2012年12月の記事 | 今のところではありますが…
「共感」を考えた1年。

【2012.12.31 Monday 16:11
2013年のお正月の花はアマリリスと千両にした。

 
大晦日はお料理の日。
今日は厚揚げと野菜の煮物、
黒豆、大根なます、煮豚などを作った。
野菜を刻みながら
1年を振り返るのは、
ここのところ、
毎年恒例になったなあ。
振り返ろうと考えて振り返るんじゃなく、
特に大根一本千切りにしている時に、
いろいろなことが頭が浮かんじゃうんだ。

今思うと今年は「共感」がテーマの年になった。

4月にアサーティブの仲間達との勉強会で
問題解決の方法メディエーションに出会った。
そこで今まで考えもしなかった自分の傾向に
気づかされた。
それは
「私は共感をしていることを、
 相手に分かってもらおうとする傾向がある」
ということだ。
そして、
「共感していることをアピールする聴き方」は、
相手との信頼関係の構築には
ちっともならない!と心から分かったんだ。

カウンセリングという仕事の中では、
目の前の方のことを分かりたいと願いながら
話を聴いているから
「共感アピールスイッチ」は入らない。
そうではない時、
たとえば、講座のファシリテートをしている時、
あるいは普段、知人との会話の中で、
技術として「共感を使おう」と考えた時は、
スイッチが入る可能性があることを、
自分で知っておいた方がいいと認識した。

これは、本当に大きな認識となった。


その後、
共感力の育み方に関して再確認する
出来事があった。
ひとつは5月に調べものをしている途中で出会った
あるアンケート調査結果。
もうひとつは10月に読んだ一冊の本だ。

アンケート調査とは、
中学2年へのもの。
友だちとの間で嫌な出来事があった時、
適切にそのストレスをリリースできる子に育つためには、
幼い頃どういう対応をされていたかを調査したもの。

まず、
「友だちがあなたの秘密をばらしてしまいました。
 あなたはどういう行動をとりますか?」
という質問に対しての答を2つのグル−プに分ける。

A群は適切(他者にあまり迷惑をかけない)。
「家で母親に愚痴をいう」
「部活でからだを思い切り動かす」
「大きい声で歌を歌う」
「すぐに寝てしまう」
など。

B群は不適切。
「その友だちの秘密をばらして仕返しする」
「ネットに悪口をばらまく」
「他の友だちにしかとするように頼む」
など。

そして、もう一問。
「幼稚園の時を思い出してください。
 大事に飼っていた金魚が死んでしまいました。
 あなたの周りの大人はどんな言葉を
 かけてくれたでしょう。
 思い出してください」
に、
A群の子どもたちは、
「それは悲しいね」
「さみしくなっちゃうね」
「死んじゃったんだ」
など共感の言葉を書いた子どもが多かったが、
B群の子どもたちが選んだのは、
「命あるもの死んじゃうんだよ」
「また金魚釣りすればいいじゃん」
「もう一匹いるでしょ」
「お墓ほってあげなさい」
「いつまでもめそめそしてるんじゃない」
など、
批判、判断、アドバイス、問題回避などで、
金魚を失った悲しみや寂しさや辛さを
受け取ってもらえなかった経験をもっている・・・
そういう調査結果だった。

サンプル数があまりに少なかったことと、
過去をその通り覚えているかどうがはなはだ疑問では
あるとは思ったけれど、
それでも、
「共感」された経験は、
ストレス反応システムも健全に活動するという仮説を、
提示されたように感じた。

10月に読んだ
「子どもの共感力を育てる」という本は、
帯に「なぜ人の『痛み』がわからないのか」
と書かれていた。

「共感は、誰かの優しさが周囲の優しさを
 引き出していくという好ましい循環の中で
 育っていき、悪循環の中で衰えていく」
という一文に出会った時、
上記の調査結果のA群の子どもたちは、
共感された優しい循環の記憶の中にいて、
B群の子どもたちは、
幼児期に、批判やアドバイスなどの
コミュニケーションの中にいた可能性がある。
そうでなかったとしても、
少なくとも、当時、
あるいはそれから中2まで、
共感された経験が薄い、つまり悪循環の
中にいたかもしれないと考えた。

 共感力を育むには、
 絶対的に共感された経験が必要

自分のことも大切にできて、
相手のことも思いやることができる、
そういうふるまい方ができるようになるためには、
「共感」された経験は必要不可欠なんだと
確信した。


 (幼い頃から共感をいっぱい浴びられたら
 それは素晴らしいこと。
 でもそうばっかりはいかない。
 また、我が子に幼い頃から共感してあげていれば
 それにこしたことはないけど、
 いろいろな背景の中、
 そうできなかった方もいるだろう。
 でも、大丈夫。
 人間は、いつからでも、いくつからでも、
 自分を育んでいかれる。
 回復していかれる。
 満たし直せる。

 気づいた時から、
 していけばいい)


8月、バーニーが死んでしまった。
仕事で出張中の私に悲報。
夫と電話とメールで悲しみ合った。
仕事の仲間たちは、
誰一人私を励ましたりしなかった。
アドバイスも説教もしなかった。
気を紛らわせるような話題も降らない。
ただただ、
辛さ、悲しさ、苦しさを分かってくれる、
メッセージを寄せてくれた。
そのことがどんなに力になったか。
仕事をやり遂げるエネルギーは、
そこから生まれたと思う。
ネットで繋がっている友人、知人が、
私の苦しさを共に分かろうとしてくれた。
どうしようもない喪失の体験の中に、
いろいろな人が一緒にいてくれて、
つまり、大きな共感を寄せてくれて、
それは確実に、私を癒した。




11月にある小学校で「心の健康」の授業をした。
その学校の校長先生とは面識があり、
少し早めに伺った私は、先生とゆっくり話をした。
彼はカウンセリングに詳しい方。
いろいろ話している中で、
校長先生は
「人は人に、本当に共感ができるか?」
とおっしゃった。
「おお!その話聴きたい」と思ったところで、
授業の時刻となってしまい、
終了後も話を聴くことが難しかったので、
先生に改めて時間を取っていただき、
話を聴きに伺った。

私は、
子どもの近くにいる大人(保護者や教師など)に
必要な力のひとつが「共感力」だと考えていること
を伝えた。

「自分の周りに、自分の心の傷みを分かってくれる、
 あるいは分かろうとした他者がいないと、
 あるいはあまりに少なかったりすると、
 自分の傷みを大切にできない。
 自分の傷みにさえそうなのだから、
 同時に、他者の傷みがわからない、
 あるいは鈍感になってしまうと思う。
 だからこそ、教師に求められている最重要な
 資質のひとつに『共感力』があると思うんです」

すると先生は、
「本当の意味で、他者がどう感じているかは、
 結局はわからないと思う。
 だけど、あなたが言っているように
 それでも『分かろうとする』姿勢は
 大事だと思う」
とおっしゃった。

「では先生、先生方は、先生になるための
 勉強の中で『共感』について学ぶのですか?」

すると先生は「そのカリキュラムはないと思う」
と教えてくれた。

先生方が全員、共感をいっぱい浴びて育ってきたとは
多分言えないと思う。
だとしたら、せめてまずは知識として理解するだけでも
いいから「共感」を学んだ方がいいのではないだろうか?
そして、せめて職員室が「共感しあえる場」となれば、
好循環の中で、
子どもたちの共感力に影響を与えることが
できるのではないか・・・。

のような話をした。

先生との話は、
あっちへ飛びこっちへ飛び・・・だったが、
根は一つ。おもしろかったなあ。


11月に行った谷澤相談室の一回目の
勉強会は「感情に振り回されない」ため
の時間を過ごした。
ここで学び合ったことは、
自分に共感することからスタートだ!
ってこと。
共感から始まって、
感情からのメッセージを捉え、
メッセージに沿った行動をとっていくこと。



明日からの来年!
今年考え続けた「共感」を礎にした、
積み上げる1年にできるのだろうか?


ま、田口ランディさんも言っているように、
「人は体験につかまるだけ」
「(大変なこと/大切なこと)は
 いつも向こうからやってくる」
「本当にすごいことが起こったとき、
 私たちはいつも受け身だ。
 その運命を受け入れるしかない」
だ。

来年もまた、これまでのように何かは起こり、
それにあたふたふたしながら対応し、
そして、その出来事を、
できるものは意味付けしていく、
それしかないんだな。

そうやっていけばいいんだよなあ。






2012年も本当にお世話になりました。
2013年も、どうぞ、よろしく
お願いいたします。








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「サンカーラ」

【2012.12.26 Wednesday 12:47
田口ランディさんが、
自分の家族のことを書いたものを
これまでも読んできた。
その時々の彼女が考える父と自分との関係や
兄がどうして餓死したのかなどを読んできて、
考えに変化が起こっていることを、
そういうものだろうなと思ってきた。
どの時のどの考えもうそではなく、
それはその時の彼女からみた事実だったと思う。
そして、
父親が亡くなった時点で、
父と自身との関係に関することは、
一応の落ち着きみたいなものを感じたが、
兄とのことは、もっと奥がありそうに思っていた。

地震、津波、原発事故、
義理の両親のあいつぐ死、
などなど、異常だと思えるようなことが
いろいろあった1年を経て、
今回の「サンカーラ」では
父のことや母親のことも一層整理されていた上に、
「兄の人生をどう捉えるか」、
「兄の餓死をどう受け止めたらいいか」について、
いよいよ大詰めな感じをうけた。

彼女が「書くこと」の出発点になったのが、
なぜ兄の死からだったか、
すごくよく分かった。

それが明かされていく途中で、
彼女の物事の考え方の方法が
わかったような感じがして、
私はわくわくしたな。
だって、彼女の書くものが好きで、
彼女の考えていることが好きだから。



「大切なものはすべて家族から貰ってきた。
 体験として・・・。実感として・・・。
 それは向こうからやってくる」
と彼女が書いているように
家族の中で出来事は起こり、
それらは決してこっちから仕掛けて
何かが起こるのではなく、
ある日向こうから突然やってくる。
彼女は常にそれを受ける。
構えているところに何かがやってくるのではないから、
ひどく傷ついたり、
ひどく辛くなったりしながら、
彼女は受ける。
そして、
それをきっかけに
突然やってきたものの意味などを考え続けて、
そうしてるからこそ
見えてきているものがあることに、
考え続けている過程のぐちゃぐちゃまで
ひっくるめていいと、今回、そう思った。

たとえば、義理の父親が認知症が進んでいく間に、
彼女は
「こんな悩みを私に与えることができるのは
 縁あって仮の親子になった次郎さん(義理の父)
 だけだなあ」
と思う。
義理の両親とのつき合い方は彼女の考える問題となり、
そのことを考え続けることで、
自分の両親とのことの整理がついてくる、
そんな感じだ。



家族内の問題ではないことでも、
突然やってくるいろいろな問題を、
彼女は
自分に関連づけて考える。

たとえば、原発事故のあと、
イタリア人の友人に誘われてイタリアにいく。
そこで、
講演会が終わった後の陽気な友人やその知人たちに
混じるのが苦痛だったことから、
「内気な自分を取り戻し」、
「沈黙に宿る力」を感じる彼女。
そして、これまで原発に対して発言をし続けることを
自分に課していたことに思い至る。

「 3月11日以降、私は寂しさや哀しさという感情から
 疎外されるほど、動き回っていたように思う。
 社会が求めるものは常に発言であり、行動だった。
 沈黙も、瞑想も、求められてはいなかった。
 社会が求めるのは慈善と祈りだった。
   他者救済だった。誰からも自分に戻れ
   と言われないし、自分を大切にしろ
 とも言われない。社会性はいつも自分を
   犠牲にしろと暗黙のうちに迫ってくるのだ。
   私は避難場所を見失っていた。
 自分を慰める場所に戻れなくなっていた。
  そして、日本を離れてやっと、
   誰でもない自分になって、この古い城下町
   のホテルの一室にひきこもり、
 内気な自分を取り戻していたのだ。
   もしかしたら、いまもたくさんの人たちが、
   被災地で、シンポジウムで、デモ行進で、
   社会が求めるままに行動し、発言して
 いるんだろう。
   そこでは沈黙は忘れられているのだ。
  だが私はいま、沈黙に宿る力を感じている。
  それは私の本質にかかわる名もなき力であり、
 湖底に沈んだ一枚の金貨のように、ちらちらと
 力を発していた。」

ここで考えたことは、後になって、
父親がアルコールに依存していたのと変わらず、
自分が他者との関係に依存していたと気づくことに
繋がっていく。

「関係依存に陥っていたのだ。なんてことだ。
 これでは父親と変わらないと思った。生きる
 ために他者と関係していたのに、気がつけば 
 関係のために生きている。手帳はいつも予定で
 いっぱいで、一人の時間を失っても、誰かと
 会うことを断れなくなっていた。書き続け
 なければ忘れられてしまう。そんな不安を
 抱いていた。」


 
 
水俣、広島、飯館村、
そこで起こった出来事を、
彼女は自分と関連づけて考える。

彼女は問いを立てて考えている。

それは自分にとってどういうことなのか?

 「世の中どのような大惨事が起ころうとも、
 私の魂を揺さぶり、私を変えてしまう力を持つのは、
 とても些細な、個人的体験なのだった。それは
 あまりにも個人的すぎて、とるに足らないことに
 思えてしまう。でも、長い目で眺めてみると、
 とるに足らないと思えたことが、思いのほか
 世界と繋がっていくのである」

ほんとだ。
世の中のことを自分にひきつけて考える。
それは問題を小さくしてしまう訳ではなくて、
一端そう考えると、そのことはとても身近な
問題になる。そうしないと、どこかの誰かの
問題になってしまうのだ。
そうではなくて、
自分の問題として考えること。

自分の問題として考えないと、
「良い方向へ転換しよう・・・という努力を
 社会全体が目指せば,変わるかもしれないのに、
 そのようにはならない。たぶん皆が本当に心から
 安全を願っていないからだ」
となり、

「一人の人間の心が社会全体に影響を
 与えるとは信じがたいが、でも
 与えているのだ」
ということを信じられなくなる。

まずは、自分の問題として考えることだな。



その方法というか過程というか、
そのことが「サンカーラ」で
ちょっとだけのぞくことができ、
私は大変に大変に満足なのだ。






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過去がちょっと変わる。

【2012.12.25 Tuesday 18:04
今朝起きて、自分の夢に笑ってしまった。
こんな年齢になってまで、
まだ、そんな夢をみるか、私・・・と
おかしくなったのだ。

夢の中の私はまだ結婚をする前で、
コピーライターとして、
新宿3丁目にあった事務所で働いている。
その仕事場から、友人や上司と飲みに出て、
何かの勢いで、出会った男性と外泊をする。
で、朝起きて、
「アチャー、お母さんに、なんて言い訳しよう」
とあれやこれや考えている、そんな夢だ。

その頃母は静岡にいる訳だし、
夢だから相当変な部分はあったけど、
「母にどうやって隠れて悪いことをするか」
とか、
「母へいかにもっともらしい言い訳をするか」
などは、
一時期私のテーマだったことがあって、
そのことに関してはリアルな夢だった。

なんだかおかしくなりながらも、
そのリアルさに汗!って感じで、
それでも12月25日クリスマスは母の命日なので、
この夢を見る事ができたことが嬉しくなった。

夢でもいいから、会いたいんだ。



母は、私の次に私のずるさを知っていたと思う。
私は小さい、すぐばれるウソをよくつく子どもで、
それは多分、評価を得たいし、
評価を落としたくないからついていて、
そのことを、母はよく知ってくれていたと思う。
ウソに気がつかないふりや、
見逃してくれることが、多分たくさんあったと思う。

私は調子がよくて、いい加減だった。
たとえば「食器洗うの、手伝いなさいよ」と言われると、
「分かってるよ、あとでやるから残しといて」と応え、
そうすると、母が祖母の手前、結局やってくれることを
知っていた。
私がそういう流れになることを知っていてそう言うことを
母は知っていたと思う。

私がそういう子であることを母は知っていて、
そう育てた自身のことを責めたことがあると思う。

でも多分、そういう私でもいいと、
母は思ってくれていたように思う。

もちろん言葉で確認しあったことなんかないけど、
でも、私は、母が私のことを好きでいてくれることは
すごく分かっていた・・・と、今は思う。
善悪で分ければ、
私はおばあちゃんの貯金箱(1円玉や5円玉を集めていたもの)
を盗んだことや、
近所の友だちと子ども達だけでやきそばを食べるという
禁止されている行為をした時の卑怯なウソなどなどは、
悪で、
悪いことをする子だったけど、
善悪ではなく、
私のことを好きでいてくれた・・・と今は思う。

そういう故意の悪さの他に、
結構な年齢までおねしょをするという、
母にしてみれば本当に悩ましい私だったと思うけど、
それでも、
母が私を好きでいてくれてることが、
今思うと、私には分かっていた。

そういうこと以外のほとんどの時間は、
いい子ちゃんでいることを自分に強いていた私のことを、
母は、なんとなく分かっていたと思う。
「家業を継ぐ」という条件つきで愛されると
勘違いしていた私のことを知っていて、
でも、それをぬぐいとってあげきれない
「嫁」って立場の自身のことを、
多分、母は責めたこともあったと思う。
そして,私は今思うと、
そういういろいろなことがありながらも、
母は私を好きだって知っていた。
そのこと、分かってた。



自身を責めていた母は、
私のことを責めることもあった。
私も、そういうイヤな自分自身を責めたし、
それ以上に母のことを責めてばかりいた。


母が私のことを好きでいてくれることは、
分かっていたんだけど、
母と一緒にいてごまかしたり、うそついたり、
目を盗んだり、そうする自分のことは、
自分自身で、あんまり好きにはなれなかった。



そういう私たちが、お互い素直になれたのは、
夫のおかげだと思う。


私は夫(当時は恋人)と一緒にいる自分自身が好きだった。
彼のことが好きなのは当たり前だったけど、
同時に、彼といると自分のことも好きになれる、
そんな人は初めてだった。


そして、母は、
自分のことを好きでいられる私のことを、
喜んでくれていたと思う。
そんなこと言葉で確認しあったことはなかったけど、
一度、
「谷澤さんとつきあい始めて、
 おまえの服の趣味は変わったね。
 今が一番いいね」
のようなことを言ってくれた時、
母はすごく嬉しそうだった。
洗濯機のそばだったな。



多分母は、
上からいろいろ見ていて、
私以上に私たちのことを知っているんだろうな。

そして彼に
「あなたのおかげで、久美子は、
 自分のことをなかなかいい!と
 思えたと思う。
 あの子にそんなにふうな
 時間を作ってくれてありがとう」
みたいことを
言いたいんじゃないかな?
もちろん、母はそんな言葉を使う人じゃなかったけど、
そういうことを言いたいって思ってると思う。




1988年12月25日に母は亡くなって、
母に関して、あっちからこっちから、
いろいろ、いろいろ考える。
過去は、見方によって新しくなるし、
まだまだ考え足りないような気がするな。

時々夢にでてきてくれたらいいなと思う。
52歳にもなって、
夢でもいいからおこられたり、隠れたりしたい
って思う。





















author : tanizawa-k
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イライラをめくってみると。

【2012.12.22 Saturday 18:16
たとえば、
子どもの塾が終わるのは9時半。
でも10時になっても、10時半になっても
帰ってこない。
携帯に電話するけど出ないし、
メールしても返事をよこさない。
玄関を出たり入ったりしているところに
のんきな感じで帰ってくると、
つい
「何時だと思ってるの!(怒)」。

腹が立つ。
そののんきな感じに腹がたつ。
「お母さんが、こんなに心配だったこと、
 あんたには分かんないの!
 連絡くらいしなさい。
 そのために携帯持ってるでしょ!」

腹立ってるんだけど、
気持ちは複雑で、
腹立ってるだけじゃなく、
「心配」
って感情もあったりする。


「怒り」は二次的感情で、
「怒り」という感情が
湧く前に湧いている感情があると
言われている。
その感情の存在を意識すると、
大分対応が変わってきたりする。

上記の場合の一次的感情は「心配」
ってことになる。


たとえば
あれこれ難癖をつけて、
なかなか仕事をOKしてくれない上司に
激しい怒りがわいたとしたら、
それは
認めてほしいのに、認めてもらえない、
さみしさや悲しさがあるかもしれないし、

部下が思うように独り立ちできず、
いつまでも手取り足取り教えている状況に
怒りを覚えたら、
それは、
困惑や、
(自分自身の教え方への)情けなさなどが
あるかもしれないな。



うちの義母は
時々、
通常通りの時間に迎えにきてくれる
デイサービスの担当の方を待たせる。

私の目からみると、ゆっくりと髪をとかしたり、
お化粧したりしているように見えて、
腹が立つ。

怒りという感情をめくってみると、
なんとまあ、

デイサービスの方からの
私(つまり嫁)への評価が低くなることへの恐れ
という気持ちがあることに気がついた。

時々
「お化粧なんていいじゃん、 
 どんどん支度してよ!腹立つ!」と
叫びたくなるのは、
「あせり」や
「申し訳なさ」の他に、
「評価が気になる」
ってのがあったんだなあ。

そこに気がつくと、
なんだか、す〜っとして、
やるべきことが見えてくる。

評価を下げたくないなら、
そのためにできることしよう。

30分前に声かけて、
一緒に支度すればいいんだよなあ。




子どもが、
何度言っても
お風呂に入るまえにぐだぐだTVみていたりすると、
「毎日言ってるのに、
 なんで、同じこと言わせるの!」
となるけれど、
その怒りをめくってみると、
「どういえば分かってもらえるのか、
 困ったなあ」
があるかもしれないし、

テストの点が悪かった子どもに、
「こんな点とッてどうすんの。
 なぜ、こんなことも分からないの!」
の怒りをめくってみると、
「大丈夫かな、
 心配だなあ」
があるかもしれない。


話をちっとも聴いてくれないパートナーに対して
腹がたつ。
子どもの進路のことなのに、
パートナーの親のことなのに、
何で聴いてくれないの!と
冷たい怒りでコーティングしたものをはがしてみると、
さみしさや
一人で考え一人で決める心細さがあるかもしれない。



怒りという感情をめくってみようと書いているけど、
だからって、怒りという感情が悪い感情だと言ってる
つもりは毛頭ない。

感情に善悪ないし、
怒りも立派な感情だ。

そして、
人種差別撤廃も、
飲酒運転の厳罰化も、
脱原発のムーブメントも、
怒りから生まれたんだ。


ただ、巻き込まれるとやっかいな感情ではあるから、
冷静に対処するための方法として、
はがしてよく見てみるってやり方もある
って知っておくといいな。



以上のようなことは、
少し違う視点ではあるけれど、
「CL~建設的な生き方」では
「感情はメッセージ」として、
アサーティブトレーニング応用講座では
「怒りの取り扱い」というテーマで学ぶことができる。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



第4回アサーティブ・カフェIN静岡のお知らせ
日時:2013年3月23日(土)13:15〜16:45          
会場:静岡県教育会館 
会費:3000円
定員:20名(アサーティブジャパン主催又は谷澤相談室主催の
        アサーティブトレーニング基礎講座を終了した方対象/先着順)
 *6名以上で開催
講師:谷澤久美子

<お申し込み方法>
faxかメールで以下を記入の上お申し込みください。
受付後詳細をお送りします。
★谷澤相談室主宰の勉強会、講座、カフェに参加されたことがある方は、
 お名前と懇親会参加の有無だけお知らせいただけれな結構です。
① 氏名 ②住所(〒番号も) ③電話番号 
④詳細をお送りする時のご希望の連絡方法(電話:携帯:fax:メール)
⑤受講された講座名 
⑥懇親会参加希望の有無
メール:kumikotanizawa@gmail.com


*このウェブサイトは、
NPO法人アサーティブジャ パン認定講師である谷澤久美子が個人で開いているブログです。このウェブサイトに関する全ての責任は谷澤久美子にあります。NPO法人アサーティブジャパンが運営・管理しているウェブサイトではありませんので 予めご了承ください











































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ほそ〜く、ながく。

【2012.12.19 Wednesday 07:14
年賀状やらなきゃ!とか、
大掃除、どこから手をつければいいんだろう、
お歳暮の支払いにいかなきゃ、
お正月の電車の予約、まだだっけ・・・。

なんとなく気ぜわしい頃。

先週の土曜日は、
気ぜわしい暮れの大切な半日を、
アサーティブ・カフェで
アサーティブに浸ることを
選んでくださった方々と共に過ごしました。

オープンにしてもいいとチェックくださった方々の
感想をシェアします、

「アサーティブ・カフェは、私自身が安心して
 プライベートな課題を話せる場です。
 誰も私の話を否定したり批判をしたりしません。
 また少し自己信頼が高まった気がします。
 ロールプレイも、今日は自分の感情も要求も
 伝えられました。
 今までで一番上手く自己表現できたと思います。
 そして私を理解しようとしてくれて、
 温かいフィードバックを、
 一緒にロールプレイをした仲間かたもらえたことが、
 とても嬉しかったです。
 これからも自己成長していきたいです」

「なぜかいつも涙が出てきてしまうのは、
 人に真剣に話を聴いてもらえるからでしょうか。
 話を聴いてもらえることが、こんな
 に心をゆるませるのかと思いました。
 講座は結構きっちりしたカリキュラムがありますが、
 カフェは復習やドリルのような感じで、
 もう一度自分で学んだことを
 アウトプットできる気がしました。
 私にとって究極のアサーティブになりたい関係は娘です。
 どうしたらすんなり届くのか、
 どうしたら人と上手におつきあいをし
 生きていく力を育めるのか、
 そのための、私にとっての課題は
 山ほどあると思いました」

「今日のロールプレイでは、
 本当に簡単な事例で取り組みました。
 そうすると、課題の整理の仕方と問題点が
 明確にしやすいなと思いました。
 どんな事実があって、そのことに自分がどう感じ、
 どんな変化を望んでいるのか、ということが分かり、
 自分の抱えている難しい方の課題についても、
 少しずつですが整理できています。
 また、ある程度着地点が見えているロールプレイを
 行うことにより、実生活との違いが明確になって、
 うまくいかない理由がわかったと思います。
 そしていつも思うのが、他の方も含めて、
 その人なりの参加の仕方が温かく許されている感じが、
 とてもいい空気感ということです。
 私にとってとても大切な時間です。
 ありがとうございました」

「とても楽しかったです。
 そしてとっても素敵な時間すぎて、幸せでした。
 どの方も、大変なこと、苦しいこと、つらいこと、
 それぞれ抱えながら悩みながら、それでも一生懸命
 な姿をみて、ほんとに人って、大人って素敵だなと
 思いました(自分も大人ですが・・・)。
 自分達の前に素敵な大人がたくさんいるんだと思うと、
 そんな人たちに少しでも近づけるよう努力しよーと、
 刺激を受けました。
 自分の中にあるどんな感情にも誠実にありながら、
 コミュニケーションは変えていける。
 出来なくても自分を責めすぎない。
 できないことや、やっちまった!と思うことがあっても、
 そんな自分を少しでも好きになれるよう
 ぼちぼちやっていこうと思います」


この他にも、様々な感想をいただいています。

ちょっとずつちょっとずつ、
でもほそ〜くでも
継続してやっていきましょう。


*このウェブサイトは、
NPO法人アサーティブジャ パン認定講師である谷澤久美子が個人で開いているホームページです。このウェブサイトに関する全ての責任は谷澤久美子にあります。NPO法人アサーティブジャパンが運営・管理しているウェブサイトではありませんので 予めご了承ください








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「責め」は簡単にひっくり返る。

【2012.12.16 Sunday 11:33
昨日は第三回アサーティブカフェIN静岡を開催した。
13名の方と共に、
今年最後のアサーティブに浸る3時間をすごした。

このカフェでは、
日頃のアサーティブな体験(失敗も含めて)を
語っていただく時間があり、
その時間がとっても好きだ。

それぞれが話してくれることを、
アサーティブのテキストの言葉にして解説をすると、
その方以外の方々も、
日常のご自分の体験と関連づけて、
それなら自分もアサーティブな瞬間があった!と、
パッと表情が輝く瞬間が、
とってもいいと思う。

今回はロールプレイをきっちりやられた方が
9人。
伝えたいことの整理をして、それを一回言葉に出して
みて、あとはおしゃべりを選んだ方が3人。
課題を整理し、あとは相手役を務めることを
選んだ方が1人。

こういう自分で参加の仕方を選べるのも、
好評だ。





私の話も少々聴いていただいた。
「責めすぎなくなること」
について話した。
詳しく話さなかったので、
ここに書いてみる。


その日、
講座に向かうために駅のホームで電車を待っていた。
電車がやってきて、私の前に止まったドアは、
降りる方がどなたも立っていないドア。
それで、ドアがあいた瞬間に、
電車の中に入った。
すると、
同時に一番端に座ってらした二人の
年を重ねた女性が立って、
私をみて
「降りる人が先でしょ」と
おっしゃって降りていかれた。

来た来た、批判。
批判の言葉が飛んできたぞ〜。

批判の言葉が飛んできたとき、
どう対処するかは応用講座で学ぶ。
そのスキルを使って対処できることは多いのだが、
(できないことも、ある。
 講師といえども、完璧とはいえぬ)
その考え方の部分が、
本当に自分に役立っているのだ。

そういうことがあった時、
以前だったら、私は1日イヤな気持ちだった。

まず、
「ごめんなさい」って以前だったら、
すぐ言ってたと思う。
「なんてことしてしまったんだ」
と自分を責める。

しかし、すぐに腹がたってくる。
「だって、ドアの前に立ってなかったじゃん」
と相手を責める気持ちがわいてくる。

「責める」言葉の矢は、自分から、
簡単に方向変えて相手に向かう。

「電車が止まった瞬間、
 座ってたじゃん。
 降りる用意くらいしといてよ」

「自分たちがゆっくりしてること棚にあげて、
 さっと行動した人を責めるって、
 どういうことよ」

「ほんと、自分のことしか考えないんだから!」

相手を責めまくる。

でも、そこで終わらない。

相手を頭の中で罵倒している自分がきたなく思えて、
次には再び「責める」言葉の矢を放つ方向を、
自分向けにひっくりかえす。

「でも、お年寄りだった。
 電車が止まる時の振動を考えて
 立たなかったんだ。
 すぐ乗り込むんじゃなくて、
 ちょっと待てばよかったのに、自分。
 そんなことも思いつかなかった」
と自分を浅はかな人間のように扱う。

「いつも、マナーは守りたいって思って
 いるはずなのに、結局できてない
 自分ってだめ」
と評価を下す。

「誰か見てたらどうしよう」
と周りからの評価を気にする。
(確かに、過剰な自意識がありました)

以前だったら、
そんなことをぐるぐる繰り返し、
相手をワルモノにしたり、自分をワルモノにしたり、
気分の悪い時間を過ごしたものだった。
他にもいろいろあったりすると、
時には1日スッキリしないなんてことも。




この日の電車のその一件の時、
以前だったらそうだったろうなあ・・・
となんとなくおかしくなってしまって、
そして、
今の自分の、
その瞬間の気持ちや一瞬で考えた自分の考えを、
言葉にしておいた。

「あ〜ショック。そう感じたか、あの女性。
 ただ、それ誤解だよ。
 ま、人間、誤解することもあるか。
 しかも、彼女からみると、
 そういうふうに見えたかもね。
 私ももうちょっと、待てばよかったかな。
 ま、次回からは一息ついてから
 乗り込むか。
 さ、メールチェックしよ」

そんな感じ。


多分、
「責めすぎない」ことが、
習慣化してきたんだと思う。

相手を責めるドッカン型。
表現方法は違っても、
やっぱり相手を責めるネッチー型。
自分を責めるオロロ型。

相手に向かっているか自分に向けているかの差であって、
(言葉の)矢を道具をとしてもっているのが
上の3つのパターンだ。

それだと、
どっちが正しくてどっちが間違っているか、
はっきり決めようじゃないよ、
と争う感じになってしまう。
(オロロは自分の頭の中で争って、
 自分が間違っているとしてしまう)

そうではなくて、
自分も相手も責めないアサーティブ。
自分も相手も尊重するアサーティブ。


小さな、
こういう
本当に
ささやかな体験を重ねて、
身につけていく。




相手にも、相手の価値観、考え方、経験値がある。
それは大切なものだと思う。
それらが水面下にあって、
水面から出ている岩が
「降りる人が先でしょ」。

そして私には私の価値観、考え方、経験値がある。
それを大切にしたい。

他者との差異を大切にしながら、
「責める」ことを目的にした言葉の矢は使わないことは、
人間関係をよりよくしていくための
コミュニケーションにとどまらず、
心の安定にも役立つんだよなあ。



とはいえ、
「責めない」は、かなり難しいので、
「責めてしまう」こともあるけど、
(自分も相手も)「責めすぎない」くらいに思っておくと、
いいかなあ。



★第4回アサーティブカフェin静岡は
3月23日(土)13時15分〜16時45分(時間変更しました)
今年度最後です。
練習に、検証に、リフレッシュに、使ってください。
夜、飲み会も開催します。

詳細は「谷澤相談室」のサイトに12月20日にアップします。





*このウェブサイトは、
NPO法人アサーティブジャ パン認定講師である谷澤久美子が個人で開いているホームページです。このウェブサイトに関する全ての責任は谷澤久美子にあります。NPO法人アサーティブジャパンが運営・管理しているウェブサイトではありませんので 予めご了承ください


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ノーが言えない依頼の仕方。

【2012.12.14 Friday 21:36
14日夜9時くらいのニュース?の中で、
ビジネスコミュニケーションについて、
ちらっとやっていた。

来年のお正月は
三ケ日のあと、
1月4日を休みにすると、
連休が3日増える。
この4日に有給休暇をもらうために
なんと言ったらいいかを
やっていたのだ。


まず、番組のレポーターが依頼をする部下役をやり、
専門家が部長役をやる。
部下「部長、1月4日なんですが、
   有給とらせていただいて
   いいですか?」

部長役の専門家は解説をし、
「質問で依頼するのは、
 相手にノーの権利を与えてしまうので、
 この依頼の仕方ではだめです」
のようなことを言う。

私はびっくりする。
相手にもノーという権利あるじゃん!

もちろん、質問形で依頼をするのは、
率直ではないと思う。
だから
「休みをください」と言い切る方がいいとは思う。
しかし、その後
「いかがでしょうか?」と
相手の意向もききたいではないか。



ちなみに、専門家が部下役をやり、
お手本を見せてくれた。
部下「部長。
   有給の申請は一週間前までということでしたよね」
部長「うん」
部下「ではお正月の有給の申請は間に合いますね」
部長「うん。だな」
部下「それではお正月4日の有給を申請いたします」

部長役をやっていたレポーターの方は、
「これでは断れない」と言っていた。

なんか、ぐいぐいときて、
追いつめられるような
そんな感じの論法。


交渉事などの時には、
もしかすると必要かもしれないけど、
少なくとも、私はこういう部下と働くとなったら、
いろいろ身構えるだろうなあ、



仕事場は風通しが良い方がいいし、
支え合えるチームの中で働きたいと思ったら、
これでは、どうなんだろう。


もちろん、
この専門家の方は、
この時は、
いい人間関係を築くためのコミュニケーションではなく、
断れない依頼の仕方ということで解説していたので、
この専門家の方の方法論の、
そこの部分だけを取り上げてのひとコマ。
しかも、このロールプレイ時のボディランゲージは、
さわやかだった。さすが!






自分の主張を、
貫き通すコミュニケーションではなく、
相手を言いくるめるコミュニケーションでもない。
自分の意見や感情を、
相手を尊重しながら伝えるコミュニケーションのあり方。
アサーティブ。

明日は、アサーティブの練習の場、
そして日頃のコミュニケーションを
アサーティブの視点で整理する場、
アサーティブ・カフェIN静岡を開催します。


楽しみだなあ。




*このウェブサイトは、
NPO法人アサーティブジャ パン認定講師である谷澤久美子が個人で開いているホームページです。このウェブサイトに関する全ての責任は谷澤久美子にあります。NPO法人アサーティブジャパンが運営・管理しているウェブサイトではありませんので 予めご了承ください






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「分人」という考え方。

【2012.12.10 Monday 09:45
「自分らしくありたい」とか、
「あなたらしいね」とか、
「らしく」って言葉を、
結構普通に使っていた頃も、
相手に求める時には使わない方がいいことを
頭の隅においていたと思う。

それは、
私の恩師の杉井保之さんから教わった
「性格ってものをひとつに決めなくていい」や、
「CL建設的な生き方」から教わった、
「事実をありのままに受け止める」ってことが
根底にあったからだと思う。

その時その時、
いろいろな性格でいいし、
その時その時の現れが事実で、
それをカテゴライズしないくていい
という考えが、私にはあっていたと思う。



2年ほど前に中学生に
「じぶんとのコミュニーケション」という話をしたことがある。

この時、
「自分」という漢字を、
「自ら分かっていく」と、
「自らを他と分ける」という意味で使って
話を進めた。


しかし、上記のことを知っていたのだから、
もうひとつ
「自らを分ける」という考えでも
話すことができたなと、

この平野氏の「私とは何か」を読んで
思った。
頭の中にあったことを言葉にしてくれた
「やられた!」感のある本だ。

平野氏は人の最小単位を
「個人」とせずに、
一人の人は、
「対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている」
「分人」であると考えていて、
そのひとつひとつは分数で表されると、
この本の中で説明してる。

上司の前で妙におどおどする自分、
これも「自分(分母)分の1」だし、
すごく仲のいい友だちと一緒にいる
気兼ねなくなんでも話せるのも、
「自分(分母)分の1」。
恋人の前の自分、
父親の前の自分、
すべてが「分人」という考え方。
いつも一緒でなくていい。
統一していなくていい。

このことは、
多くの人を楽にさせると思う。


「らしい」「らしく」を求める考えとは、
そのたくさんの構成「分人」の中に
軸となるようなものを探して、
それでふるまえた時「その人らしい」ということだけど、
平野氏はそうは言わない。

一人の人を構成する「分人」全部が「本当」であって、
「本当の自分」なんてものは存在しないと考えている。

その時々に大きな比率をしめている「分人」はあって、
私たちは「足場となるような重要な『分人』を一次的に中心
にして」考えることもできると言っている。

これはすごく便利な考え方で、
私も、意識せずにやっていると思う。
なぜなら、私の仕事場は学校だけで
4つあって、
その中の一つで思うように活動できない時、
うまくいっている学校での自分を、
自分の中で支えにしていると思うから。

ひとつの分人がうまくいかなかったら全てダメではなく、
うまくいっているところ、
自分を好きでいられること、
どこでの自分を今の自分の足場にするか、
それを考えていけばよくって、
そのことを続けていくことで、
うまくいっていないところへ
いい影響があることもあるってことだ。
すべてやめにしてしまったら終了・・・
だけど。
そんなんじゃない。


「好きな分人が一つずつ増えていくなら、
 私たちは、その分、自分に肯定的に
 なれる」
とは、本当にその通りだ。

自分の全部を好きになれなくても、
あの時の自分のあの行動はなんとなくいい、
あの人と一緒にいる時の、
あの自分のふるまいは捨てたもんじゃない、
そういうことが、
自分で見つけられればみつけられるほど、
つまり、
分人全部を集めると100%の自分になる訳だけど、
その中の何%かはいやだし嫌いでも、
残りの何%を肯定できれば
生きる力になっていく。

「今、ここ」の考え方だよなあ。



この考え方をもってすると、
平田オリザさんが「わかりあえないことから」
という著書の中で困ったことだと紹介していた
ダブルバインドについても
答があるように思う。

日本企業は今コミュニケーション能力を就活中の学生たちに
求めているが、
それは
「異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、
 きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的背景が
 違う人の意見も、その背景を理解し、時間をかけて説得
 納得し、妥協点を見いだすことができる。そしてそのような
 能力をもって、グローバルな経済環境でも、存分に力を
 発揮できる」
という能力だけではなく、
同時に、
「上司の意図を察して機敏に行動する。会議の空気を読んで
 反対意見は言わない。和を乱さない。といった日本社会に
 おける従来型のコミュニケーション能力」
も求めていて、
つまりは矛盾した二つの能力を同時に要求しているのに、
要求している側が、その矛盾に気がついていない点が
始末に悪い・・・という意見。

平野氏の考えでいくと、
そういう2つの「分人」を自分の中にもっていると、
生きやすいようだということなんだろうし、
従来型の「全体主義」や「同調圧力」を「分人」として
使ってやるくらいの感じでいた方が、
「そうすべき」と捉えるよりも現実的なんだと思う。

コミュニケーションを学ぶってことも、
自他尊重の上の主張をしたいって分人が思った時に、
それができる準備をするってことだよなあ。
いつもいつも、コミュニケーションが上手でなくなって
いいってこと。





平野氏は、
「愛する」ということを、
分人の考えを使って説明している。

「愛とは、『その人といるときの自分が好き」
という状態のことである」
と言う。

そして、
自分の好きな「分人」をある程度持っていることが、
自己肯定感が高まるならば、

Aさんに自己肯定感を高めてほしいと思ったのならば、
Aさんの私といる時の分人が、
「谷澤といる自分の分人が好き」って思えてもらえるような
私であればいいってことだ。

子どもたちが一番多い時間をすごす大人、
つまり親や先生たちが、
「この目の前の子の自分といる時の分人が、
 嬉しかったり、楽しかったり、
 自身をOKって思えるような、
 そういう大人でいよう」
って思うことは、
めちゃ大切だと思う。












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はらへたまっていくかなしみ。

【2012.12.06 Thursday 19:27


今朝の新聞の一面の下段に
「はらへたまっていく
 かなしみ」
という本の広告があって、
仕事の合間に、
なんとなくその言葉が頭の中に入ってくる感じで、
気になるので
帰宅後すぐに調べると、
この本は八木重吉さんの詩集で、
この詩は男声合唱のための曲にも
なっていると分かった。


//////////////////

はらへたまってゆく かなしみ  

かなしみは しづかに たまつてくる
しみじみと そして なみなみと
たまりたまつてくる わたしの かなしみは
ひそかに だが つよく 透きとほつて ゆく

こうして わたしは 痴人のごとく
さいげんもなく かなしみを たべてゐる
いづくへとても ゆくところもないゆえ
のこりなく かなしみは はらへたまつてゆく

///////////////////


こういう詩だ。

あ〜分かる。

腹がたっていても、
よ〜く考えてみると、
それは悲しみだったりすることがある。

母が死んでしまった時、
私は
「なぜ、こんなに早く(母享年52)に死んだのか!」
「入院していて、どんどん悪くなるとは、
 何事か!」
「この病院は信じられないから、
 他の病院に診てもらおうと言ったのに、
 なぜ父は動かなかったのか!」
と怒りでいっぱいだった。

ぶつけようがなくて、
大きな声で病院の廊下の手すりにつかまって
おいおい泣いて、
大きな声で泣く事はエネルギーを使うことで、
そうやって、
今となって考えてみると、
私は怒りのエネルギーを放出し、
その後に
深い悲しみがあった。

エネルギーの怒りとは対照的に、
確かに悲しみはしずかだった。
涙は、後から後からでてきたが、
おいおい泣くというよりは、
ぬぐってもぬぐっても
ぬぐいきれないような、
そういう涙だった。

あの時のことを、
この詩を読んでいて思い出す。

そしてあの時の
からだ中が冷えていくような悲しみを思うけど、
それでも、
涙を流して外に出せた悲しみは、
この八木さんのたまっていく悲しみとは、
また違うかもしれないと思う。

悲しみは喪失からくる感情であることが多い。

愛する人を失った。
大切なものを失った。
地位や立場、身分や環境などを失った。
目的や価値観を失った。

そういう時に、
ただただ泣かせてくれて、寄り添ってくれる人がいたり、
ぽつぽつと話すと、ただ黙って聴いてくれる人がいると、
「はらへたまって」はいかずに、
少しずつ外に出てゆく。

今年はバーニーという、
本当に大切な家族を失ったが、
私には、
気にかけてくれる仲間や友人や家族や、
夫がいて、
その人たちが入れ替わり、
私の悲しみを受け止めてくれたから、
「はらへたま」らなかったと思う。


悲しみは押さえこんだり、
「悲しくなんかない」と否定したりすると、
自分や他者に冷酷になっていく場合がある。

喪失以外にも、
分かってもらえない、
大切にしてもらえない、
認めてもらえないと、
人は悲しみを感じることがあるが、
その時は
まず自分の悲しみを、自分で認めることが
大切だ。

「あ〜私は悲しい」と自分で認める。

そして、泣いたり、話したり、
外に上手に出していくことで、

悲しみの中に引きずり込まれたり、
自ら悲しみの中に引きこもらずにすむ。


「はらへとたまってゆくかなしみ」は、
あまりにも辛すぎる。









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来年の<谷澤相談室>

【2012.12.04 Tuesday 21:09
来年の学校での働き方を決めて、
市の教育委員会に書類を提出した。
すべてその通りになるかはわからないけれど、
考えて出した今のところの決断にすっきり。
明確に決定するまで、選択は続くが、
自分の人生のハンドルは、
自分で握って進む。

学校での働き方を考えることは、
その他の働き方を考えることでもあった。
そして、
来年は
谷澤相談室を充実させていこうと考えている。

ひとつは、相談に来てくださる方々の話を
もっともっと聴けるようにすること。

もうひとつは講座や勉強会の数を増やすこと。

前者の方に関しては、
美容院のような感覚になるといいなって思ってる。

私は贅沢かもしれないけど、
美容院に月に一度いっている。
白髪染めとカットをしてもらう。
そうして、顔の作りや肌そのものは、
どうしようもないけれど、
整えられるところは整えようと思っている。
それは
根元が白髪だとみっともないからっていう
外からの評価を気にしてってこともあるけど、
それよりも、
自分自身が自分のために整えている感じがしている。
そうしてることで、
自己信頼感にプラスの影響があるように思う。

私は月に一度だけど、
3週間に一度行ってる人もいるだろうし、
2ヶ月に一度の人もいるだろう。
その間隔は自分で決めて、
「髪」を整えるように、
「毎日」を整えるというか、
そういう時間を持ってもらうようにしたいなって思う。

学校の中で子どもたちの話を聴いても、
保護者の方や先生方の話を聴いても、
講座や講演で、参加してくれた方々の様子を
みていても、
多くの人に「聴いてもらってない」ことを感じる。

安心して何でも出せる場。
自分、
毎日、
生活を、
話しながら
整える場。

もっともっと安心してもらえる
そういう場を作っていきたいと
思ってる。


後者の方は、
「感情に振り回されない選択」という勉強会をした際の
感想に背中を押してもらったと思う。

以下受講生の方のオープンにしてokとしてくださった方の
感想の中から。

「今回は、まさに私が求めていた内容でした。
 『相手は私に腹を立たせようと思って
 やっているのではないかもしれない』という言葉、
 何で今まで気づかなかったのだろうというくらい
 目から鱗でした。私は何か腹が立つことがあると、
 きまって『まったく腹を立たせやがって!』と
 相手の中に絶対私を怒らせようとしていると、
 決めつけていることがわかりました。」

「8つの感情を感じて、自分を含め、
 みんな頑張っているんだなあと思った。
 うちの息子は無発語で気持ちを言語化できないけれど、
 この8つの感情は湧いているだろう。
 不器用な娘も感情がいっぱい湧いているだろう。
 この世の中には、世渡り下手がたくさんいて、
 そういう人にこそ、こういうことが伝わるといい。
 私自身、少しでも分かってあげられる人でありたい
 と思う」

「みなさん、いろいろなことを抱えて生きているけど、
 なんとか折り合いつけて生きているんだと思いました。
 自分が大変な時はなんで自分ばかりと
 思ってしまいがちですが、
 そう思っても、今日の方たちの思いを思い出して、
 ゆっくりやっていきたいと思いました」

「がんばっている自分を認めて生きていこう!
 と思いました。
 いろんな感情が湧いたけど、
 少し気持ちが楽になりました。
 やっぱり人は共感されて、
 心の傷が癒されていくのかな〜と
 感じました」

「『感情とそれが表すもの』の分類や、
 (それぞれの)感情を抑えた時に起こること、
 (それぞれの感情を)認めた時に起こることが
 分かってすっきりしました。
 講師のたとえ話が、本当にその通りで、
 なぜ分かるんだろうという気持ちと、
 皆同じような日常を送っているんだと安心する
 気持ちでほっとします」

などなど、まだまだ本当に濃ゆ〜い感想をいただき、
本当に開催してよかったと思う。

来年は
アサーティブカフェを年4回開催することと、
勉強会も4回くらいは開催してみたい。
「ストレスとの付き合い方」、
「自己肯定力を高めるきっかけ」、
「聴く力を磨く」などと、
引き続き
「感情について」も
取り上げたい。


さ、今年もあと一ヶ月をきった。
やるべきことはやる。
やってはいけないことはやらない。
やった方がいいこと、
これは、あとどんなにがんばっても一ヶ月だもん、
やろうと思うよ。









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谷澤 久美子
counselor