼女は違うラインに並ばされ、
離ればなれになる。
どこに行ったかときくと、
隣の棟の煙突からあがった煙を指さされた。
彼女は家族でただひとり、ハンガリーのユダヤ人の中でも
数少ない生き残りとなった。

彼女は長い間、
ハンガリー時代と収容所の記憶を
封印していた。
封印し、フランスの師範学校で学び、
教職の資格をとり、心理学を学んだ。

その課程で、
自分自身について振り返り確認して、
自分の人生に意味を自身で与え、
そしていよいよ
この本に納められている
「時のみちすじ」を出版し、
さらに、子どもたちに語りはじめたのだ。

彼女は、
若い人たちに、
内省的に考えることを促すために、
証言し始めた。

彼女の記憶の中には、
収容所の中で
人間として扱われなかったひどい体験があった。
しかし同時に、その中で、
一人の修道女の存在もあった。
彼女は
「生きることを信じよう。絶望を払いのけよう
 わたしたちの間に友情を育てよう。
 わたしたちの力を集めよう。
 勇気を失ってはいけない。(略)
 わたしたちは生き延びなければならない。
 わたしたちには生き証人が必要なのよ」
と語り続けてくれた。
極限の状態の中で、そう語り続けることを
選ぶ人もいること。

また瀕死の女性が少女に4つのパン切れを
差し出したところをみた。
ほんの一時煙突から煙があがらなかった時、
空の色が戻ったように感じたことがあった。
収容所からでることができた時に
ひきとってくれた人もいた。

また自分自身で
「ナチスが、ひとつの民族を丸ごと
 徹底的に殺してしまおうという
 想像を絶することを想像できたのだから、
 私たちにだって、もっと人間的で、
 もっと連帯力があって人類の役に立つ世界という、
 また別の想像のつかないことを
 想像できるのではなうだろうか」
と考えたこと。

そういうことの末に、
「わたしの過去、出自を掘り返しながら、
 わかってきたことは、自分自身として生まれるには、
 自分をゆるすことを経なければならないということだ。
 わたしたちは自分に優しくなれない。気がつくと、
 どれだけ自分をいじめ、他人をいじめてきたことか。
 でもこういう道を経ないで、どうして自分を受け入れることが
 できるだろう、どうして他人をありのままに受け入れられる
 だろうか」
と言っている。

マグダさんは、
暴力や恐怖の体験を、
それ自体は、決して、
あってよい体験だとはいえないが、
そのままにはしておかないで、
その体験を経たからこその
「自分のやるべきこと」をみつける
ことに使うことにした人だ。

自分の人生の意味を、問い続けながら得て、
それを手放さずに実践することに
結びつけた人。




私はこの土日、
ロゴセラピーというものの学びをスタートした。

ロゴセラピーを作ったフランクルもまた、
強制収容所の体験があり、
それ以前に作ってあったロゴセラピーを、
収容所の中での実践をもって完成させた人で、
理不尽な体験を意味につなげることをした人だ。

人間を作っているのは、
体と心だけではなく、
精神があると考えるロゴセラピー。

からだが疲れていても、
心がひしゃげていても、
私の中にある精神が、
「人としてそれでいいのか?」と問いかける。

今までは「目標」とか「考え」という言葉で理解していた、
からだや心からの訴えがあったとしても
「今必要があることをやる力」が、
「精神」という言葉を得て、
もう少し確かなものように思えてきてる。

そして、
「今の」とか「目の前の」とかの「やるべきこと」が、
もう少し広いところにつながっていることを
感じられ始めている。

具体的には、
久々丸々二日の座学を受けて、
心身はしんどいんだけど、
目の前のする必要があること、
「明日の先生方対象の研修の準備」をするのは、

それが、夏休み明けの先生方の
子どもたちへのアプローチに
何かヒントを与えることが
できるかもしれないからだし、

私には、
どの子(人)にも
「あなたは大切な存在。
 そのままのあなたがいい。
 そのあなたで、今できることをしていこう」
と感じてもらいたいという使命みたいなものを
勝手に自分に課しているからなんだもんと、

ちゃんと言葉で思えている。

これからの自分が楽しみ。



マグダさんの文章を読んでいて、
「ここから学んで」という押しつけを
全く感じなかった。
自分の体験を、どちらかというと
詩のようにイメージが広がるような言葉で
つづっている。

そして、私が土日に会ったロゴセラピーの
先輩たちもまた、
「私がいやしてあげる」「なおしてあげる」
という感じは一切なく、
ただ、自身がロゴセラピーを実践していることで、
目の前の人が、
つらい出来事や苦悩の体験に意味をつけていくという
ことを話してくれていた。

私は、活動に使うためではなく、
自分自身のためにじっくり学んでいこうと思ってる。


それにしても5月からスタートしたドラマセラピー、
この夏スタートのロゴセラピー。
ドラマセラピーは、どちらかというと、
考えるな、感じろ!
ロゴセラピーは、今のところ、
言葉での深い思考を必要とするもの。

なんか、バランスいいじゃん、私。

author : tanizawa-k
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わかちあうこと。

【2013.07.26 Friday 13:16
一昨日のNHKクローズアップ現代は、
保育士不足についてだった。

保育士として就職される人の数も足りないし、
離職者数も多いし、
再就職される方の人数は少なく、
深刻な問題だということだった。

番組の中で
厚生労働省が調べた離職理由の上位4つが示された。
①職場内や保護者との人間関係(26、5%)
②雇用条件(16、9%)
③本業以外の業務(15、0%)
④責任の重さ、事故への不安(14、6%)

それで国の対策としては、
<1>給料上乗せのための補助金
 (一人あたり、月額1万円上乗せ)
<2>潜在保育士の再就職支援
 (実習などの費用)
をしているとのこと。

番組を見ていて、
確かに国の二つの事業は大切だと思うけど、

せっかく希望を持って就職した保育士さんが
やめざるを得ない状況になった人の中の26%が
①職場内や保護者との人間関係と調べてあるのに、

そこは個人や各保育所に任せておいているようで、
歯がゆい思いがした。

そこの対策に乗り出している保育園では、
シフトを見直して、
保育士同士が話し合える時間を作ることを
捻出したことでうまくいったということだ。

他の職種より保育士さんは、
平均で10万円給料が低く設定されているということだから、
コミュニケーションを、個人で学ぶのは、
大変なことだと思う。

捻出した時間が豊かで、問題解決に向かう話し合いの
時間になるように、
国が支援できることって、あるように思うなあ。



円滑なコミュニケーション、
つまり、今ある園にとっての問題や、
自分にとっての困難や不安を
わかちあえる職場では、
離職理由の①だけでなく、③も④も解決の方向に
向かっていきやすいと思う。

本業以外に従事しなくてはならない仕事が多いと、
不満という感情が出てくることがあるだろう。
それをためにためていると、
何か大きなことがあった時に、
「やめてやる!」ってことにならないとも限らないが、
「この仕事の意味がよくわからなくて参る」とか、
「保育がしたくして就職したのに、つらい」とか、
誰かに言うことができて、
もし、要求が明確になっていれば、それを管理職に伝えることも
できるだろうし、
そこまでしなくても、
誰かに気持ちを分かってもらっているってだけで、
がんばれるってこともある。

責任の重さによる重圧も、事故への不安も、
一人で抱え込んでいると、
手に負えないほど大きくなっていく可能性があるが、
聴いてもらい、気持ちをわかちあうことで、
乗り切れることがある。

一人一人が、
コミュニケーションスキルのレベルをあげていくことができれば、
弱音を吐きながら、
改善点は指摘しあいながら、
励まし合いながら、
仕事をしていくことができる。

考えや、感情を、
わかちあえる職場は、
働く人の居場所となっていくのではないだろうか。

月にプラス一万円も大事だと思う。
それプラス、
保育の世界で働きたい!というすばらしいモチベーションを、
もっともっと活かしてもらうためのお金の使い方って
あるんじゃないだろうか。



話しは変わるが、
今日のNHK
「おはよう日本」では、
社員の方々に育児休暇をとってもらう会社の工夫について
放送していた。

ある会社では、2人一組で営業先を担当するのだそうだ。
そうすれば、育児休暇の時にスムーズに引き継ぎができるだけでなく、
病気や怪我や介護など、休まなくてはならない時や、
出張で留守時の対応など、会社にとってメリットは大きかったとの
ことだ。

とはいえ、ペアで仕事するってことは、
人が2人集まれば権利の衝突はあるものだから、
そこに自他尊重の自己主張は必要になってくると
思う。


わかちあうってことで問題解決に向かっていくことは多いけど、
より良いわかちあいのためにも、
一人一人のコミュニケーションの力を、
つけていきたいものなんだよな。













author : tanizawa-k
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改善点をいっぱいもらえた3ヶ月。

【2013.07.24 Wednesday 18:09
週の半分以上は、学校を舞台に仕事している私。
いよいよ夏休み。正直、嬉しい。

で、
4〜7月の学校での仕事のことをいろいろ振り返っていて、
気がついたことがある。

それは
「改善点をいくつか指摘してもらえた」
ってことと、
「先生方や、相談関係の方々に、
 フィードバックがまあまあ建設的に
 できるようになった」
ってこと。


前者でいえば、
たとえば、
子どもに対する「心の健康」や「コミュニケーション」の
全校道徳、学校保健委員会などで、
授業後に、先生方にフィードバックをいただくことができた。

パワポーイントの言葉と、しゃべり言葉のバランスのこと。

子どもから意見をもらう時のアンケートの文面、
特に例の出し方。

子どもに伝える時のポイントの絞り方。

〜〜〜の説明の時には、もっと具体的な事例があると
よかった。


やはり専門家は、すごい。
学校の先生方は、子どもに教える専門家だから、
子どもの理解を深めるためにやったことがいいことを、
ずばりと指摘していただいた。

これを9月からの子どもへの講演活動に
活かしていきたいと思う。



なんで
改善点を教えてもらえたのかな?と考え、
そうか、それは
自分からフィードバックを求めたからだと
気がついた。


講演が終わった後、
担当の先生や管理職の先生と
感想を言い合って終わるってことを
これまでやってきた。
大体、先生方は価値づけるプロでもあるから、
ほめてもらえたりする。
そりゃ、嬉しい。
で、そこで「それではありがとうございました」
なんて感じで終えるのがこれまでだってけど、

ここんところ、
「どこをどう変えると、
 良くなるでしょうか?
 教えてください」
って、考えてみると、
訊いていた。



また後者、自分がフィードバックを出す場面では、
ケース会議を開こうという提案、
小中共同で会議をしたいという提案などは、
いくつかできたし、
子どもへの接し方についてアドバイスを求められた時も、
その方のやり方を否定するのではなく、
でも、こういうやり方もあるというフィードバックが
できた時もあった。
特に今年度は、
先生方からアドバイスを求められることや、
相談を受けることも多かったので、
言いにくいことでもまずいことはまずいと、
伝えたこともある。




・・・と簡単に書くが、
ここに至るまでには
長い道のりがあったなあと
私は感慨深い。




第一段階
ちょっとでも駄目だしされたら、
自分を丸ごと否定されたように思え、
じゃ、もう講演はやらない・・・どころか、
カウンセラーをやめた方がいいかも・・・
とさえ考え、立ち直るのに時間がかかった。
そしてそのままではあまりに辛いので、
相手を悪者にして、たとえば、
「妬んでの言葉だ」とか、
「私をストレスのはけ口にしているのかも」とか、
そんなふうに考えていたふしもある。
そう考える自分が情けないので、
なるべく批判、指摘を受けないように、
そのことについてシャッターをおろしていたと思う。
具体的には、講演が終わればそそくさと帰るとか、
感想を送ってもらう必要はないと伝えるとか。


第二段階
改善点を指摘されることと、
自分を全否定されることとは違うことを頭で
理解した(アサーティブ・トレーニング応用編にて学ぶ)。
頭で理解できたことは意義深く、
批判や指摘と自分自身を
分けて考えることはできるようになったが、
それは落ちついて考えた時で、
批判を受けたその瞬間、つまりとっさには、
あいかわらず混乱。大きく凹んだりした。


第三段階
改善点を指摘されたとしても、
自分の仕事に役立つこと、
そして「確かにその通り」というものに関しては、
受け止めることができるようになる。
もちろん悔しい。悔しいから、その場では
あまり反応はしないが、それでも落ち着いてからは
受け止められることも。
ただし、誤解だったり、説明したいことだとしても、
「誤解ですよ」など、自分の意見を言うことは難しく、
悔しくて、もがく。


第四段階
相手からの指摘、批判が、自分の考えと違う時で、
そのことを伝えた方がいいと選択した時には、
伝えることもできることも多くなる。
また、確かにその通りと思う指摘、批判に関しては、
受け止め、「そうかあ、そうですよね」と
同意(受け入れる)こともできることが多くなる。

第五段階
自ら、指摘、批判、改善すべき点を求めることが
できるようになる。
また、他者に、建設的な指摘、批判ができるようになる。


ってな感じのスッテプをふんできたように思う。
もちろん今も、100%する訳ではなくて、
しない選択をすることも多い。
でも、改めて想うのは、

ノーが言えるようになって始めて、
ノーと言われた時の心持ちが軽くなり、
だからこそ、依頼したりお願いしたりの壁が
どんどん低くなっていったように、

批判の対処ができるようになって始めて
建設的な批判を自ら求められるようになったし、
建設的な批判をできるようになった
と思う。

それを、振り返って思い出すくらいだから、
結構自然に
やれてることもあったんだろうな。


とはいえ、
第一段階から
第五段階まで、
一回昇ったら、
ずっと第五段階に留まれる訳ではないことが、
人間のおもしろさ。
全然だめなこともある。
戻っちゃうこともある。

ただ、他者からの指摘、批判の受け止めが
できるようになると、
自分が自分に出す批判の受け止めもできるように
なっているから、

たとえ失敗しても、
たとえ今日は全然だめでも、

だからって私って駄目ってならないことがまた、
いいんだなあ。


フィードバックって視点で考える
4ー7月の私。

今年度は昨年までの学校が2校+、
新しい学校3校だったが、
どこでも、非常に好意的に迎えていただいたことが、
ありがたかった。
期待に応えきれないこともあったと思うけど、
これが私の4〜7月。

がんばったぞお。





















author : tanizawa-k
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恐れ

【2013.07.19 Friday 09:54
「リプレイスメント」という
大好きな映画を、
昨夜BSでやっていた。
何度も見てるけど、また見る。

アメフトのチームで待遇に不満を抱いた選手たちがストをする。
しかし試合はしたいチームは、
急遽代理の選手を集めて戦う。
代理の選手のクオーターバックがキアヌ・リーブスだ。

こうなってほしいという通りに進む、
非常にスカっとする映画なんだけど、
私が特に好きなシーンは、
ミーティングのシーン。

昨日はかなりカットされていたが、
このシーンはちゃんと放送してくれた。

コーチがみんなを集めて、
黒板に
「FEAR」と大きく書き、
「今日は恐れについて話し合おう」と言う。

もちろんコーチが語り合いたいのは
試合中の恐れについて。
なのに、
「寄せ集め」の選手たちの口から出てくるのは、
なんと「蜘蛛」。
「いやいやそうじゃなくて」というコーチの説明の後に、
キアヌ・リーブスが手をあげ、発言を求める。
そして
「たとえるなら流砂」という。
「試合中に、決してミスをしてはいけないと思うけど、
 何かミスをしてしまったりする。
 すると、またミスしてしまうのでは?
 と考えてしまい、怖くなる。
 怖くなって縮こまってしまって
 どつぼにはまっていってしまう。
 まるで流砂のように。
 そう考えるのが、恐れ」
非常にうろ覚えだが、
そんなことをいうと、
「それは分かる」と
選手たちは口々に共感を示すのだ。

コーチは言う。
「恐れはあるものだ。(←この断言が私を勇気づける)
 でも、恐れは乗り越えられる」

「次の闘いに、その恐れをぶつけていこう」

これは、物語ではあるけれど、
アメリカの、プロの、アメフトのチームが舞台の映画だ。
アメフトの選手のからだや知能や才能などを考えると、
「恐れ」とは真逆のところにいるように思える。
でも、その選手たちが
「恐れ」を見ないようにするのでもなく、
「恐れ」てないようにふるまうのでもなく、
「恐れ」はあるものだと、
真っ正面からみつめるこのシーンが、
私はとっても好きなんだ。


今年の4月に来日された
アサーティブのヨーロッパのトレーナー、
アン・ディクソン氏も、
「恐れ」について語ってくれた。

 言いにくいことを口にしようとする時、
 「怖い」という感情がでてくるかもしれない。
 ただ恐れは私たちの頭の中で作っているもの。
 頭の中のことだから、対処することができる。
 言う必要があることを口に出すとき、
 恐れがなくなったら言うのではなく、
 恐れがありながらも、
 その時は「このことを言おうと思うとこわい」
 という感情も口にしながら、
 伝えていってみよう。

そういうことを言ってくれた。


つまり「恐れ」という感情は、
ないものとしたり、
怖くないふりをしたりすることではなく、
「ある」って自分で認めることから、
対処がはじまるのだ。


そしてこの対処法は「恐れ」という感情だけでなく、
不安や心配や不満や情けなさや、
そういういろいろな感情をもった時も同じ。

不安だけど、目の前の必要なことをする。
心配事はあるけど、とりあえずやることやる。
不満で心の中でぶつぶつ言いながらも、
 それでもやる。
情けなく思いながらも、とにかくやる。

「感情をなかったことにして平気なふりして」
ではなく、
自分の感情を認めて、
その上で、必要な行動を取る。

そのひと手間が、いいんだよなあ。


 


author : tanizawa-k
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「ごめんください」

【2013.07.16 Tuesday 22:19
15日朝早く、
棚経をあげてもらった。

お経のあと、
お寺のご住職に
お手拭きと冷たいお茶を用意しながら、
実家のお盆を思い出す。
毎年繰り返していたお盆のto do。
何をどう仏壇に飾るか、
松明はどんなふうに組んで燃やすと
最後まで燃えるか、
覚えようと思ってみていた訳でもなく、
ただ見ていたことだけど、
そういう中で身につけていることって多いものだ。


毎日新聞の朝刊の
「山本さんちのあっ!?」というコラムで、
山本ふみこさん(随筆家)は
幼い頃、お母さんに時々
「ごめんください」
と言う練習を
「言ってごらんなさい」
とさせられたと書いてあった。
お使いやお届けものにいく時に
必要な言葉だったからだ。

山本さんは
スーパーマーケットやコンビニが増えて、
「ごめんください」と言わなくても
買物できる機会がふえたし、
ネットで買物するようになって、
支払う時に
「お世話様でした」
も言う必要がなくなったことを書いている。


同じ15日の夜「初めてのお使い」というTV番組を
みていたら、
屋久島の3人の子どもたちのお使いについてやっていて、
その島の子どもたちみんなは、
「ごめんください」という言葉を、
ある店の女性に教えてもらうということだった。
その女性はお店の前にいて、
お客さんを迎え入れるが、
それが子どもたちだと、
一緒に店に入るために扉をあけながら
「ごめんください」をさせてくれる。

なんか、いいなあ!
と思いながら、

電話が携帯になってから、
「夜分恐れ入ります」という言葉も
使わなくなったなあと頭に浮かび、
そんなことを考えながら、
再び新聞を広げた。

すると、
読者からの投書欄「みんなの広場」に
突然の雨に
屋根のある場所で何人かと共に雨宿りしたが、
その途端、その方以外の方々は
スマホを取り出したことが書いてあった。
その方は、
「スマホで見も知らない多数の人か、
 気の合う友人としか会話を楽しまない
 ことの不健全さを感じる」
と文章を結んでいた。

確かになあ。
しかし、私も、歯医者さんの待ち合い室でも、
郵便局でも銀行でも、
ちょっとした待つ時間は、
すぐにスマホを取り出すなあ。


ふるまいや、
言葉の中で
体験的に学んでいくものは、
体験の機会があった者には脈々と
流れていくが、
そうではないところでは、
陰もカタチもなくなっていく。
なくなっていくということは、
必要がない訳だから、
そのふるまい方も、言葉も、
すなわち
特になくても生きていけるってことだし、
重要なことだと捕らえなくていいのか?


それとも、そのふるまいや言葉と共に、
失っていく「何か」があるのかな?


同じ新聞の「毎日歌壇」
米川千嘉子選
「取り返しつく過去もあるじんわりと
 水を含んでいく干し大根
    平塚市 風花 雫」
が心に沁みてくる。


今ならまだ、
なんとかなるふるまいや言葉があるのかな?
それとも、それらは、自然に任せれば
いいものなのかな?

水を含んでいく干し大根を想像しながら、

お客様にお手拭きを出すということも、
「ごめんください」も
「お世話さまです」も
「夜分恐れ入ります」も
袖振り合うも他生の縁も、
基本
「かかわる」ってとこが根にある。

自分がいて相手がいる。
その方と
上手な距離をとったり、
上手な関係を作っていくための
ふるまいだったり言葉だったりを、
日常の中で体験的に学んでいくことが
できればそれが一番いいが、
それが無理になってきたら、
大人は、
自分はそれを大切にするってことを、
意識するだけでもしてた方がいいだろうな
と思う。


そこまではなんとか考えてみた。













author : tanizawa-k
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一足飛びに問題解決は無理なんだな。

【2013.07.13 Saturday 22:01
たとえば子どもが、
「お母さん、塾を変えたい。
 ほにゃらら塾に、友だちが行ってて、
 すごく分かりやすいって言うんだよ」
と言ったとする。

親としては、いろいろな思いが湧く。

友達と一緒の塾に入って、
楽しもうとしているのではないか。
この4月に入ったばかりの塾をもうやめるなんて、
やめ癖ついたらどうしよう。

で、すぐにでも問題解決に向かいたくなる。

「だめだめ。
 あっちがいいならあっちとか、
 そんな都合よくいかないよ」

子どもはむくれて、
「じゃあ、いいよ(怒)!」
バタンとドアをしめて自分の部屋にいく・・・

みたいな感じって、
日常の中にはあるかもしれない。

これは、一足飛びに問題解決に向かおうとして
「相手の考えを認めること」をすっとばして
しまった例だと思う。

「だめだめ」
の前に、
「そうかあ、
 ほにゃらら塾で勉強したいんだね」
とか、
「みんながその塾だとしたら、
 おまえ、さみしいね」
と、一旦受け止めることは、
問題解決の前にしたほうがいいことだ。

(かとって、「じゃ、塾変えていいよ」
 ではなく、
 一旦受け止めたあとは、
 親の考えを伝えた方がいいと思う)



たとえば、
同僚に
「○○さん、疲れてる?
 最近、企画をあんまり出さないね」
と言われたとしよう。

確かにその通りだと思うし、
なまけていると思われたくないから、
すぐにどうしたいかを言いたくなる。
で、
「でも、もうすぐ
 大分いろいろ処理できるから、
 来月には企画だすよ」

同僚は、
「あっそう。わかった」
と言ってくれるかもしれないが、
同僚が示してくれた奥にある質問には
応えていない。

「心配してくれてたんだね。ありがとね」
とか、
「確かにちょっとしんどくてさ。
 気にかけてくれたんだ」
は、大事なひと手間だ。


そこにある問題を解決したくって、
私たちはすぐに答を出したくなるし、
すぐに答をほしくなる。
それは、もっともなことだ。
解決しない問題を、
たとえちょっとの時間でも
かかえるのは、気持ち悪いもの。

でも、一足飛びにいかないで、
相手の感情や考えを受け止める、
「共感」は大切なプロセスなんだ。



今日は勉強会で「共感的に聴く」ことにトライした。
その難しさを共有しながら、
でも、20名でトライした。

多分、何人かの方は、

相手の感情を『しんどかったですね』とか
『それはあせりましたね』とか言葉にして、
もし違ったら、返って関係が悪くなって
しまいそうで心配・・・のようなことを考えたと思う。

その心配はわかる。

ただ、こちらが、
「本当にあなたを理解したい」
と思って聴いていると、
「さみしかったんですね」
と示したとき、
違う場合は
「さみしいっていうよりは、
 かなしかったんだよ」
などと言ってくれる場合がある。

大概の方は、
正確に共感してくれてるかどうかより、
共感してくれようとしているかどうか、
つまり、
自分の考えや感情を理解しようと努力してくれて
いるかどうかの方に、関心があるようなのだ。

分かろうとしてくれているという安心感が、
心を開く。

一足飛びで問題解決に急ごうとする時、
相手に伝わっているものは、
「わからせようとしている」感の可能性があり、
その場では問題解決したように見える場合でも、
深い納得の上ではなく、
表面的なものになってしまうかも・・・
くらいに考えておきたいな。

問題解決の前に、
一旦受け止めよう。

「共感的に聴く」ことで
相手の感情を受け止めよう。




とはいえ、問題解決しないと困る。

なので、「聴き方」を学んだ方に
ぜひ進んでほしいのは、

価値観が違い、考え方や方法論が違う方とも、
お互いを尊重しながら自己表現ができる
コミュニケーション、
アサーティブのトレーニングだ。

相手が話してくれる。
それを聴き、
自分の考えを、相手を大切にしながら伝える。
相手は聞き、そして考えを伝えてくれる。
それを聴き、自分の考えを伝える。
これを繰り返していくことで、
お互いの間にある問題を解決していかれたらいい。


マララさんは国連で、
「教育があらゆる問題の、
 唯一の解決方法です」
と力強く、堂々とスピーチをした。

武力で解決するのでなく、
対話で問題を解決する社会を作っていきたいという理念が、
私の属するNPOアサーティブジャパンにはある。

マララさんと言いたいことは共通している。


教育や対話は、
なかなか時間がかかるものだ。
しかし、この方法をとることで、
解決に至るどの瞬間も、
正々堂々としていられる。






・・・・・・・・・・・・・・・・・

静岡で学べる
◆アサーティブ・トレーニング基礎編 

<開催日時など>
・ 日時:12月21日(土)9時半〜16時半 
        22日(日)9時半〜16時半
・ 会場:静岡県教育会館 中会議室
    (静岡市葵区駿府町1−12 054−252−1011)
・ 定員:20名(二日間参加できる方/先着順) 
・受講料:20000円(テキスト代込み)
・ 主催:谷澤相談室 http:ktanizawa.exblog.jp
*6名お集りいただけると、開催いたします。

<申し込み方法>
 FAXかメールで、以下を記入の上申し込みください。
① 氏名 ②住所(〒も) ③電話番号
④詳細をお送りする時のご希望の連絡方法(電話/携帯電話/FAX/メールなど)
*もしよろしければ、受講の動機を教えてください。

FAX:054-348-0435
メール:kumikotanizawa@gmail.com













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意味がわかると。

【2013.07.10 Wednesday 19:02
ストレスと上手につきあっていく方法としては、
・ストレスとなる要因を減らす
・ストレスに対する耐性力をつける
・ストレスを解消する方法をもっておく
という3つの視点で考えるといいが、

その中の
「ストレスに対する耐性力をつける」方法として、
私は今まで認知療法のアプローチを主に扱ってきた。

認知療法のアプローチとは
物事や出来事への自分の考え方、捉え方のくせを知り、
それを適切なものに変えていくこと。

たとえば、
「自分以外の女性たちが、給湯室で話している」
という事実に対し、
a「いつも誰かをのけ者にしている。今回は私か!」
b「私は結局嫌われている」
という考え方があると。
たとえばaの場合なら「腹が立つ」「いらつく」「悔しさ」
などを感じる可能性があり、
bの場合なら「心配」「不安」「困惑」
などを感じる可能性がある。
c「仕事に夢中になって気がつかなかったけど、
 何か相談でもあるのかな?」
と考えると、ネガティブな感情は起こりにくく、
「今からでも、入ってみよう」
となったりする。

「腹が立つ」や「心配」などの気持ちを
感じることが悪い訳ではないが、
しかし、ネガティブな方の気持ちばかり感じて
しまうと、なかなか苦しい。

なので、
自分の考え方に、ストレスを過剰に受けてしまう
認知のゆがみはないかチェックして、
変えていく。
そういうこと。

ただこの認知療法は専門家とともにトライしないと、
「結局自分の考え方が悪い」
 →「自分なんて何をやってもだめ」
と自己否定に繋がっていく場合もあるので、
なかなか難しいものだ。


ここ5〜6年で注目を浴びている
「ストレスに対する耐性力をつける」方法として、
「SOC( sense of coherence)首尾一貫感覚」がある。

私は、これが、納得できる。

これを研究したのは、
医療社会学者のアントノフスキーさん。
どうすれば健康を維持できるかという健康因子を
研究していた彼が、
第二次世界大戦時にナチスの強制収容所を経験した
ユダヤ人の女性たちに取材したことがあって、
その経験をトラウマにせず、
生還後元気でいきいきと暮す女性達に
共通していたものをまとめ、
「SOC」(首尾一貫感覚」としたそうだ。

SOC(首尾一貫感覚)の3つの要素は
①把握可能感
②処理可能感
③有意味感

蝦名玲子さん著「困難を乗り越える力」
によると
①は「わかる」感。
自分の置かれている状況を理解できている、
または今後の状況がある程度予測できると
思える感覚。

②は「できる」感。
ストレスをもたらす出来事に対して、
自分にはそれを処理するために必要な
人やモノ等の「困難を乗り越えるときに
使える資源」があるから、「なんとかなる」
「なんとかやっていける」と思える感覚。

③は「やるぞ」感。
ストレスをもたらす出来事を、「これは自分
にとっての挑戦だ」「これを乗り越えることは
人生に必要なことだ」と信じ、日々の営みへの
やりがいや生きる意味を見出せる感覚。

特に③の意味を自分で作れるというか、
認識できる感覚というのは、
ビクトール・フランクルさんの
「どんな時も人生には意味がある」
「意味のない苦しみはない」
「それでも人生に『イエス』と言おう」
に通じる、私にとっては大好きな考え方だ。

私にこの感覚の力を付けてくれたのは、
ひとつひとつの困難だったと思う。
取り分け両親の死は、意味を付けないままでは、
その後、とってもやってこれなかった。
だから、すごく上手になったと思う。


朝言っていたことと、
夕方の意見が違う上司に嫌気がさしてしまった時、
「臨機応変のトレーニングマシンとして、
 私のところに彼はおりてきたのだ」
という意味付け。

何度言っても指示を聞き逃す後輩に、
ほとほと参った時、
「この後輩に上手に指示が出せるように
 なったら怖いものがない」
という意味付け。

自分のやりたい仕事とは違う雑用ばかりの毎日。
「仕事全般を見渡せるようになるために、
 今日は会議の資料作りをする」
という意味付け。


すべてにやる必要はないが、

そうそう、
まだ7月10日というのに、
早くも夏バテしそうなこの暑さに関してまで
やる必要はなく、
それはただ「暑いなあ、参ったなあ」と
受け止めるしかない訳で、

でも、時々、出来事を俯瞰から見て、
意味付けしたい。
どうせ同じことをするのだったら、
その方が健康的だ。


そんな訳で、
上記のことも含めて、
今年のテーマ「入」を促進中の私としては、
夏の学びの計画が粛々と計画ちう。






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「語りきれないこと」2

【2013.07.05 Friday 21:08
 昨日の続きで、
「語りきれないこと」を読んで考えたことを
まとめてみる。

「心のケア」について。

鷲田さんが書いていることに
びっくりしながら、その驚きが
考えを深めてくれた。
「心のケア」についてのことだ。


「『心のケア、お断り』ーそんな貼り紙を
 している避難所があると、知人から聞きました」

「ただうずくまっているしかない状況で、
 誰かに『お気持ち、よくわかりますよ」などと
 相づちを打たれたら、『そんなにかんたんに
 分かられてたまるか』と、低い声で吐き出す
 ように返したくなる」

という文章。

私の知人も何人か被災地での
「心のケア」に行った。
彼らは本当にプロフェッショナルだったから、
簡単に「わかります」とか、
励ましとかはしなかったと思う。
だからこそ、被災された方々の
助けになったと思う。

でも、中には
目の前の方が語りきらないうちに、
言葉をさえぎって励ましたり、
自らの体験を引き合いに出して背中を押したり、
代わりに語ってあげてしまう人が
いたのかもしれないな。

それで「お断り」となった避難所も
あったのかもしれない。

それにしても「心のケア、お断り」には
びっくりした。
びっくりしたけれど、
そういう面が、
普段接していない特別な人がサポートに入る時に
起こりうるだろうということは、
私も私の現場の中で
「心のケア」が必要な状況が生まれたとき、
感じたことがあった。

専門家が専門家の顔をして、
「なんでもおっしゃてください」
という時の違和感みたいものを、
ちょっとだけ心の中に持ったこと
がある。

鷲田さんは、ケアにあたるものの心得として、
「それ以上傷つけないこと」をあげ、
相手に「被災者役割を押し付けないこと」は、
よくよく心すべきことだと書いている。

当たり前のことだけど、
実は難しく、
そして
本当にその通りのことだと思う。

「分かる」ということは、
「話しているうちに気持ちが一つになる、
 同じになるというよりも、むしろ逆に、
 一つの言葉に込められたものの意味や
 感触がそれぞれ異なること、相手との
 差異・隔たりがいよいよ細かく見えて
 くることです。『分かる』というのは、
 そのことを思い知らされることでもあ
 るはずです」

と書いている。
目の前の方の一言一言の言葉の背景を、
簡単に同じ思いになれることなんて、
ないのだ。

まだまだ分からない、
だから、分かりたいと
聞き続けるしかないのだ。

いちいち納得する。

鷲田さんは、
困難なことに出会ったとき、
自らについて「語りなおし」をしなければ
ならないと書いている。
それが、自分で自分をケアすることになると。

だからこそ、
困難にあってしまった方が自らを「語りなおす」時に、
そこの場にいて、
その方の「語りなおし」する相手をつとめること。
それが聴くことで、
聴く人がいることで、
目の前の方が安心して「語りなおし」を
することができるのだ。

それでこれは、

大きな困難な出来事にあった時だけでなく、
実は日常の中でも、
私たちに必要なことだと思う。


思いがけない批判の言葉が飛んできた時、
たとえば、
一生懸命に作ったものを「駄目駄目、全然だめ」
と真っ向から否定されたり、
「もういいから俺の言う通りにやって」と投げやりに
指示されたり、
心にグサっとくるようなダメージを受けた日の夜に、

何にまいって、
どんなふうに辛いか、
なぜそれほどまでに、
そのことがぐさっときたのか、

「振り返り」をすることを、
誰か聴いてくれる人がいると、
「語る」ってことでやることができる。

「語る」ことで整理することができる。
頭の中だけでやっていると、
ごちゃごちゃするだけなのに、
それを言葉として口から出すと、
だんだんとだんだんと整理されていく
不思議。

それ以前の混沌とした思いから
整理することが
「語りなおし」だ。

「心のケア」とは、
結局は、
お相手の「語りなおし」にどう寄り添えるか
ということだ。

それは時には、
うなづきもいらず、
質問もいらず、
「コ・プレゼンス」(じっと見守り、案じている)、
つまりそこにいるだけでいい場合もあるんだよな。


時々私は思い上がる。
お相手の
感謝の言葉や、
回復のきざしに、
役に立ったように考えたりする。
もちろん、そういうこともあるかもしれないけど、
やっぱり、
簡単には分かりきらないはがゆさや、
もどかしさを、
忘れてはいかんと思う。

そのことを頭に刻むためにも、
「心のケア、お断り」という言葉の驚きは、
今の私に必要だったと思う。






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「語りきれないこと」

【2013.07.04 Thursday 18:57
街から車で40分くらいの
山の温泉にいく途中にある公衆トイレでのこと。

年を重ねた2人の女性が、
扉があいた3つのトイレの横にある、
閉まった1つのトイレの前に並んでいた。
少しして
同じ団体らしき女性の方が、
ぞろぞろ入ってきて、
「あいてるのに、どうした?」と声をかけた。

「私ら和式は入れないから、
 洋式があくのを待ってるんだよ。
 どうぞどうぞ、入って」

と言っていた。

私はそれを聞きながら、
あっそうか、
立ち上がるとき、
大変なのかなと思った。

日本に
和式トイレしかなかった頃のことを考える。

その頃は
日常の中に、
一日に何回かスクワットする時間が
あったってことだったんだなあ。
一日何回かのスクワットは、
毎日のことだから少なからず
筋力にいい影響も与えてくれただろうし、
何よりも、筋力が衰えるとトイレに行けなくなるから
なんとかしとかないと!と
みんながんばったんだろうな。
確かに洋式は立ったり座ったりが楽で
快適だけど、
快適さと引き替えに、失ったものもあるなあ
なんて考えていた。

ちょうどその頃、
鷲田さんの「語りきれない」ことの
「ディスエイブリング プロフェッショナルズ」に
関する部分を読んでいた。

これは「ケア」を仕事としいている人にとっては、
葛藤するところ。
サポートをしないとその方の生活が価値あるものに
ならないからこそするのだけど、
しかも、ケアプランをたてる時には自立を目指して
たてるんだけれど、
計画を実行にうつし始めると、
対象の方のできないことがふえていくことがあって、
そのジレンマを、わかりながら、抱えながら、
それでもサポートしていくしかない。


鷲田さんは
「じぶん自身がケアの能力を喪失していくプロセスを
  支えていたのは、より便利にというコンビニエンス
  の思想であり、豊かさはよいものだという思想、
  安心・安全の思想、そして安楽なのはいいことだと
  いう思想です。(中略)
 生活空間をより快適にし、社会をより快適に
  することが進歩であると考えてきたわけですが、
  実は市民の、命の世話をする能力、相互にケア
  しあう能力や仕組みをひたすらそぎ落として
  きたのです。あるいは、その仕組みが働かな
  いようにしてきた」
とあり、

今の日本のことを成熟社会というけれど、
「成熟」ではなく、鷲田さんの言葉を借りるなら
「安楽」社会なのかも・・・、
と考えたりした。

じゃあ、どうしていったらいいのか?
鷲田さんは2つの提案をしてくれている。
ひとつは「ケア」(特に「心のケア」)のあり方について
もうひとつは社会を構成している
私たち一人一人のできることについて。

(前者については別立てで書こうと考えている)

後者について、私たちに必要な力とは・・・。
「何かに直面したとき、それを以下の4つのカテゴリーの
  いずれかに適切に配置できる能力を備えているというこ
  とです。まず、絶対に手放してはいけないもの、見失
  ってはいけないもの、2番目に、あったらいい、あるい
  はあってもいいけど、なくてもいいもの。3番目に、
  端的になくていいもの。なくていいのに、商売になる
  からあふれているもの。そして最後に、絶対にあって
  はならないこと。
 (中略)
 大体でいいから、この4つのカテゴリーに仕分け
  することができているというのが、教養がある、
  あるいは民度が高い、ということなのです」
とある。

なるほどな。


でいったら洋式のトイレは2番目の、あったらいいけど、
なくてもいいもの って分類かな?

ほんとに、そう?
なくていいのか?私。

ってところで、
でたでた、私の中の総論賛成、各論反対。

やっぱ、洋式の快適さになれているんだもん。

社会のシステムのひとつひとつも、
今更ないのはちとつらいと思う。

あ〜こうやって、
心の、からだの、筋力をちょっとずつ失っていくのだわ。

そんなこと考えたのでした。
鷲田さんの「語りきれないこと」は
前述の「心のケア」に対してのほかにも、
「言葉」に関しても別立てで考えてみたい。





 
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谷澤 久美子
counselor