「共感」を考えた1年。 【2012.12.31 Monday 16:11】 |
2013年のお正月の花はアマリリスと千両にした。 大晦日はお料理の日。 今日は厚揚げと野菜の煮物、 黒豆、大根なます、煮豚などを作った。 野菜を刻みながら 1年を振り返るのは、 ここのところ、 毎年恒例になったなあ。 振り返ろうと考えて振り返るんじゃなく、 特に大根一本千切りにしている時に、 いろいろなことが頭が浮かんじゃうんだ。 今思うと今年は「共感」がテーマの年になった。 4月にアサーティブの仲間達との勉強会で 問題解決の方法メディエーションに出会った。 そこで今まで考えもしなかった自分の傾向に 気づかされた。 それは 「私は共感をしていることを、 相手に分かってもらおうとする傾向がある」 ということだ。 そして、 「共感していることをアピールする聴き方」は、 相手との信頼関係の構築には ちっともならない!と心から分かったんだ。 カウンセリングという仕事の中では、 目の前の方のことを分かりたいと願いながら 話を聴いているから 「共感アピールスイッチ」は入らない。 そうではない時、 たとえば、講座のファシリテートをしている時、 あるいは普段、知人との会話の中で、 技術として「共感を使おう」と考えた時は、 スイッチが入る可能性があることを、 自分で知っておいた方がいいと認識した。 これは、本当に大きな認識となった。 その後、 共感力の育み方に関して再確認する 出来事があった。 ひとつは5月に調べものをしている途中で出会った あるアンケート調査結果。 もうひとつは10月に読んだ一冊の本だ。 アンケート調査とは、 中学2年へのもの。 友だちとの間で嫌な出来事があった時、 適切にそのストレスをリリースできる子に育つためには、 幼い頃どういう対応をされていたかを調査したもの。 まず、 「友だちがあなたの秘密をばらしてしまいました。 あなたはどういう行動をとりますか?」 という質問に対しての答を2つのグル−プに分ける。 A群は適切(他者にあまり迷惑をかけない)。 「家で母親に愚痴をいう」 「部活でからだを思い切り動かす」 「大きい声で歌を歌う」 「すぐに寝てしまう」 など。 B群は不適切。 「その友だちの秘密をばらして仕返しする」 「ネットに悪口をばらまく」 「他の友だちにしかとするように頼む」 など。 そして、もう一問。 「幼稚園の時を思い出してください。 大事に飼っていた金魚が死んでしまいました。 あなたの周りの大人はどんな言葉を かけてくれたでしょう。 思い出してください」 に、 A群の子どもたちは、 「それは悲しいね」 「さみしくなっちゃうね」 「死んじゃったんだ」 など共感の言葉を書いた子どもが多かったが、 B群の子どもたちが選んだのは、 「命あるもの死んじゃうんだよ」 「また金魚釣りすればいいじゃん」 「もう一匹いるでしょ」 「お墓ほってあげなさい」 「いつまでもめそめそしてるんじゃない」 など、 批判、判断、アドバイス、問題回避などで、 金魚を失った悲しみや寂しさや辛さを 受け取ってもらえなかった経験をもっている・・・ そういう調査結果だった。 サンプル数があまりに少なかったことと、 過去をその通り覚えているかどうがはなはだ疑問では あるとは思ったけれど、 それでも、 「共感」された経験は、 ストレス反応システムも健全に活動するという仮説を、 提示されたように感じた。 10月に読んだ 「子どもの共感力を育てる」という本は、 帯に「なぜ人の『痛み』がわからないのか」 と書かれていた。 「共感は、誰かの優しさが周囲の優しさを 引き出していくという好ましい循環の中で 育っていき、悪循環の中で衰えていく」 という一文に出会った時、 上記の調査結果のA群の子どもたちは、 共感された優しい循環の記憶の中にいて、 B群の子どもたちは、 幼児期に、批判やアドバイスなどの コミュニケーションの中にいた可能性がある。 そうでなかったとしても、 少なくとも、当時、 あるいはそれから中2まで、 共感された経験が薄い、つまり悪循環の 中にいたかもしれないと考えた。 共感力を育むには、 絶対的に共感された経験が必要 自分のことも大切にできて、 相手のことも思いやることができる、 そういうふるまい方ができるようになるためには、 「共感」された経験は必要不可欠なんだと 確信した。 (幼い頃から共感をいっぱい浴びられたら それは素晴らしいこと。 でもそうばっかりはいかない。 また、我が子に幼い頃から共感してあげていれば それにこしたことはないけど、 いろいろな背景の中、 そうできなかった方もいるだろう。 でも、大丈夫。 人間は、いつからでも、いくつからでも、 自分を育んでいかれる。 回復していかれる。 満たし直せる。 気づいた時から、 していけばいい) 8月、バーニーが死んでしまった。 仕事で出張中の私に悲報。 夫と電話とメールで悲しみ合った。 仕事の仲間たちは、 誰一人私を励ましたりしなかった。 アドバイスも説教もしなかった。 気を紛らわせるような話題も降らない。 ただただ、 辛さ、悲しさ、苦しさを分かってくれる、 メッセージを寄せてくれた。 そのことがどんなに力になったか。 仕事をやり遂げるエネルギーは、 そこから生まれたと思う。 ネットで繋がっている友人、知人が、 私の苦しさを共に分かろうとしてくれた。 どうしようもない喪失の体験の中に、 いろいろな人が一緒にいてくれて、 つまり、大きな共感を寄せてくれて、 それは確実に、私を癒した。 11月にある小学校で「心の健康」の授業をした。 その学校の校長先生とは面識があり、 少し早めに伺った私は、先生とゆっくり話をした。 彼はカウンセリングに詳しい方。 いろいろ話している中で、 校長先生は 「人は人に、本当に共感ができるか?」 とおっしゃった。 「おお!その話聴きたい」と思ったところで、 授業の時刻となってしまい、 終了後も話を聴くことが難しかったので、 先生に改めて時間を取っていただき、 話を聴きに伺った。 私は、 子どもの近くにいる大人(保護者や教師など)に 必要な力のひとつが「共感力」だと考えていること を伝えた。 「自分の周りに、自分の心の傷みを分かってくれる、 あるいは分かろうとした他者がいないと、 あるいはあまりに少なかったりすると、 自分の傷みを大切にできない。 自分の傷みにさえそうなのだから、 同時に、他者の傷みがわからない、 あるいは鈍感になってしまうと思う。 だからこそ、教師に求められている最重要な 資質のひとつに『共感力』があると思うんです」 すると先生は、 「本当の意味で、他者がどう感じているかは、 結局はわからないと思う。 だけど、あなたが言っているように それでも『分かろうとする』姿勢は 大事だと思う」 とおっしゃった。 「では先生、先生方は、先生になるための 勉強の中で『共感』について学ぶのですか?」 すると先生は「そのカリキュラムはないと思う」 と教えてくれた。 先生方が全員、共感をいっぱい浴びて育ってきたとは 多分言えないと思う。 だとしたら、せめてまずは知識として理解するだけでも いいから「共感」を学んだ方がいいのではないだろうか? そして、せめて職員室が「共感しあえる場」となれば、 好循環の中で、 子どもたちの共感力に影響を与えることが できるのではないか・・・。 のような話をした。 先生との話は、 あっちへ飛びこっちへ飛び・・・だったが、 根は一つ。おもしろかったなあ。 11月に行った谷澤相談室の一回目の 勉強会は「感情に振り回されない」ため の時間を過ごした。 ここで学び合ったことは、 自分に共感することからスタートだ! ってこと。 共感から始まって、 感情からのメッセージを捉え、 メッセージに沿った行動をとっていくこと。 明日からの来年! 今年考え続けた「共感」を礎にした、 積み上げる1年にできるのだろうか? ま、田口ランディさんも言っているように、 「人は体験につかまるだけ」 「(大変なこと/大切なこと)は いつも向こうからやってくる」 「本当にすごいことが起こったとき、 私たちはいつも受け身だ。 その運命を受け入れるしかない」 だ。 来年もまた、これまでのように何かは起こり、 それにあたふたふたしながら対応し、 そして、その出来事を、 できるものは意味付けしていく、 それしかないんだな。 そうやっていけばいいんだよなあ。 2012年も本当にお世話になりました。 2013年も、どうぞ、よろしく お願いいたします。 |
author : tanizawa-k
|
| 日常 | comments(4) |
|