2011年07月の記事 | 今のところではありますが…
「翼」

【2011.07.31 Sunday 09:13
 久々に小説を読みたいと思ったのは、
何週か前の毎日新聞の書評を読んでのこと。
「翼」の著者白石さんの言葉として、
「決定的な喪失は、人の心を鍛える」
というものが紹介されていて、
私も、それはホントに同じ考えで、
それで読みたくなった。

「翼」を読んでみると、
自分の真実の人生を求めてやまない男性と、
その男性から、
絶対的なパートナーだと告げられた女性の物語だった。

「真実の人生」を求める・・・つまり、
「自分探し」的なものは、私はあまり好きではない。
「結果的に自分のある部分を確認した」
というものはありだと思うけど、
最初からそれをねらってのものは、苦手だ。

困ったなと思いながら読み進めた。
なんだけど、
やはり物語の力がすごくて、
しかも、メッセージがストレートに伝わってきて、
これはこれでいいんじゃないかと思った。

著者が言いたかったこととはずれるかもしれないが、
私に伝わってきたメッセージは、
「信じる」とは、「信じられるから信じるではなく、
信じると決めて信じる」ということ。

というのは、彼が彼女を絶対的なパートナーだと信じたのは、
何か説得力のある根拠があってのことではなく、
「この人が自分のパートナーだ」と分かった瞬間に、
そう信じることを決めたと、
私からみると思えたからだ。

信じるってのは、
信じるって決めることだと思う。

信じられるから信じるってのは、
信じているんじゃないのかも・・・と思う。
信じられたら信じようとするのは、
その時点で疑っている。
疑っているから、
信じるための根拠を探そうとする。

以前、まだ若かった頃、
多分私は恋愛するたびに、
それを繰り返した。
「私のこと、愛してる?」と訊く時は、
そのことを不安に思っている時だったし、
恋人が飲みに出かける時に、
誰とどこで飲んでいるか知りたいのは、
不安を解消してほしくてだった。

今その必要がないし、
それは私が、彼を信じると決めたからだ。
信じるって決めると、
信じられる理由を探したり、
信じるための言葉をもらったりする必要がなくなる。





この小説を読んでいる途中で、
ジュリア・ロバーツの
「食べて、祈って、恋をして」という映画を
レンタルしてきて見た。
ストーリー自体はおいといて、
最後に彼女がたどりついた考えは、
とてもいいと思った。
それは
「バランスをとって生きていくことは大事。
 でも、多少のバランスのくずれも含めて、
 バランスがとれていけばいい」
のようなものだったと思う。

私は、その通りだと思った。

この「翼」という小説でいうと、
「バランスのくずれ」を、
もう一刻も受け入れることが
できなくなってしまったのが、
彼だと思おう。
もちろん、そういう人生もある。

それは、自分が絶対だと信じた相手に、
自分の想いを受け入れてもらえなかったことだ。

それが彼の決定的な喪失。

彼女は、
自分が彼に決定的な喪失感を与えてしまったことに気づき、
それほどまでに自分を必要とした人を失ったことが、
決定的な喪失になったと思う。

しかし、決定的な喪失は、人の心を鍛える。
だとしたら、
彼女がこれからどう生きていくのか、
そこからが読みたいと思った。

しかし、小説はそこで終わる。



途中、彼の言葉の中に、
「結局、人間は智恵や理性では絶対に行動しないからね。
 例外なく感情のままに行動する」
と言う場面がある。

これはほっとけない言葉だ。

確かの行動を起こす時の動機のひとつに
感情もある。
だが、どういう感情がわいたとしても、
感情は感情として受け止めて、
智恵と理性で行動するのが人間ではないのか!
と思う。

著者は帯に
「いよいよ通念を拭うときだと
 確信しています」
と書いている。
この「通念」とは、何を意味しているのかな?

もし、「感情はわくが、智恵や理性で行動を
抑制し、社会生活を上手に送っていくこと」を
通念というのなら、
それを拭う時なんだろうか?

「長年一緒に暮らしてきた妻に、
 『自分の本当のパートナーがみつかったから、
 離婚したい』
と告げ、
『OKしてくれなかったら死ぬ』ってのは、
 それはダメだよ」
ってことが通念だとしたら、
それを拭っていいのかな?

それは「拭う」ものではなく、
努力するものではないだろうか?
そういう想いを抱いた自分を、
なんとか分かってもらおうと、
言葉を尽くしたり、行動で示したり。

こう考えるのは、
私がいろいろなことに捕われているからで、
著者の白石さんは、もうそういうことを
通り越しているのかもしれないが、
私は、

ちょっとくずれたことも含めてバランスを
とって生きていくことを取りたいな
って思う。


・・・ってなふうに、
頭の中に、波を起こしてくれたって意味で、
読んでよかったと思う。









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コミュニケーション力。

【2011.07.28 Thursday 17:28
3・11以後、
コミュニケーションの力というものは、
ますます大切になってきていると思う。

被災された方々が、
物をすべて失っても、
支え合って生きていく姿を、
画面やネットや新聞を通してだけど、
たくさんみた。
何もなかったとしても、
自分の中に、
人間関係を作っていく道具をもっていることが、
その人を助けた。

人と共に生きていく、
つまり
支え合う時も、
意見を交換しあう時も、
コミュニケーションの力は大切だ。

実は今まで、
「それが理由」
と思っていた。
でも、なんとなく、
それだけじゃない・・・っていう
もやもやした感じがあって、
もう少しで捕まえられそうだけど、
言葉にできない・・・
もどかしい時間があった。

それが、
この度、まったく明確に
それそれ!というところまで考えが至った。
(ただ多分、まだ表現は半端だと思う)


私は以前から、
子どもがどういう大人になってほしいかという目標を
「①自分で考え、選び、決め、行動し、
  その行動の結果を負える人になってほしい。
 ②他者にお世話になって生きている事実を知って、
  できればお返ししながら生きていってほしい」
と二つ掲げていた。
(もちろん、これは子どもに押し付けるつもりなどなく、
 単に私が子どもにかかわる時の、どこをめざすかの
 目標だ)

①は自立
②は共生

先にあげたコミュニケーションの力をつけたい理由は、
どちらかというと、②に関することである。
他者との間のすれ違いを解消したり、
他者からの援助を、必要がなけれは断ったり、
あるいは助けが必要な時には依頼をしたり、
つまり、
②に関して、コミュニケーションの力は、要だ。

①を実現していくためには、
どちらかというと「耐性」の力が必要だ。
「耐性」には、
やりたくないことでも、やった方がいいことをやる
「努力する力」と、
やりたいことでも、やるべき時でなければやらない
「我慢する力」がある。
この力があると、
自立に向かう基礎体力があるってことになる。

ただし、それだけでは足りなくて、
もちろん①にも、
コミュニケーションの力は必要。

たとえば、
「今日、飲みにいかない?」と誘われる、
自分で考え、選び、決め、行動し、行動の責任を負うなら、
するべきことは、
どうするか考え、いくつかの選択肢の中から選び、
決め、それを伝えるかどうか選び、
伝えるという行動をするなら、
コミュニケーションの力が必要だ。
「誘ってくれてありがとう。だた、今日はからだが
 しんどいんだ。やめとくよ。
 次回は、私から誘っていい!」

つまり、自立にとっても共生にとっても、
コミュンケーションの力があることは、
基礎的なこと。


で、ここからなんだ。
ここからが、
ようやく最近まとまってきた考えとなる。


①の
自分で考え、選び、決め、行動し、
行動の結果に責任を持って生きていく・・・
ということの中の、
「自分で考え、選び、決め」ってことが、
「そんなの当たり前」という社会の中で、
「考え選ぶ決めること」を、
適当に扱ってなかったか?って、
ここにきて改めて考えたんだ。

毎朝楽しみに見ているドラマ「おひさま」では、
太平洋戦争のあと、
登場人物のそれぞれが、それぞれの戦後を
生き始めた。
主人公の女性教師は、
今までの教科書を墨で塗りつぶす指導をする時、
とても「考え選び決める」ことなどできなかった。
子どもが生まれて産後すぐに復帰することを、
快く思っていない校長、
産休の制度がしっかり整っていないことから、
夫に赤ちゃんを職場に連れてきてもらい
お乳を与えること、
そういう中で、
「考える」ことはできても、
「選べる」ほど選択肢はなく、
選択肢のない中からそれしかないものに決め、
そんな中でそれでもなんとか
自分らしく生きようとしている。

翻って私たちは
「考え選ぶ決める」ことができる時代を
生きているのに、
そのことを本当に大切にしているか?
と自分に問うた。


「おひさま」で戦後を見ることで、
一層、
地震、津波、原発の自己の被害に合われた方々の
ことを考えた。
あの、突然の出来事。あの日すべてが、変わってしまった。
生きててくれた人々も、紙一重だったと語り、
選ぶも選ばないもなく、
とりあえず生活できる土地へ移り住んだり、
避難所や仮設住宅でしのいでいる。
選ぶほどない選択肢の中を、
なんとか決め生きてくれている。
「考え選び決め」という状況ではないんだと思う。

では、「考え選び決めること」ができる時代、場にいたら、
そのことを本当に大切にするとはどういうことか。

まずは、もっともっと「考え選び決めること」を
使うということだと思う。

周りからの評価を気にしたり、
立場や役割にしばられたり、
年齢を理由にしたり、
性や学歴や自分の性格や傾向に
とらわれたり、
そうして、
本意ではないかどうかも考えないで、
差し出されたものを流れで受け入れたり、
小さくめばえた希望や願いを押し殺したりしないで、

考えて、
そしていくつかの選択肢をたてて、
自分のために決めるってことに、
もっともっと真剣になっていいのではないか?

あるのに使わないのは、
使えなかった時代、場にいた方々に
あわせる顔はない。
ちょっと↑この表現がいいかどうかは分からないが、
そのようなことを考えた。

「考え選び決めること」を
ないがしろにしてないか?私。
そう考えたんだ。


さらに、
「考え選び決めること」を真剣に捕らえるとしたら、
それを他者に、他者のことを思いやりながら、
説明することの責任を追うことが重要だ。

なぜそれを選んだか、選ばなかったか、
「人が二人以上いれば
 権利の衝突は起こるものだから」(byちょんさん)
明確に説明する責任が生じる。

他者の権利を侵害しないと決め、
自分の考え、選び、決めたことを、
伝える。

感情をぶちまけながらでも、
ひねくれた方法でもなく、
相手も尊重して、伝える。

それをしないのは、
「考え選び決める」ことのできない時代、場、状況にいた方に、
申し訳がたたない。



ものすごく理不尽なことだけど、
どうしようもなく主体的に生きられないこともある。
突然、何が起こるかわからないのが生きているってこと。
だとしたら、
主体的に生きられる時は、
そうしないで、どうする?

主体的に生きられる喜びを、
他者も大切にしながら、
他者の権利は守りながら、
分かってもらおうとしなでいて、
どうする?


3・11以後、ますます
コミュニケーションの力が重要だと思うのは、
そんなことから。




日常的に頭の中で、
ずっとひっかかっていながら、
とりあえずおいといた問いが、
「おひさま」、
ちょんさんの講座、
ミスターノーバディという映画、
香山さんの本を読んだことなどから、
まとまってきた。
もっと上手に表現するための、
まだまだプロセスの中だけど、
一旦、今のところの考えを
まとめておいた。






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「ぼやくよ」宣言。

【2011.07.27 Wednesday 16:27
Facebook上での、
大学の同級生のグループでのおしゃべりの中で、
Mさんが、
「ぼやくよ」
という書き出しで、
あることを投稿してくれた。

私はこの書き出しの
「ぼやくよ」
に、参った。
いいなあと思った。

「ぼやくよ」と宣言してくれてあると、
読む方は、安心して読める。
書いた人は、
別にアドバイスを必要としている訳でも、
なぐさめをほしい訳でもなく、
ただ、ぼやきたかったんだなって分かるから。

相手想いの宣言である。



ある時、ある方がこんなことを言っていた。

「不公平なことがあってね、
 それをちょっとだけ愚痴りたくてさ、
 上司に、ポロっと言ったの。
 私としては、聴いてくれればそれでよくて、
 『そりゃ、苦労かけるね』くらい言ってくれれば、
 それでよかったの。
 なのに、上司はさ、動いちゃってね、
 なるべく平等になんて、いろいろなところに
 手を入れちゃったのよ。
 変える前のもので動いていた人たちにとっては、
 結構迷惑だったと思うんだ。
 決まっていたことを、
 まるで私がいちゃもんつけて
 ひっくり返したかのような形になってしまってね。
 年齢的に私がその中で上司の次に上だからさ、
 余計に、なんか、居心地悪くてね。
 私は、自分の負担が多いけど、
 そのこと自体をやることは、
 全然よかったのよ。好きなことだし。
 ただ、ちょっとだけ言いたかっただけなの。
 ほんと、困ったよ」

私は、そういうこと、あるなあと思って、
「そりゃ、困ったね」
なんて聴いた。

そういう時には、
「ちょっと愚痴ります」
って言ってから話せばいいんだよな。

そうそう、ほんと、そうだな。

「ぼやくよ」
「愚痴るよ」

なんか、いいなあ、それ。

世の中にはいい人たちも多いから、
役に立とうとしてくれたりする。
困っているなら力になりたいし、
自分のもっている情報で助けられるなら
助けたいと思ってる人も多い。

でも、気が重いなにかを抱えている人が、
全員アドバイスがほしい訳でも、
心配がある人が全員、助けてほしい訳でもない。

ただただ、
そ〜っと聴いたり見たりしてくれれば、
それでOK!なんて時もあるものだ。

だから、この宣言は自分想いでもある。

相手想いだし、自分想いだ。




よく、愚痴ったり
ぼやいたりすることを、
ネガティブだと言って嫌う人もいる。
そういう人もいていいと思うが、
私は愚痴もぼやきも、
まったく問題ないって思ってる。

そういうのに蓋して、
「ポジティブに考えよう。
 これは私に与えられたチャンス! 」
なんて、いきなり思える人は、そう思えばいいけど、
もし無理矢理だとしたら、
そう思い込むのは、
ポジティブにコーティングしているだけで、
心にとってあまりおすすめできることではないと思う。

安心できる場で、
まずは「ぼやくよ」「愚痴るよ」
と宣言してから話す。

やっぱ、いいよ、これ。すごくいいと思う。



逆に大切な話しで、
アドバイスがほしい時は、
「アドバイスがほしいことがあるんだ」
って言ってから話せば、
相手もそのつもりで聴いてくれるんだろうな。



さて、バーニーの散歩の時間。
行ってきま〜す。





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「3・11後の心を立て直す」

【2011.07.26 Tuesday 14:17
3月11日以後のことを考えると、
そのすぐ後と、一ヶ月くらいたった時、
そして今という感じで、
同じ「3・11後」といっても、
とても一言では言えない感じだ。

その中で、
あの時からますます強くなる想いや考えがある。
そのひとつに、
二元論の中にはいたくないというものが、
私の中にはある。
つまり、
原発派か反原発派とか、
再生エネルギーの推進か原発維持か、
などという両極端の思考の中ではなく、
その間にある様々な可能性を考えたいと
思っている。
これは、もちろんエネルギーの問題だけではなく、
私の日常の中のあらゆるところで、
生かしたい考えだ。

どちらが正解かを
問いつめるコミュニケーション、
勝ち負けを決めつけるふるまい、
ワルモノ探しや、
決めつけ、レッテルはり。

これらは、
すべて二元論に通じていると思うし、
私はそれを選びたくないと、
3・11以後、ますますその想いを
強くしているのだ。


香山リカさんのこの本は、
私が二元論と理解していたことを、
「二分化思考」と表現している。
なるほど、そっちの方がわかりやすいかも。

そして、3・11以後あらゆるところで、
話題にされてきた二分化思考について
分析をしている。

たとえば
復旧か復興か
自粛か経済を回すか
利己か利他か
ネットかリアルか
情報については偽か真か

どちらにも決めかねる中途半端な状態よりは、
○は×か、
善か悪かという考えは、
すっきりして気持ちがよいので、
仮にであってもどちらかの立場に自分をおいて、
仮にであっても安心したいというのは、
人間だから持ちがちな思いではある。

でも、香山リカさんは言う。

「ここはしんどくても、
 『答えはこのどちらでもないのだ』と
 自分に言い聞かせ、常に白黒両方の可能性を
 頭に起きながら、心はいつも柔軟にして
 『いまは白が7割で黒3割』『おっと黒5割まで
 戻してきた』とその時々もっとも賢明なスタンスを
 取るようにするしかない」

「ふたつの極端な選択からなる天秤を
 少し引いた地点から眺めながら、
 そのバランスをどの辺りに定めるかを
 冷静に考える、このようにいわゆる
 『俯瞰の視点』を持つために、
 何より大切なのは気持ちのゆとりだ。
 心身ともに負いつめられている状態では、
 俯瞰しようにもその余力を持てず、
 その場の直感に従って
 『白だ』『黒しかない!』と
 選択せざるを得ない」

「私たちは今こそ、
 『○さもなくば×』といった考え方を
 乗り越えて、『○でもあるが×でもある』という
 広く深い思考法や価値観を身につけることが
 できるはずなのだ。
 それはすぐにできなくても、少なくともさらに
 思考や選択の二極分化を激しく進める、
 といったあやまちは食い止めなければならない。
 それは3・11を生き延びた人間の
 最低限の責任だと言っていいだろう」


二分化思考ではなく、
柔軟な思考と、
冷静や判断で、
様々にわいてくる感情に巻き込まれず、
自分の意見をまとめていくこと。
そういうふるまいをすること。

本当に大切だと思う。



さて、
私の仕事のひとつに、
保護者の方への講演というものがある。
子どもとのコミュニケーションの取り方について、
現場で子どもの声をきき、保護者の方の困っている
ことを一緒に考える機会があるので、
お声がかかると思う。

100人以上の方が参加されるような
講演になったとき、
視覚でも分かっていただこうと、
パワポで作ったスライドを使って話すこともある。

実は、このパワポ、ベースは2年前に作ったもので、
それをちょこちょこ進化させながら使ってきた。
伝えたいことは、ずっと変わらずというか、
というか変えられないほど、大切にしていることなので、
今まではちょこちょこした修正でやってきた。

しかし、3・11以後、どうもしっくりこなくていた。

それでも今までは、それが何かのか、なぜなのか、
なんとなく分かりそうで明確にならない・・・
という感じだった。

なのだが、やっと言葉になってきた。

それで、昨日から全面的に作り直している。
まだまだ途中で、悩みながらだけど、
自分にしっくりこないものを、
お話する訳にいかないので、
当日までねばってやろうと考えている。

ひとつの問をたて、それについて、
会場全体で考えていけるような、
そんなパワポにしたいと思ってる。
問いは、今のところ、
「明日がわからない不安定さの中、
 これが正解!という答がない人生の中を、
 生きていく。
 さらに、人生において、
 絶対に失敗がないとは言い切れず、
 間違いを犯してしまうかもしれない。
 人に裏切られたり、あるいは、
 どうしようもなく裏切ってしまうこともあるかも。
 でも、それでも生きていく。
 それでも生きていく力を子どもたちにつけていって
 もらうには、どういう関わりがあるだろう」

さあて、明日は一日、このパワポと
その他8月前半の講座研修のための
資料作りに専念できる日。
がんばらないとなあ。




3・11以後、
いろいろなことが変わってしまった。
その中で、
大切にしなくてはならないことは、
正面きって大切にできるようになった気がして、
そのことは、生かそうと思う。

私の中でもやもやはあるし、
まだまだ無力感はあるけれど、
それでも、目の前にやるべきこと、
した方がいいことをしていくんだ。














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「ミスター・ノーバディ」

【2011.07.25 Monday 17:32
もし、私が中学受験をしないで、
地元の中学に行ってたら、
人生どうなっていたかな?なんて考えてみる。
夫は、
中高時代にできた友人のお兄ちゃんの友達だから、
きっと彼とは出会えなかっただろう。
そしたら、今の私はどうなっていただろうな?

ここで、こうしてパソコンのキーボードを打つ生活を
してたんだろうか?どうだろう?


「ミスター・ノーバディ」は
「もしも、あの時、もうひとつの方を選んだら」
を、体験してしまったらどうか?という映画。

人生ってのはAとBのうちAを選んでも、
また分かれ道がきて選んで、
しばらく行くと、
また分かれ道があって選んでと、
無数の可能性が広がっている。

だから、この映画でも主人公ニモは
可能性のあるすべてを生きることはできない。

しかし、
三人の女性を中心に、
たとえばお互い愛し合っているアンナとだったら
どんな時間を過ごし、
自分は愛しているのだけど、他の人を愛している
エリーヌと結婚したら、
あるいは、
自分は愛してはいないけど、彼女からは愛されている
ジーナとの結婚生活はどうだったかが
描かれている。

そのどれもでニノは一生懸命に
自分の人生を生ききっている。
その時その時のできることをしているし、
彼なりの精一杯で生きている。

ニノが死ぬ間際に頭に浮かんだこととして
これらが描かれているが、
「結局どれが彼の人生だったか」と
考えるのは意味がなくて、
どれだったとしても、
彼は彼の人生を生きたと感じられたことが、
すごく良かったと思った。




生きているということは、
選択の連続だ。

そして一瞬先のことを
確信をもって見通せることもできないし、
何が起きるかはわからないから、
絶対はありえなく、
成功は必ず約束されるものではない。

つまり、
確信はないながら、
迷いながらも、
何かを選び、
選んだことの結果を、
なんとかかんとか受け入れたり、
選んだことの責任を負っていったりすることを
連続して、
人生ってことになっているののだ。

こう文字にしてしまうのは簡単だけど、
実際のところは、
結果がついてこなければ激しく後悔をして、
なぜもうひとつの選択肢を選ばなかったかと、
自分を責めたりすることもある。

でも、
本当は、
そのことを経験した今の自分だからそう思うのであって、
その時の自分は、多分、どうしたって、
もうひとつを
選んだりしなかったりするのではないだろうか?

そこぐらいまでは、この映画を見ないまでも、
なんとなく理解できることだったんだけど、
この映画を見たら、
選択に、そうこだわらなくてもいいのではないかと
思えたことが大きな収穫だ。

どういう選択をするかよりも、
選択した後にどうするかの方が意義深いし、
選択そのものに良いも悪いも、成功も失敗も、
善悪もなく、
ただ、自分が選んだことの中で、
どう生きていくかが大きな問題なのだ。





3・11以後、
選択の意味が、
すごく変わってしまったと思う。

自分では選べない、
理不尽な状況が突然やってくるかもしれないという現実を
見てしまったら、
自分で選べたことの結果くらい、
潔く引受けていこうよ・・・
とすごく思う。

後悔って確かにするけど、
自分で選べることができたのなら、
その選んだ結果の後悔なら、
後悔できることだって、
贅沢なことかもしれない・・・
とさえ思う。


だから、
正解などなく、
不確実な毎日であるけど、
とにかく自分のやるべきことや
した方がいいことをやっていくだけってことだ。


なんか、とめどなく、
そんなことをだらだら考えております。











author : tanizawa-k
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ケースで考える。

【2011.07.23 Saturday 21:40
今日は二回目のちょんさんの
ホワイトボードミーティングの講座に参加。
今回は学校の先生対象だったので、
私にとっては、もうあっちこっちにヒントがいっぱいの
一日となった。

特にホワイトボードミーティングを使った
ケース会議は、
ケース会議に参加した時に私が抱えていた
課題の改善策が見えてきた。

(ケース会議とは
 何か問題や困ったことが子どもに起きたときに、
 担任や学年主任、部活の顧問や、養護教諭、管理職、
 スクールカウンセラーなど、その子に関わる人が
 集まり、支援のための方法を考え、
 役割分担をする会議)

私が参加するケース会議は、特殊な場合が多い。

たとえば、
A君という子が何か問題を抱えているとしたら、
A君に関わる大人が参加するのが本来だが、
私のこれまで経験しているものは、
ほとんど場合、
週一行われている会議(相談部会とか連絡会とかと呼ばれている)
のいつものメンバーに、
A君の担任が加わって、
A君に関するケース会議をやるというもの。

つまりA君とは日常関わりがない教師もいる。

私の課題とは、
対象の生徒児童とは、直接関わりのない教師も、
なんらかの収穫があるケース会議にするために、
私にできることって何?
というものだった。

もちろん、一番の目的は
対象の生徒児童が
いきいきと生きていけるようになるために
適切な支援を受けられるようにすることだ。
これは絶対的なもの。

さらに、
そのことを目的に一生懸命に
参加者たちが考え合うことで、
おまけがついてくる、

たとえば、

あれ?このケースを考えていたら、
うちのクラスのBさんの顔が浮かんできた。
あの子に対する支援のヒントがみつかったぞ!

とか、

このケースを通して、
クラスの子たちとの信頼関係を育むために、
明日やった方がいいことがひらめいた!

のようなことがあったらいいなと思ってたんだけど
そのために、
私にできることは何か?という課題に対する
ヒント満載だったんだ。

ケースを考えながら、
そのケースを通して、
他の生徒児童たちのことをも
考えられる会議。

それって、可能なんだ!
って思った。

しかも、それができるのは、
すごく知識豊富で経験もケース数もたくさんある
自信に満ちて信頼も篤いカウンセラーだと思っていたが、

そうでもなくて、

ホワイトボードミーティングという方法と、
ファシリテートの技術で
ある程度できそうだということが、
本当に本当に本当に、
嬉しくなった。

私でもやれるかも!という感じ。

そのためには愚直に練習と言っていた。BYちょんさん。
うん、うん、やっていこうじゃないのさ。

私の一番のハードルは
「ホワイトボードに書く」という部分だと思う。
夏休み明けをめざして、
うちのへたれなホワイドボードを使って、
練習、練習、また練習だあ。

がんばるぞおおお。









author : tanizawa-k
| SC | comments(2) |

不満の果実。

【2011.07.21 Thursday 22:13
ちょっとここのところ、
ちょくちょく「不満」ってことについて
考えてる。

すごく考えている訳ではないけど、
なんとなくちらっちらっと考えてる。

昔、ドラマのタイトルだったか、テーマだったかで、
「くれない族」って言葉があって、
これは「〜〜〜してくれない」という
相手に依存している女性たちの話だったように
記憶してる。(けど間違ってるかもしれない)

この「〜〜〜してくれない」
「〜〜〜してくれなかった」と、
「不満」(満たされず)は、
とても繋がっていると思うし、
それと依存、
つまり自立していないってことは、
直に繋がっている。

優しくしてくれない。
サポートをもらえなかった。
わかってくれない。

そういう考えが湧いたら、
つまりは、
自分の中にある依存に
気づくチャンスだとも言える。

それはイコール、
(精神的な)自立へのスタートを
きったってことになる。



私がこの「〜〜〜してくれない」
と考えたことがあるのは、
子どもたちへの授業で、伝わらない感が
あった時だったように思う。

聴いてくれなかった。
静かにしてくれなかった。

そんなことを考えたってことは、
私が子どもたちに甘えていた証拠だ。

子どもたちが聴こうと思えなかった授業、
静かに集中したいと思うような授業を
しなかったのは私なのに
子どもたちに甘えてた。

私だってがんばったんだから、
せめて聴いてくれてもよさそうなのに、
聴いてくれないんだもん!

これではだだっ子だ。


でも、チャンスなのは、
そう思ったってことは、
子どもに依存していることを認めたって訳だから、
そこから一歩でるチャンス到来ってことなんだ。

子どもたちに依存しなくても、
自分で工夫できることをしていこう!
これって、自立的な考え方だ。


彼がわかってくれない。
夫が理解してくれなかった。

こう思ってしまったら、
あれれ?彼に依存してるかも、
夫に甘えているかも・・・
と一瞬考えてみたほうが、
相手を責め続けるより、
ずっと解決が早い。

だって、相手は自分の思い通りにならないが、
自分のことは、自分でなんとかなる部分があるから。

彼がわかってくれるように、
自分にできることは何か、
夫が理解してくれるように、
自分は何をしたらいいか・・・
こう考えた方が、
問題解決は進むんだよなあ。


ただし、ことは、そう簡単ではない。

「〜〜〜してくれない」という不満をもった時は、
「怒り」という感情を伴っていることが多いからだ。

このことを、
「不満」ってことと上手につきあっていくために、
知っておいた方がいいかもしれないなあ。

この怒りは、
自分の希望(依存)に応えない
相手への怒りでもあるし、
その奥には、
希望通りに扱ってもらえなかった自分への怒りも
含まれていることが多い。

これが、めちゃくちゃになって、
自分の元にやってくる。

なんで気がついてくれないの!
と相手に対して猛烈に腹が立ち、
気づいてもらえない自分に、
さみしさが裏にある怒りを感じる。

怒りは、感情の中でもとりわけ扱いに難しい
感情だから、
これに巻き込まれてしまうと、
不満を自立へのスタートになんかできなくなってしまう。

だからこそ、冷静な時に、
理論的に、
こういうことを知っておく方がいいんじゃないか
と私は思うんだ。

もちろん、知っていたからって、
「〜〜〜してくれない」の考えが自分を襲ってきた時に、
すぐに
「じゃ、自分にできること、探そ」とはいかない。
でも、
頭のどこかに知識があれば、
せめて、ちょっと怒りが治まるまで待とう・・・
くらいのことは選択肢に入るのではないかと思う。



不満に咲く花の果実は、
自立へのスタート、
私はそう思っている。

でも、簡単に実はならない。

怒りという風や日照りから、
守らないとならない。

その道具は、もっとく方がいいだろうな。
(興味がある方は、
 「怒りをどう扱うか」というテーマを
 おすすめしたいなあ)






私がなぜこのことを、
最近ちょくちょく考えるかというと、
義母が時々、そのことで苦しんでいるからだ。

多分私や夫に対しても、
義父に対しても、
不満があって、
その不満のもって行き場に、
時々どうしようもなく辛くなっていると思う。

もちろん義母は、
ある程度の年を重ねているから、
体力的にも、記憶や理解する力においても、
他者に依存しないとやっていけない面はある。
しかし、時々、くっきりはっきりしている時に、
「くれない」の嵐の中にいるようなんである。

それがなかなかね、
せつないのです。

つまりまたまた、
私の考えることの源に義母がいて、
結局、
私を導いてくれてるのだあ。


*このブログは、
NPO法人アサーティブジャ パン認定講師である
谷澤久美子が個人で開いているものです。
このブログ記事に関する全ての責任は
谷澤久美子にあります。
NPO法人アサーティブジャパンが
運営・管理しているウェブサイトでは
ありませんので 予めご了承ください。








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見たいことを見て、聴きたいことを聴いている。

【2011.07.19 Tuesday 17:58
知人で美術系を専門にされている方が、
友人(声楽家)と花鳥園に行った時のことを
話してくれたことがある。

彼女は、花鳥園に咲く鮮やかな色の花や、
色とりどりの鳥に目を奪われて、
「きれいねえ」と言ったそうだ。

そうしたら、
彼女の友人は、
「本当にきれいね。
 いろいろな鳴き声あるわね。
 風の音もいい感じだわ」
と言ったそうだ。

お互い、
興味ある所にしか注目がいかないものなのね、
って言って笑い合ったんだと
教えてくれた。

これって、ほんと、そうだなと思う。

夫と同じ新聞を読んでいるのに、
私が気になる記事と、
彼が注目した記事は、
全く違って、そんなこと書いてあった?なんて
しょっちゅうだ。


事実は一つでも、
事実の受け取りかたは、
人それぞれ。
おもしろいものだ。


おもしろいけど、
おもしろいで終わらせないことが大切だよな。

6月のある日、Twitterで友人が
「丸ノ内線、エアコン無し、あっちぃ。
 表向き『節電』の美名のもと、
 その陰で経費節減に知らず知らず
 協力させられている気がしなくもない。
 電車は冷房つけようとなんだろうと
 基本がエコだと聞いているぞぃ。」
とツイートしていた。

私は
「東京の地下鉄って、エアコンなしなの?
 そうかあ、それは汗っかきで暑がりの
 私としては、覚悟していかねば。
 情報ありがとう。」
と返信した。

すると、友人からすぐに、
「いやいや、情報じゃないです。
 たまたま僕が乗ったのがエアコンを
 切っていただけかもしれませんし。
 最近、切ってる車両もままあることは
 実体験してますが、単なるぼやき、
 つぶやきなので、
 あまり拡大して解釈しない方がよろしいかと。」
と返信もらった。

本当に、その時、私はめちゃ恥ずかしい気持ち。
その週末、東京出張があったので、
どの服もっていこうか?と考えていた私は、
Twitterを見ながらヒントを探していて、
彼のツイートを読んで、
すっかり
「こりゃ汗の目立たない服を用意しよう」
と思い込んでしまったという訳かもしれない。



自分には見えていない部分もあること、
聴こえていない音もあることを、
十分に意識した方がいい。
そして、その上で、
自分の判断のもととなっているものさえ、
自分の側からだけみた事実かもしれないと
意識しておくほうがいいんだな。




声高に相手を責める前に、
自分が、今から声に出す、あるいは文字に表現しようと
していることに思い込みはないか、
一旦自分に質問してみるくらいが
ちょうどいいんだろうな。


なんか、そんなことをなんとなく考えている、
台風接近中の夜。


















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♪一万回ダメで、へとへとになっても♪

【2011.07.18 Monday 14:51

最近、「Nike+ GPS」というアプリを起動して走ってる。
facebookと連動させていて、
スタートと同時に、

「Nike+ GPSをつけて走り始めました
 声援を送ってください!
 コメントや「いいね」で私のランニングに声援をください!」

と表示され、「いいね」クリックしてくれる人もいる。

これが結構な励みになっている。
それプラス、
このアプリを使って
音楽を聴きながら走ることができる楽しみもみつけた。
(やっと、そういうことに、
 追いついた私!)

私の走る時の今のパワーソングは
DREAMS COME TRUEの
THE SOUL FOR THE PEOPLE ~東日本大震災支援ベストアルバム~。
これがね、すごくいいんだ。

これはチャリティ、ベストアルバム。
ここから得られるアーティスト収益は、
義援金として日本赤十字社に全額寄付され、
東日本大震災の被災者支援や被災地の
復興支援などに充てられるということ。

収録曲は、すべてすごく意味があるんだ。
傷ついたり、何もかもなくしたり、
悲しい経験をしたり、
ひとりぼっちを感じたり、
そういうところの気持ちに十分に寄り添いながら、
でも、明日はくる!みたいなテーマの曲ばかり。

私が特に好きなのは、2曲
「何度でも」
は、
♪一万回だめで、ヘトヘトになっても♪
でも、挑戦し続ければ10001回目はくる
って曲。

今日のなでしこの澤さんを見ていると、
「継続は力」ってこと、心底分かるし、
やめなければ10001回目はくるって、
あの延長後半のヘディングシュートで
証明してたように思う。

15歳からサッカー女子日本代表の彼女。
Jリーグなどで脚光を浴びた男子と違い、
サッカーだけに専念できない環境の中で
がんばってきたらしい。

やめるための理由は、
多分、これまで数えきれないほどあったと思う。

アメリカのプロチームで鍛えられたあと、
日本のメンバーに、きちんと改善点を告げる役目を
担っていたらしいが、
それもキツかったと思う。

なかなか結果は出ず、
メダルを狙いにいった北京では4位。

途中で夢からおりようと思ったら、
きっと理由なんか、
ごろごろしてたと思う。

それでも、挑戦し続けて、今朝のあの、
10001回目。

やめないってこと、
叶うまで続けるってこと、
それを100回でも
1000回でもなく、
吉田美和さんは10000回にたとえ、
しかも10001回目はくると言う。

まさに、万が一!

すばらしいなあ。

私は、これ聴きながら走ってると、
一緒に歌ってしまっている感じ。



もう1曲、
「ねえ」というタイトルの曲は、
サビの部分の、
♪ねえ、どのポケットも思い出でいっぱいの、
 その服に、あえて、手を通そうよ♪
が、頭から離れなくなる曲。

これは、大切な人を失って、
その喪失感を味わったことのある人だからこそ、
書ける詞だと思う。

吉田美和さんが、パートナーを病気で失った後、
どれほど苦しんだかと想像する。

3/11後、NHKの「SONGS」に出演した時、
彼女の言葉を聴いて、
涙が止まらなくて困った。
その時Twitterに以下のように書き込んだ。

「この私が音楽が役に立たない絶望を
 経験したことがあるから、
 音楽に力があるなんて断言できない。
 でもここで、強い気持ちをもって
 歌っていくしかない。
 人は人が思うほど弱くない。
 私は、ここに強い気持ちでいるから。
 ここで、歌っているんで。
 よかったね、って言える日まで
 やっていこう。一緒に。と美和さん」

これを一番表しているのは、
この「ねえ」って曲だと私は思うんだ。

吉田美和さんのように、
本当に音楽と共にある!みたいな人でも、
音楽さえ役に立たないほどの喪失。

それでも、
美和さんは、
♪どのポケットも、思い出でいっぱいの、
その服を、今日は脱いでみようよ♪
と歌う。

思い出の支配されない、
つまりものすごい辛さはあるけど、
感情に巻き込まれず、
着たり脱いだり自分でコントロールできる日も
くるんだって、語りかけてくれている。

それは、そのことがある程度過去になって、
過去の出来事は変わらないけど、
自分の人生にとってその過去が、
意味のあることだったんだって、
そう思える日がくるってことと、
同じ意味だと思う。

そういう歌。


このチャリティ ベストアルバムの
どの曲も、
励ましだけじゃないのが、いい。

苦しい体験や、
辛い思いを、
受け止め、
共感し、
そう感じることを、
決して責めずにいてくれる時間がある。
そしてその上で、
背中も押してくれている。

地震や津波、原発事故にあわれて今なお困難と
共にある方々はもちろんだけど、
そうではない人の中で、
今、すごく辛く苦しい人々の心にも、
きっと染みていく曲ばかりだと思う。



今日は雨で、走るの、お休み。

でも、最近はこんなふうに走っている。

もしかすると途中休むことは
あるかもしれないけど、
ぼちぼち続けていこうと思うよ。
継続は力。

やめる理由、
その時は理由はだけど、
よく考えてみると、
後からは言い訳になってしまうことは、
きっといろいろ湧いてくると思うけど、
でも、
走るってきめた。

私はこうやって、
意志は決して強くないけど、
時々、ちゃんと決める。

続けるってことさえ決めておくと、
やる気がなくても、
意志の力がなくても、
続くんだ。










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今頃ですが、がんばってるね、新社会人。

【2011.07.17 Sunday 09:40
4月から今までの間に、
今年は新社会人の方々に、
いつもの年より、いろいろな形で出会うことができた。

毎年のように学校の活動では、
新採用の先生と話をしたが、
今年は民間などの新入社員さんへの
研修もあったり、
それも、入社式直後の研修や、
1ヶ月たったあとや、
4ヶ月目や・・・と
いろいろな場面で出会うことができた。

ここのところの新社会人方々は、
社会では「ゆとり世代」とレッテルを張られていることも、
多いらしい。

(ま、こういうのは「新人類」とか、
 今までもあった)

その中で、彼らなりに、必死に組織に
適応しようとがんばっている。

いろいろなテーマの研修の間に、
全員ではないが、
彼らがよく言う言葉が、
気になることは、確かにあった。

そのひとつは、
たとえば、
「指導法への注文」だ。

「その場その場で指導もらうよりも、
 一度全体像をマニュアルなどで見せていただいて、
 その中の、今はここを伝えている
 という形で教えていただいた方が、
 効率がよい」
これがすごくアバウトだけど、
多くの新社会人の方が言っていたことだった。

これ、すごくわかる。

きっと先輩たちも、
今が非効率と分かっていながら、
日常の業務の中で、とてもマニュアル化する時間がなく、
とにかく、目の前のことを覚えてもらうことを、
選ばずを得ないってこと、あるんだと思う。

それと、自分たちもそれでやってきたんだから、
あなた達も、これで覚えていきなさいって考えも、
あるんだろうと思う。



また、新社会人の方の多くの課題に、
わからないことを、
忙しそうな先輩に、
いつ、どのように、なんと言って質問したらいいか
わからないというものがある。

無理もないと思う。

今まで長い間、
向こうから、教えてくれてきていたのだ。
それこそ、幼稚園から大学まで、
手取り足取り教えてもらってきていた。

授業の最後には、「質問は?」
などと呼びかけてもらい、
手をあげればよかった。
手をあげなくてもいいこともあった。
大学の授業の中では、
最後に質問は?ときいても手があがらないが、
メールで受け付けると結構な意見が寄せられるので、
メールを取り入れるという授業まであるときく。
それは一概に悪いと言えないし、
それで解決していくことは、悪くない。

ただ、そこから、この「社会」の差は、
すごい。

みんな、バイトの中ではそういうこと、
経験してきたと思うけど、
ある程度期限のみえたバイトの場と、
ここが「仕事場」だと覚悟し、
評価も気になる場とは違う。

そんな中で、
わからないことを、
「分からないので教えてください」
と言ったり、
一度教わりながらも忘れてしまったことを、
「恥ずかしいんですが、忘れてしまいました。
 もう一度教えてください」
と言うのは、
相当キツいと思う。

しかも自分たちに教えることで、
先輩は自分の仕事の手がとまる。

中には、面倒くさそうに教える人も
いるだろうし、
忙しいオーラをふりまいて、
「くるな。くるな」という感じを
全面に出している人もいるだろう。

「まだ、わかんないの!」
「いい加減に覚えてよ」
「ちっ!」
みたいな言葉も浴びながら、

そこをあえていく。

あ〜がんばってるな、新社会人。

私が出会った方々は、
ほんと、よくやっていた。

自分と比べるのは、あまりに申し訳ないけど、
私のその頃は、もっといい加減だった。
コスト意識なんか、まったくなかったよ。

よくがんばっている。

考えてみれば、
私の子どもくらいの年なんだな、みんな。
新社会人が、やっとやっと、
仕事をし出した今頃、
あれほど、
「自分は何でもできます」的に
面接を乗り越えてきたのにもかかわらず、
きっと何にもできないことを目の当たりにして、
凹んでいる人もいると思う。

なんとか、ガス抜きしながら、
ダメな自分とつきあい続けていってくれると
いいな!と思う。




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