2011年05月の記事 | 今のところではありますが…
成功体験に捕われる。

【2011.05.30 Monday 10:48
またまた自分の、おちいりがちなパターンを
みつけたぞ。
それは成功体験に捕われること。

一度成功した方法を絶対視して、
どんな課題がきても、
その方法で解決しようとしてまうのです。

いやあ、私、恥ずかしながら
先生方への研修などでは、
やらない方がいいことの事例のひとつで、
今まで散々しゃべってきたりしたことなのに、
はい、
自分でやってました。

それは先週の出来事だったのですが
これがまた、見事に失敗して、
すごく簡単なことで足元すくわれるように
失敗してしまったのです。

私は、その失敗の痛さと、
私の中での衝撃に、
さっきまで(約半日くらい)、
自分を責めて責めて、
ぐるぐるぐるぐる、
だから私ッて駄目!
と心の中で叫んでましたが、
突然、あれ?
「そうかあ、成功体験にこだわっていたんだ」と
原因に気がついた次第です。

失敗する前には、
まったく、これっぽちも、
それが成功体験に縛られていることなどとは、
気がつきませんでした。
どちらかというと、
何にでも効く魔法の杖を手にしたみたいに、
自信満々に思っていたんです。

あ〜恐ろしいことです。

私の失敗には他者が絡んでおります、
さっきまでは、
思い出したくもなかったその方が、
今は、
私が、
もっと大きな、取り返しのつかないミスをする前に、
未然に防いでくれた恩人に思えてきて、
もっとその方の詳細まで思い出したくなって
きています。



私は、
成功体験に捕われるパターンを持っています。

成功は嬉しいから、した時は思い切り喜んで、
でも、喜んだあとは、
この、私のパターンを思い出しましょう。

そしたら、いくら私だって、
ちょっとは気をつけると思います。





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建設的に批判し合うことは可能。

【2011.05.28 Saturday 21:37
アサーティブジャパンの講座の後はは、
スタッフ間で必ずミーティングの時間をもつ。
お互いフィードバックしあうのだ。
自分の担った役割に対し、
まず自分自身で振り返り、
良かった点、改善点をあげ、
仲間たちから、良かった点、改善点を
教えてもらうのだ。

自分では気がつかないボディランゲージを教えてもらったり、
わかりにくい◯◯という言葉を、
□□という言葉にしたらどうかな?
などと提案してもらったり。

アサーティブジャパンのトレーナーとしてのキャリアにかかわらず、
伝え合う。

みんなアサーティブなコミュニケーションを知っているので、
レッテル貼りや決めつけや
人格を攻撃することなどしない。
「だからあなたは駄目なのよ」とか
「なんかつまんなかったよね」のような、
よく分からないあいまいなものもない。

私はこのミーティングの時間に
育ててもらってきたと
つくづくと思う。

建設的な批判をしあうミーティングは可能だ。

ミーティングの度に、
次にやるべきことが見えてくることにプラスして、
こういうことが可能なんだから、
一層アサーティブなコミュニケーションを伝えていくことに、
意欲が沸くんだ。

ま、ミーティングでは建設的な指摘を
しあっても、
時々、自分で自分を必要以上に責めて、
凹みまくった時も、
泣けて泣けて仕方なかった時もある。

それでも続けてきて
本当によかった。

アサーティブをもっともっと理解しやしく伝えられるように、
改善点をいかして
努力していこうと思う。
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ペーパーテストには答があるけど。

【2011.05.24 Tuesday 18:31
茂木健一郎 (@kenichiromogi)さんの
連続ツイート「無答」の中の以下、
 
無答(4)飜って日本のことを考えると、
ペーパーテストの点数で大学入試が決まるという
旧態依然たる制度のために、
世の中のすべてには「答え」があると思う傾向が強い。
だから、事故の検証でも、
誰が何をした、何が正しかった、
などと点数装置が稼働する。
無答精神に欠けること甚だしい。

を読み、
いろんなことを考える。

<1点目>
昔、中2の女子の恋話をきいていて、
どうしたらいいと思う?と訊かれ、
その答えは自分で探していくしかないんだよ
と話したら、
そんなの答えが出るまで時間かかるに決まってるから、
もやもやしちゃうよ
と言われ、
そうなんだよ、その中途半端にもやもやする時間は、
しんどいけど、あなたにはすでにその
時間を過ごす力がついてるよ
なんて話したことがある。
しばらくして、その子から手紙がきて、
すぐに告白するとか、
今どちらの男子を選ぶとか、
もう別れちゃうとかじゃないことを、
やっている自分が、
大人になってきたような気がすると書いてあり、
私は、
もしかすると、もやもやと共に
毎日の生活ができるようになることは、
大人になることの条件のひとつかもね
なんて返事を書いた記憶がある。

考えてみると、
あの頃、あの子は、大人になることに
憧れてくれていたんだなあ。


<2点目>
学校に通っていたときのテストのように、
答がひとつしかないなんてことの方が少ないのが、
実社会の中でのいろいろな問題だ。

正しいか間違っているか
は、
すっきりするから気持ちよくてどんどん増幅し、
良いか悪いか、
やるかやらないか・・・
いろいろな二元論をうみ、
ついに私たちは、
郵政民営化か、そうでないかという、
そんな単純な選挙に乗ってしまい、
(いいえ、私は乗りませんでした!←断言)
それの延長戦上で、
今の政府ができあがったように思う。
(これには、意識的にだが、乗った)

そして原発事故を目の当たりにして、
これまでの自分の原発に対する姿勢、
反対か賛成の間を何も考えずにきた
自分を、初めて(ええ、ええ、私は
初めて自分の中で、認めましたとも)
認めた。

ぺーパーテストには答があったけど、
現実の問題に答がない方が多く、
また、選択肢さえ示されていないと、

いいですか?悪いですか?
という二元論でしか、
考えられなかった自分。


<3点目>
こんなことはあってはならないことだけど、
原発事故は起きてしまって、
怒りや心配やあせりや罪悪感や無力感や、
とにかくいろいろな感情がうずまきながら、
二元論に陥ることだけはやめようと
決心をした。

正解か、間違っているかからスタートするのは
やめようと考えた。

子ども対象のコミュニケーションのプログラムを
やっていいかどうかという課題は、
ずっと私の中にあった。

子どもにコミュニケーションを教えるより、
子どものコミュニケーション能力を育むには、
そこに本当に彼らの声を聴ける大人がいるかどうかだ
と思っていた私は、
今思うと、二元論のはじっこにいた。

本当は大人が学ぶべきもの。
ちゃんちゃん、それで終わり。
と一旦やるやらないの世界に入り、

でも必要と依頼があるのだから
ここまではやる。
ただし、これで彼らのコミュニケーション力が
つくって訳じゃないよ、
大人が大人の役目を果たしていれば、
本来ならついていた力なんだからさ・・・的な、
そうそう、逃げ腰ってヤツだったと思う。

それから、なんだか、やっと抜け出せた。

今は、
大人に対しても、もちろん訴え続けていこう。
でも、そこで考えをストップさせるのではなく、
子ども対象にもできることを考えていこう。
私たちが持っている理論や方法論や、
その伝え方の、どこが生かせるか、
範囲の中で考えてみよう!

やっと、やっとそこに来た感じ。
あ〜長い変遷があったあ。


<4点目>
自分の気持ちや考え、意見より、
「ここでの正解」を探したくなる
私たちのこと。

ここではどういうふるまいをしたほうがいいのか、
このタイミングでは、どの意見がみんなを安心
させるか、
などなど、
多分多くの人が、「ここでの正解」を探して、
それを発言して、
特に浮く事もなく、できたら場に貢献して、
さらに、みんなにかわいがってもらえたらラッキー的な
気持ちが働いてしまったりする。

あああ。


<5点目>
ペーパーテストには答があった。
答があること前提で思考してきたから、
モデルケースがなくなって、
しんどくなってしまった。

がんばって勉強していい大学入って、
いい会社に務めれば安心だと思ってたのに、
それじゃあ幸せにならない現実。

ついにはあのJALが!
東電だって、このありさま。

絶対解などない、現在。
これを手に入れれば、
絶対に幸せになるなんてこともまやかしって、
もうみんな分かってる。

どんな車乗ったって、
バーキンを持ったからって、
その日から尊敬される人にはなれないって、
知ってしまった。(もちろん持ってないけど)

答って、なかったんだ。

自分で考えて、決定をして、行動して、
そしてその結果は自分で負っていくしかないんだ。

そう気がついた時は、
「答」を探す生活があまりに長くて、
何をどう考えたらいいかわからない。

あああ!


<6点目>
だからこそ、
認めることから
始めるしかない。

時々答がほしくなってしまう自分を。

時々はっきりさせたくて、いいの?悪いの?議論に
陥ってしまうかもしれない自分を。

気がつかないうちに、答を探しているかも
しれない自分を、自分で認めておく。

それを認めるから、
そうじゃないことを意識できる。

そして、
そうじゃない方を選んでいくために、
「他」と出会おう。

「他」は本や映画。
「他」はアートや様々な芸。
「他」は地域の活動。
「他」はいつもとは違う場所。
「他」は旅。
「他」はSNSの中。
「他」は他者。

そして、「他」と対話しよう。

それがきっと二歩目だあ。




そんなことをごちゃごちゃ考えたのでした。














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「希望をはこぶ人」

【2011.05.23 Monday 14:08
アンディ・アンドルーズ
ダイヤモンド社
¥ 1,365
(2011-04-15)

「みなさんとここで再会することはないと思いますが、
 人生を切り開いていくのに十分な種を一人ひとりの
 心の中に蒔くことができるたと確信しています。
 それは物の見方という『種』です。いつかまた
 試練を迎えるとき、物の見方というその種が、
 ダイアモンドや黄金よりも価値があることに
 気づくことでしょう」

という手紙を残して姿を消したジョーンズ。
彼は誰か悩んでいたり、迷うことがあったり、
不安や悲しみや怒りが湧いてきたときに、
どこからともなくすーっと表れ、
狭かった視野を広げてくれる。
別の物の見方を示していってくれるのだ。


たとえば両親を失って自暴自棄になっている若者
のもとを訪れて、
「必要だと思っているものに意識を向けると、
 ますます必要性が増える。
 つまり、自分が持っていないものに意識を
 集中すると、自分が持っていなかったほかの
 ものにまで意識をむけることになり、さらに
 気分が悪くなるということさ。失ったものに
 意識を向けると、ますます多くを失うことに
 なる。逆に、感謝に満ちた物の見方は、人生を
 幸せと豊かをもたらすんだ」
と告げる。

結婚生活に行き詰まっている夫婦には、
人にはそれぞれ、
大切にしてもらった、愛されたと感じる方法がある。
人は、自分がしてほしい方法を相手にするけれど、
それが相手がほしいものなのかどうかは、わからない。
でも、相手がしてくれる方法が、その人がしてほしい方法
なんだから、それをしてあげればいい。
そして、それは親子、友人、職場の同僚、
どんなシーンでのコミュニケーションにも役に立つ。
と教えるのだ。

何でも悪い方に考えてしまう人には
「君が知るべきことが二つあると話す」
一つ目は、
「そんなに深く思い悩んでしまうのは、
 君がそれだけ聡明だということさ」
「聡明な人ほど、想像力が豊かで、創造性に
 優れているんだよ」
「そして不安とか恐怖というのは、想像力が
 間違った方向に使ってしまってる証拠。
 頭が良くて創造性があると、起こりうる
 すべてを創造してしまう。こうなれば
 ああなるんじゃないか、ああなれば
 こうなるんじゃないかってね。その結果、
 不安と恐怖にとらわれて身動きがとれなく
 なってしまうんだよ」
二つ目は、
「不安を打ち消す方法は、理詰めで考えて
 いくことだよ」
と。

学生たちには
「(知恵の定義とは)今この瞬間にした選択が、
 将来どんな結果をもたらすかを見通す能力のこと」
と教え、

生きることに意味を見いだせなくなった年を重ねた女性には、
「(今)地球上にいるということは、
 生まれてきた目的をまだ果たし終えてないこと。
 生まれてきた目的をまだ果たし終えてないということは、
 人生の目的がまだ残っているということ。
 人生の目的がまだ残っているということは、
 人生で最も重要な時期がこれから訪れるということ」
と励まし、

ずる賢く立ち回って生きてきた人には
「小さなことにこだわれ」
と諭す。


ショーンズみたいな人が、私たちの周りにいて、
目の前の問題を解決するヒントをくれればいいけれど、
そんな訳にはいかない。
だったらどうするか?

それは、
「他」とであうことではないだろうか?

「他」と出会うことで、
自分の物の見方をふやすことができるんだと思う。

その「他」は
もちろん本でもいい。
今だって本を開いたからこそジョーンズさんに
いろいろ考えされられた。

また、「他者」と出会うってことも、
きっと私たちに、一人で考えこんでいるだけでは
得られない物の見方を連れてきてくれると思う。

土日と、私はアサーティブジャパンの総会と研修で、
全国で活動するトレーナーの仲間たちと会った。
つまり「他者」といっぱい会えたんだ。
震災後、自分の中や周りで起こっていることを話し、
聴き、今自分にできることや、していきたいことを
聴き合った。
ひとそれぞれの、今のところの考えを聴いて、
自分の甘さや、
自分なりにやれていることを確認できたりした。

また、アサーティブ・ジャパンの仲間とともに、
「かたり場」という授業を高校生に提供している
NPOカタリバの方から、
活動の内容についての話をきいた。

彼らは
すべての子どもが、
大人になることにあこがれる世の中を
作っていきたい!
という目的にむかっている。
まず、このミッションがかっこいい。
そして、
高校生に、
すごく才能がある人や成功した人の講演を聴かせるよりも、
自分たちよりちょっと先のロールモデルと出会う機会を作った。

大学生のボランティアの方たちが、
高校に出向き、
自分自身のこれまでの葛藤などを話すことで、
高校生の心をオープンにし、
高校生が自らが語り始める・・・
そういう授業をしているのだ。

高校生は、大学生という「他」と出会う。
大学生はまた、「他」と出会い、
自分が影響を与える人間であることを、
高校生から教えてもらう。

みんなが、誰かのジョーンズさんになる仕組みを、
「カタリバ」は作っているんだ。

私は「カタリバ」という「他」に出会い、
講演してくれた三箇山さんが教えてくれた
「処方箋より予防せん」という言葉に、
新しい見方をもらった。
遠慮がちにしていた、子どもへのプログラムについて、
今できること、示していいんだ!っていう。

そうだ!そうだ!
子ども達がコミュニケーションに課題をもっていて、
それをより良くしていく場の提供を、
「カタリバ」は『カタリバ』でやり、
私たちは、
もう少し理論的にコミュニケーションを考えて
もらう機会をもってもらうことや、
自己信頼をもっていいってことを伝えることで、
やっていけばいいんだ!
うん。やるぞ!という感じ。



昨日は研修で
「ワールドカフェ」を体験した。

これも仕組みとして「他」と出会う場を作り、
その中で語り会うことを通して、対話で
問題を解決していこうというもの。

この手法自体が私にとって「他」だったが、
このファシリテーター大川恒さんの姿を見て、
その全力投球っぷりに、
すごく大きな影響をもらった。
だって、講義をしながら、
全員が立てたワールドカフェのプランを、
個人面談でフィードバックしてくれたのだ。
多分25人分。
自分の100%で向かっていっていいんだ!
っていうか、
手を抜かずに、
そのときできることを提供していっていいんだ!ってこと、
すごく刺激になった。


つまりね、
どこにでもジョーンズはいる。
でも、本の中のジョーンズのように、
向こうからわざわざ話しかけてはくれないから、
私たちは、いろいろな「他」の中から、
物の見方をみつけていくことなんだと思う。

今までの見方を続けた方が楽だし、
そうすれば考えなくてもいいから、
「他」と出会っても、
そこからメッセージを読み取ろうとしないこともある。
あるけど、それは、
すごくもったいないことなんだよなあ。


見つけようと思えば、
どんな体験の中からでも、
きっとジョーンズの声が
きこえるんだと思う。

私はみつけていきたいな。
ちょっとくらいのしんどさなら、
しんどさと共に暮らしていくしかないもんね。



って訳で、
実りの多い週末でした。











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減点法

【2011.05.20 Friday 08:15
学校の活動の中で、
教育委員会から求められている仕事のひとつに、
先生達へのコンサルテーション
というものがある。

コンサルテーションの場への主な参加者は、
一人の子どもの問題に対し、
担任などその子にかかわる先生が、
教育の専門家として参加、
私たちのような者が心理職の立場からの参加、
校長や教頭などが管理職の立場からの参加、
保護者の方は、その子のこれまでの育ちを
よく知っている者として参加、
カラダの専門家として保健室の先生、
あるいは医療にかかっていたら、医者・・・
と様々な専門家が参加する。
(参加者の組み合わせは必要に応じて変化)

またケース会議と呼ばれる、
一人の子どもに対し、
かかわる大人全員が、
共通の目的をもって、
やるべきことを明確にし、
役割分担をしたりする会議でも、
コンサルとしての発言を求められたりする。

私は、そういう場で専門家としての発言を
求められるとき、

以前の自分がやってきたことを振り返り、
それはとても残念だったなと思う。

というのは、
減点法の視点が
むくむくと湧いていたのだ。

その関わり方がだめ。
この目標設定では、ここが無理。

多分
その頃の私の底の方に、
役に立つ人間だと思われたいって気持ちがあって、
「役に立つ人=エラい人=問題を指摘できる人」
みたいな図式があったんだと思う。
やっかいな思い込みであ〜る。

でも、指摘するだけでは問題は解決しないと、
もういろいろなことで分かってきたし、
疲れて気持ちがなえるケース会議は、
会議後からの何の力にもならないことを
さんざん知ってしまっていた。

そして、
アサーティブネスの理論を知ることで、
そういう減点法が頭に浮かんだとしても、
それを単純にはやらなくなり、
そういう現場が私のトレーニングの場になった。

しかし、この減点法。
いろいろなところで、
刷り込まれて生きていると、
私は思う。

たとえば、小学校の中学年くらいまでは、
宿題で出たドリルの答え合わせは親がやることに
なっていたりすると思うが、
多分、担任の先生は、
その方が親子の会話が増えるだろうとか、
できていることを見つけて親が子どもを
いっぱい褒めてあげてほしいという考えや、
個人的につまずきを解決していった方が
授業の理解もいいだろうということで、
この方法を進めていると思う。

ところが、間違いを指摘し、
正しく改めさせるためだけにやっている親御さんも多いと聴く。

そして、
それは、だからって、
その親御さんが悪いんじゃない。

なぜ○付けを家庭にお願いするのかの目的を
明確に伝えない学校の課題であったり、
間違いを直すことこそ良い成長に繋がると
信じる親側の思い込みを育てた環境などが
あったんだと思う。

ただ、少なくとも、
ドリルの答え合わせで、
合っているところを褒められることなく、
間違ったことを叱られる体験ばかりを積んでいった子は、
減点法が、人が成長していく時の方法と思うだろう。
そして、
自分の子どもに対しても、
そうする可能性は高いと思う。
(もちろん、全員そうとはいえない)

そんなふうに、
減点法ってのは根付いていき、
確かに今の社会の中にもあると思う。

妹がアメリカに住み始めた頃、
「お姉ちゃん、アメリカは、
 議会の最初に、前年度中で、
 アメリカのためになる法案を提出した議員や、
 国民のために良いことをした議員に対し、
 まず讃えるところから始まるんだよ。
 彼らが議会に入場する時、全員が立ち、
 拍手で迎えるんだよ」
と教えてくれてびっくりした。

加点法もあるアメリカの仕組み、
全部がいい訳ではちっともないけど、
やっぱり、そういうことを体感できるのは、
大切だと思う。



減点法も複雑なものがあり、
どこがマイナスかを伝えるために、
その前に良い点を褒めたりすることもある。
(加点を何も行わないよりましだけど・・・)

また、善意の減点法もある。

がんばらなければ廻っていかない必死な時に、
「あんまりがんばりすぎないで!」は減点法。

「そんなこと気にしなくていいんじゃない」は、
「気にする私が悪いの?」と減点された感じだ。



会議は、どんな会議でも、
会議を経てやる気を失ったら、
それは成功とはいえない。
自分のやるべきことははっきりしたが、
ちょっと立ち直れないくらい凹んだ・・・
では、まったく意味がない。

人生とは、
どこが悪いのかを探して歩く時間をいうのでない。


刷り込まれてきた思い込みをはがすのは大変だ。
私はアサーティブネスの考えを知ることで、
ある程度はがし、別の視点を取り入れることを
訓練できた。
それでもこれからも、
とっさの時や、イライラしている時には、
「減点した方がエラい」的な考えがわくことが
まったくないとは言えないだろう。
でも、そういう考えが湧きながらも、
本当にそれでいいの?と自分に問いかけ続けて
やっていきたいな。

そして、
「あなたが悪い」という言い方ではなく、
相手の問題解決が進むような指摘の仕方へのチャレンジを、
これからも続けていきたいものだ。









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駄目な子だったです。

【2011.05.18 Wednesday 18:06
ここのところ、Facebookにはまっていることを
何回か書きました。

大学時代の仲間がグループになっていて、
誰かが話題をふり、みんなでおしゃべりして・・・
ってことやってます。

私の大学時代って、
特に3年4年は本当に駄目な子でした。
とにかく何をするのも、
面倒だったし、やる気なかったです。
そのことを、
「あ〜あ、あの頃の私って、
 学生としても、
 人間としても、
 今思うと、ほんと、よくなかった」
と思い出しながら、
そうはいっても、
本当によくなかったけど、
それでもなんとか生きて、
そして今活動できているってことで、
このことがありがたいし、
今、自分のことを駄目!って思ってる人が
もしいたとしても、
それはどうにかなることもあるよ!っていう、
事例くらいにはなれるかもなあ、
くらいに思ったりしています。


一年目は充実してました。
私の行った日大芸術学部放送学科ってのは、
新入生を歓迎をしてくれる、なんというか、
代々の習わしみたいなものがあって、
一年生は6班にわけられ、
各班に先輩たちが何人かついてくれて、
親睦を深める手伝いや、
その後の学生生活のサポートをしてくれました。
たとえば、一泊のバス旅行を企画してくれたり、
ゴールデンウイークにみんなで集まる場を作ってくれたり、
なんか、わいわいがやがやした毎日が楽しくって、
その流れで、運動会、学園祭など、
あっという間の一年だったと記憶しています。

2年になると、今度は新入生を迎える立場。
私は新歓のスタッフメンバーになり、
去年してもらって嬉しかったことを一生懸命にしました。

偽装一年生ってのがあるんだけど、
それは各班2〜3名ずつ、偽装の一年生を
いれておいて新入生をびっくりさせます。
ええ?そんな人いるの?
いやあ、日芸だからいるかもしれない・・・
くらいな感じの偽装。
そういうことを考えるのはとても楽しくて、
二年も勉強はほとんとせず、
授業も超適当で、それは学生としては駄目だったけど、
人としては、仲間を大切にし、
そこそこ悪くない日々だったのです。

ところが3年です。
これはもう、本当に人としても駄目。
何度も書きますが、
とにかくすべてが面倒でした。

昼くらいに起きて、
漫画がおいてある喫茶店に行って、
ランチを食べて、漫画を暗くなるまで読んで、
帰宅して、カップラーメン食べて寝て・・・
みたいな日々。

しょっちゅうバイトをさぼりました。
それもドタキャンっていうか、
急に休む馬鹿者でした。
私はアパートの近所の喫茶店でバイトをしてましたが、
そこにいくのがおっくうで、
体調悪いとか何とか言ってはさぼってた。
オーナー夫妻はとてもいい人たちだったけど、
多分私の扱いは困ったと思います。
嘘をいっぱいつきました。

着替えるのも、面倒って時もあったくらいだもの。
相当ひどかったと思います。

4年になる時に、
妹が高校を卒業し、東京の専門学校に入学したので、
二人で住めるアパートに引っ越しすることになりました。
その時、なんと、私、
その引っ越し当日、
オーストラリアに行ってしまうのです。
あ〜おばあちゃん、妹よ〜
なんて、ヤツなんだ、私。
自分の荷物をまとめるくらいは、
いくら私でも軽くやっといてはあったと思う。
でも、最後のそうじとかはまったく。
しかも、新しいアパートは、
おばあちゃんと妹がいろいろやってくれて、
オーストラリアからお気楽に帰国すると、
もう、住める・・・みたいな。


4年になっても、ひどさ変わらず。
あまり学校にはいかず、
それも、両親の反対をお願いたおして入ったのに、
しかも、私学だし、
結構なお金をかけてもらっているのにもかかわらず、
さぼりまくってました。

しかし、卒業するには論文を書かねばなりません。
これがまたひどかった。

私は「インタビュー論」をテーマにとりあげました。
当時私が憧れていたインタビュアーは二人いて、
一人は高平哲郎さん、
もう一人は黒柳徹子さん。

高平さんのインタビュー集
「みんな不良少年だった」に感動、
なぜ彼のインタビューに、
今活躍している人々は、
過去を赤裸々に話せるのだろうととっても不思議で、
で,アポをとり、
めっちゃ忙しい彼が、なんと、会ってくれ、
話を聴きました。

彼は、
インタビュアーは自分のことは話さないものだが、
自分はまず自分がさらけ出すってことを教えてくれました。
これは、今の私にも繋がっている、
めちゃ大事な話。
なのに、なのに、私ったら、
ろくなお礼をしないばかりか、
お礼状も書かない、
卒論ができても、それを送りもしない・・・。
(送れる代物ではなかった。とほほ)

私は今スクールカウンセラーとして、
また子どもたちに心のことについての授業をする者として、
卒論のためのインタビューを受けることがありますが、
その誰もが、必ず、必ず、仕上がったときに
送ってくれます。
あああ。あの頃の私よ。もういやになる。

黒柳さんは、さすがにアポはとれず、
そのかわり、「徹子の部屋」2本分を丸々書き起こしました。

確か卒論は400字詰め原稿用紙80枚以上。
そのうち40枚くらいが、
恥ずかしいことに、この書き起こしの分。
考察はちょろっとです。

卒論の先生はアナウンサーの新堀俊明先生。

卒論を出しにTBSの部屋にいき、
それもなぜ学校ではないかというと、
一回目の約束した日に間に合わなくて、
家族が危篤の嘘をつき(ばればれテッパンネタ)、
無理矢理伸ばしてもらったので、
そういうことになったのでした。

普通、卒論は、ちゃんと装丁してもっていきます。
しかし、私はちょっと厚紙くらいのものを表紙にして
ヒモで綴じる穴も揃えずに開けたので、
ばらんばらん。
文字は書きなぐり状態。

先生はあきれ顔で、
しかし、読んでくれて、
「これは点数をつけられたものじゃないけど、
 一カ所いいところがある。
 だから、61点。
 (多分60点とらないと、OKにならない感じ)」
のようなことをおっしゃたのです。

その一カ所は、
なぜ彼らが相手の心を開くのが上手かという部分。

高平さんは「まず自分をさらけ出す」。
黒柳さんは「自分の気持ちを正直に伝える」。
そこに注目した部分でした。

(ちなみに黒柳さんのは・・・、
 盲導犬を育てる会の方がゲストのときの回を
 取り上げた。
 その方が「パピーウォーカーから犬を引きとって」
 という話をされた時に、
 黒柳さんがすかざす、
 「今までかわいがってくだっさったから、
 パピーウォーカーのご家族は、さぞ、
 さみしいでしょうね、せつないですね」
 などと言う。
 その言葉がきっかけになって、
 「だからこそ、この犬は立派な盲導犬に
 育てなければ!と思える」のような
 志に通じるところを話した・・・みたいな)

あ〜、違う。なんか↑はよく書きすぎている。
そんなもんじゃない。

でもま、その一部分はよかったとしても、
とにかく、
ソレ以外は駄目駄目で、
何しろ、ごまかしと嘘と面倒くさいの、
だらしないあの日々。

本当はもっともっとネタがあるし、
本当のことを言うと、
ソレ以降、
卒業後の25歳の途中までは、
こんな感じの人間でした。




なんだけど、

そう、

今、

自分のことを最低!って思っている人がいたら、
その方へ言いたい。

あるいは、
保護者の方で
お子さんが
面倒だとばかり言ってるとか、
ごまかしてばかりだとか、
やる気がないとか、
ま、とにかく、何か問題を感じて悩んでいる方にも
言いたい。

ずっとそのままってことばかりじゃないです、人間。

ほんと、なんとかなることもあるんです。

ただ、休憩が必要なこともあります。
その時間が、私のように、
5〜6年続く場合もあります。

しかも、私のように思春期でこなくて、
少し超えた、20歳からくる場合もあるし、
もしかしたら、もっともっと大人になってから
くる場合もあるでしょう。

その人によって、必要な時期に、
それはやってくると思います。

またやってきたその休憩の時間の
長さも気になります。
長いと、不安になるでしょう。
心配かもしれません。


でもね、でも、
立ち上がる日がくることもあるのです。

もちろん、絶対立ち上がる日がくるとは言えない。
そう断言できたらいいけど、それは私には言えない。
でも、絶対ないとも、言えないです。
それは間違いなく言えない。

だとしたら、
立ちあがる日を信じた方が身のためだと
思います。


Facebookでおしゃべりしてると、
私の見たくない「点」が、浮き上がってきます。

しかし、その「点」も、
今となってみると、重要な「点」でした。

だってね、
私、
「面倒だ」って言う人の気持ち、ちょっとは分かる。
「よく分かる」なんてずうずうしいこと言えないけど、、
似た思いは体感している。
ごまかそうとするのは、
自分を守りたいからだって、
うそをつくのも、いいとは思ってないことだって、
なんとなくは分かる。
そして、その後、自分を責める気持ちも、
みんなと同じようにやれない自分を情けなく思う気持ちも、
私にとっては、記憶している懐かしい気持ち。

また、自分が本当にやりたいと思って、
あるいは思い込んで、それをやり始めたとしても、
長続きしないこともあるって知っていて、
そういうことがあったとしても、
それ以降、
すべてが長続きしない訳じゃないってことも、
知っています。



その「点」があるから、
谷澤久美子の人生という名の「線」が途切れず
50歳まできているのです。

そして、今思うと、「線」にとっては、
なくてはならない「点」でした。
弱い自分を、自分に見せつけてくれた
大切な「点」。


とはいえ、最中はしんどいです。

苦しい「点」の日々を送っている人も、
大切な人が苦しんでいる「点」の日々を
見守っている人も、
「点」の最中はしんどいだろうから、
独りだけでがんばらないで、
周りの力をかりながら、やってほしいな!って思うのです。


私にとって、それはおばあちゃんだったな。
お金の無心をすると、
あーだこーだ言わず、内緒で送ってくれました。
(なんとムシのいい話だ)
おばあちゃんの前では、いい子にもなれて、
それもほっとしたな。



で、
あの頃、何があったとしても、
今は、なんともまあ、
いい思い出なのですよ、これがまた。
おかしいね。













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一徹タイプの義父が。

【2011.05.16 Monday 17:30
先週の土曜日、義理の両親と姉夫婦と
夫と私で食事をした。

イタリアンのレストランで。
家族全員揃っての食事は久しぶり。

話もはずみ、食事も進んできた頃、
義父(私の隣に座っていた)が、
「くみこ。おれは、85年生きてきて、
 つくづくと、アサーティブが大事だと思う。
 結局、それに尽きると思う」
と言い出した。

私はびっくり。

「ええ?お義父さん、どういうことですか?」

義父は、
星一徹タイプの、卓袱台ひっくり返し的な
コミュニケーションを得意とする人だった。

「今まで長いこと、ずっと、
 自分の言いたいことを通そうとして、
 特には、モノを投げたり、大きな声で
 どなりつけたりしてきたが、
 それじゃあ、だめなんだよ。
 おまえのやっていることの方が、
 人間として大事なんだよ」

のようなことを言う。

「私のやっていることって、お義父さんには、
 どうみえているんですか?」

「相手のことを思いやりながら、
 しゃべることだ。
 おまえ、そうしてるじゃないか。
 おまえが普段やっていることが、
 アサーティブだろ?」

いやあ、いつもいつもって訳じゃないけど・・・(ポリポリ)
とか言いながら、
私はすごくすごく嬉しかった。

義父は
「俺は母さんの世話をするようになって、
 大きい声だして、言う事きかせても、
 それじゃあ、後味が悪くって、
 それで、一応、介護の本なんかも
 読んでいるけど、それではだめだって書いてある。
 で特に、この間の地震のあと、
 俺は、今まで怒鳴ってばっかりいたことが、
 なんだか悔やまれてな」
のようなことを言う。

私は義父に、
「私はお義父さんの心の中にある優しさを知ってますよ」
って言った。

「今日も、この店に来る前に、
 お義母さんの着替えなんかを手伝っていたら、
 大きい声で『こうやって、細かいことに気がついて
 くれて、ありがたいなあ、母さん』って、ほめて
 くれたじゃないですか。
 私、めちゃくちゃ嬉しかったんですよ。
 それに、お義父さんの許可とらないで、
 講演で話しちゃっていること、あるんです。
 お義父さん、ツバメに優しいじゃないですか。
 駐車場の中に、生まれたツバメが飛ぶ練習する時用に、
 電線までだとちょっと距離があるから、
 つっかえ棒を買ってきて、つけてくれるあるでしょ?
 あれ、すごく優しいなって思って、
 しゃべちゃってます。
 お義父さんは自分のこと、
 怒鳴り散らしてきたって思っているかもしれないけど、
 そういう時ばっかりじゃなかったですよ。
 私は知ってますよ」

義父は、そうかあと笑っていた。

義父が取り付けたつっかえ棒↓
P1000894(変換後).jpg
 

義父は英語をしょっちゅう勉強している。
私が結婚した頃には、もう勉強していて、
辞書はひいてないページがないくらい
すごいことになっているし、
トイレに入ると、英単語がいっぱい書いてある紙が
置いてあったりする。
アサーティブは形容詞で、日本語に訳すと、
「自己主張する〜〜」だ。

でも、私が学び、そして今は伝える立場になっている
アサーティブネス(名詞)は、
単なる自己主張ではなく、
自他尊重(自分の意見や感情を、相手も大切にしながら伝える)
のコミュニケーションだ。
自分を大切にするが、相手も大切にする。
そのことを義父が理解してくれているところが、
本当にすごいと思う。

お義父さんは、
「俺は、特にこれから、もっともっと
 お前のやっていることは、大事なことになっていくと
 思う」
と言ってくれた。





3/11以後、
テレビ番組の中で政治に関する議論をきいていると、
以前よりも、少し、攻撃的でなくなっているかも
しれないと思った。
特に、原発事故の責任を、
政府は政府にもあると発表したあたりから、
まずは民主党の、若手の方々の間で、
それはおこり始めているように思う。

そして日曜の朝のNHKで細野補佐官が
各党からの質問に答えていく場面では、
相手をやっつけようというよりは、
この質問をきっかに、説明の足りないところを
補足しようとする心構えが感じられた。

各党の方々も、
もしかすると勉強不足だったからかもしれないが、
揚げ足をとるという感じではなかった。

朝、フジテレビに出ていた厚生労働副大臣の大塚さんも、
その後、テレ朝に出ていた玄葉さんも、
そうだったように見えた。



もっともっと、自他尊重のコミュニケーション、
アサーティブネスが広まっていくといいと思う。

「対話」で解決していく社会を作る一員でありたいし、
今は、無駄な攻撃をし合っている時じゃない。

義父がいうように、
ますます必要とされるなら、
ますます一生懸命にやっていきたいと思う。

そして、人は、いくつからでも、
自分を変えていけるのだ!!!
私には、そういうお手本がいる。








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「トスカーナの贋作」

【2011.05.14 Saturday 13:46
なんだか、本物と偽物がいったりきたり、
頭の中がごちゃごちゃになる映画。
でも、あいまいなことを、
あいまいなままにしておきながらも
楽しめる大人の映画だって思った。

男性の作家と、
一児の母親でギャラリーを経営している女性。
二人が主人公の物語。

出会いは作家とその本をテーマにした講演会に
来た関係者らしい女性という設定。
それが、立ち寄ったカフェで夫婦に間違えられた時から、
本物の15年連れ添った夫婦のように変化をしていく。
変化していくのか、
自分たちで役割劇を楽しんでいるのか。
ま、そこがあいまいなところ。

役割劇だとすると、
女性は、
忙しい夫が仕事にだけ一生懸命で、
自分と息子のことはちっともかまってくれない、
さみしさや怒りを抱えた妻という役割をやり始めるし、
作家は、愛しているけど、
それは一緒にいる時間の長さや
たくさんの愛の言葉でなくても理解してほしい
と考えている仕事人間という役割を演じてる。

設定は、前の晩が結婚記念日で、
そんな日に疲れて帰ってきた男性は、
先に寝てしまったというもの。

女性を演じているのはジュリエット・ビノシュ。
「ショコラ」でチョコレートを作る彼女も、
「こわれゆく世界の中で」のママ役の彼女も、
「夏時間の庭」の遺産の処理に悩む兄弟の一人の彼女も
すごくすごく好きだったけど、
今回の、この THE女 みたいな彼女はすごかったと思う。

彼女が夫(役を演じてくれている作家)に言いたかったことは、
私のことを大事にして!
さみしい。
ギュッてして!
ってことだったと思う。

それを、本当に遠回しに、
たとえば、息子に対して優しさも厳しさも一人で
やらなければならないいらだちをぶつけたり、
大胆に胸があいた服を着たり、
男性の肩に頭を乗せる女性の像をみて、
女性に安心感を与えることが男性にとって大切だ
という解釈をするべきだと攻撃的に言ったり、
レストランで二人の間のズレを埋めようと、
口紅を塗り直し、大きなイヤリングをしてみたり、
しかし、まずいワインとなかなか注文をとりにこない
ウエイターに腹をたて、
その苛立ちをぶつけてくる彼にいらつき、
すたすたと歩き、
一人入った教会でブラジャーをはずしてくる。
ついには、結婚式の夜に宿泊したホテルの部屋に
彼を誘い、
今度は穏やかに話す。

時には苦笑してしまうほどの彼女の遠回しっぷりだけど、
なんだか、そこに自分がいるみたいに見える。
こんなこと、流石に全部はしないけど、
しかし、いつかの日の私は、
何かをしていたことがあると思う。

昨日から読んでる本「希望をはこぶ人」の中に、
愛情の表現の仕方についての部分がある。

愛情表現は人によって違い、
大体4つに分けられる。
1承認の言葉
2親切な行為
3肉体的接触
4質の高い時間の共有

1はたとえると子犬。承認の言葉をかけてもらうことで
 愛されていると感じる。
2はたとえると金魚。金魚は餌をくれて、水槽をきれいに
 してくれるとそれで満足。
3はたとえると猫。からだをすり寄せてきて、
 撫ででもらいたがる。
4はたとえるとカナリア。餌が欲しい訳でも、
 話しかけてほしい訳でも、
 撫でてもらいたい訳でもなく、
 そばでじっと歌を聴いてほしい。

そして、人は自分が愛されたい方法で、
他者を愛するけれど、
自分の大切な人がどういう愛され方をしたいか知って、
その方法でなければ愛されたと感じていないかも
しれないって分かっておくことが大切だと
書かれていた。

で、いくと、
この女性は3で、
作家(演じる夫)は、どうやら2かもしれないな。

子どもと妻が不自由なく暮らせるように働くことで
愛を伝えているつもり。

この二人も、この本を読んでいて、
お互いを気遣いあえるならいいけれど、
そうでなければ、
お互いのほしいものは、
しっかりと言葉にしないと、伝わらない。
わからないんだ。

どんなに大きな声を出しても、
どんなにふるまいや雰囲気で伝えようとしても、
例え15年連れ添っても、そうだ。
そりゃそうだ、
うちは結婚して23年目を暮らしているけど、
やっぱそうだものね。


真実と虚構があいまいなまま進んで、
そのまま終わる「トスカーナの贋作」。
私は今のところ、
今年みた中でベスト5に入れました。












author : tanizawa-k
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ごまかすことに使うエネルギーを。

【2011.05.13 Friday 06:31
自分の伝えたいと思ったことを、
ほぼ、伝えきれた!って経験をすると、
ごまかすことに使っていたエネルギーが
いかにもったいないことだったか、
よくわかる。

たとえば、
友達に野球観戦に誘われたとする。
その友達とは会いたいし、話もいっぱいしたいけど、
野球観戦には興味がないなんてことがあると、

私たちの心の中は複雑に揺れ動く。

断ってしまったら、
がっかりするんじゃないだろうか。
次に何かの機会に誘ってもらえないのではないか。

かといって
行っても楽しくなさそう。
第一おしゃべりしたいのに、
野球を見ながらおしゃべりできるんだろうか。

いろいろ考えて、
やっぱ断ろうと決める。

その時、私が以前やりがちなことは、
うそをつくことだった。

「その日、本当に残念なんだけど
 他の用事が入っちゃっているんだよね」
みたいな感じ。

野球観戦はいやだということを
なんとかかんとかごまかしちゃうことに、
エネルギーを使ったりしてた。


アサーティブ・トレーニングで、
「友達とは会いたい」
「でも野球観戦はいや」
その考えや気持ち、
両方大切にしていいと言われた時は
本当にびっくりした。


そして、
 ・誘ってもらって嬉しかった。ありがとう。
 ・会いたい。でも、野球に興味ない。正直困った。
 ・今回はパスする。ごめんね。
 ・でもゆっくり会いたい。おしゃべりしたい。
 ・次は私からそういう機会を作るよ。

なんて要素を入れて伝えることを
アサーティブ・トレーニングで学んだ。
それを実践すると、
すっきり感がある。清々する。

「野球に興味なし」ってことをごまかそうと
エネルギーを使って得るものは、
「断れた」ってことだけど、
「次にまた野球に誘われたらどうしよう」なんて
心配も出てきたりする。
さらに、「うそついちゃった」や
「自分の気持ちを大事にできなかった」
など複雑なもやもやが残ったりもする。

そのエネルギーを自分も相手も大切にして
伝えるにはどうしたらいいかに使うことは、
本当に建設的だ。

自分をごまかさず、
相手のこともごまかそうとしないで
言えたことで得るものは、
「断れた」にプラスにして、
不要な心配もないし、
そんなことができた自分を、
自分で認めることができるっていう
おまけがつく。



私は今、Facebookのおもしろさが分かってきたところ。

少し前、
大学の同級生が、私をFB上でみつけてくれて、
それで彼が大学のアカウントをとりグループを作ってくれた。
彼が同級生などに声をかけて18人のメンバーで
あれやこれやおしゃべりしている。
そこにいくと、大学時代に戻ったみたいに、
当時の名前で呼び合い、
当時の出来事を懐かしくしゃべっている。
本当に楽しいんだ。

そのメンバーの一人に、
当時の恋人だった人がいて、
彼からFB上での友達の誘いと、
メッセージがきた。

懐かしいなあという想い。
それと、困った気持ち。

両方の気持ちがわいた。

どうしようか2日くらい考えて、
以下のようなメッセージを送った。

「お久しぶりです。なつかしいです。
 メッセージと友達へのお誘いありがとうございます。
 お誘いをもらった時からいろいろ考えていて、
 返事が遅くなりました。申し訳ありません。

 で、友達登録はやめておこうと思います。
 というのは、私、夫のことが、なんというか、
 照れますが、非常に大好きで、
 彼を一ミリも傷つけたくないのです。
 彼は私が昔の恋人とメールをすることを、
 きっと全く気にしないと思います。
 だから、彼の問題ではなくて、私の問題です。
 私は、もし彼が昔の恋人とFBの友達登録していたら、
 結構気にすると思ったのです。なので、
 自分がいやなことは、彼にしたくないんですよ。
 そんな訳です。

 そんな訳ですが、公開のページでは、
 どんどんおしゃべりしてくださいね。
 個人的なメールのやりとりと、
 友達登録のみやめておきたいということですので。

 いろいろ考えた結果です。ご理解ください。」

彼は、了解のメッセージをくれた。
(このことをここに書くこともまた、
 了解もらってあります。気っぷのいい男だ!)

こういうひとつひとつのささやかなコトなんだけど、
でも、そこで自分の気持ちや考えをごまかそうとせず、
まっすぐに伝えた後って、
めっちゃめちゃ気持ちいい。

今回は利害関係もなく、
価値観や考え方の相違を乗り越える必要もない、
単純なコトだったから、
そこまで考えなくても・・・
って思う人もいるかもしれないけど、
私は、自分自身を大事にできたことが
自分ですごく嬉しかったし、
夫のことも、
元恋人のことも、
人として大切にできたように思う。

そのことが、本当に嬉しいな。


日常の中では、時々アサーティブであることを
選ばない時もある。
それは選んでそうしている。

でも、ちょっとずつの実践は、
力になることを実感してる。


どんな力って?
自分の人生のハンドルを自分で握り運転する力ですよ。
えっへん。











author : tanizawa-k
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いろんな時代があって。

【2011.05.12 Thursday 18:24
 今日は小学校での活動日。

3年生の社会の授業を30分ほど見学した。
テーマは「公共施設」

でも3年生ではまだ「公共」という言葉も
「施設」という言葉もわからないので、
まず今日は「しせつって何?」ってところを
勉強してた。

子どもたちは自分たちの住む地域にある建物を
いろいろ挙げる。

○○公民館
○○プール
トイレ
○○児童館
「○○屋さん」(子どもたちがよく利用する文房具屋さん)
「スーパー○○」
レストラン
コンビニ

それらを先生がカテゴライズし、
子どもたちはカテゴライズされたものの
共通点を探す。

無料
自由に入れる
とか、そんなところだ。

ある女子が発表をしたが、
彼女に対する厳しい反対意見が出た。
2人の男子が反対したのだ。

彼女は悔しい様子。
反対意見に対する意見を言えない自分に
腹をたてている感じだ。
そして、みるみる目に涙がたまった。

いやあ、いいなあ。
授業で涙が出るほど悔しい思いを経験できるとは、
なんて素晴らしいんだろうと思う。

その子は座って、
悔しさにじっと耐えていて、
みんなの盛り上がりとは
一線をひいていた。

その姿がなんだか健気で、
先生はその子のことを何度も見ていたから、
きっと授業が終わった後に
声をかけるんだろうなと思った。

この授業をしていたのは若い男性の先生だ。
授業の締めくくりがまた素晴らしかった。

「今日はたくさんの子が発表してくれたね。
 発表してくれた子,手をあげて!
 はい。ありがとう。
 みんなのおかげでたくさん学ぶことができました。
 ありがとうの拍手を全員から送ろう。
 拍手〜」

あの悔しさに涙をためていた女子も、
満足気だ。
彼女はみんなの学びや、他の子が自分の意見をまとめる
手伝いを、知らず知らずにしていたと思う。
学びを深めていたんだな。

「では、発表をしなかった子、手をあげて。
 はい、次の授業では、発表してください。
 そうしてみんなでたくさん学べるように
 しようね」


私は、なんか、感動したんだ。


この先生は、優しいだけではなくて、
たとえば手遊びをよくしている子どもには、
「○○さん。今それやる時間?
 違うよね。じゃあ、しまって」
のように、指摘もきちんとする。

そして、ずっと黒板の前にいるだけではなくて、
教室の中を時々動き、
めりはりがある感じだった。


ところで、「施設」を子どもに説明しようとしたら、
どうしたらいいだろう?
難しいよなあ。

この授業では、
「自由にいくことができる。
 お金がかからない。
 誰がいってもいい。
 そういう建物」
とまとめ、
さらに、それに「市が作ったもの」
が加わると「公共施設」になると
まとまった。

なるほどお。


昨日は中学校で、
友達関係を上手に作っていくことの難しさを聴いたり、
かわいくて仕方ない「恋ばな」を聴いた。
今日は小学生の授業を見て、
「こうやって私たちもひとつひとつ学んできたんだ」
と感慨深かった。
そして昨日から今日にかけて、
Facebookで大学時代の友達たちと、
あの頃に戻ったかのようなおしゃべりをしている。
そして、大学時代の自分が、どんなに無様だったか、
思い出してた。

でもね、
その時代、その時代、
その時得られるものを、
自分のペースで得ていけばいいんだと思う。

そうやって自分なりに少しずつ大人になって
いけばいいんだと思う。



なんだかね、そんなことを考えています。





author : tanizawa-k
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谷澤 久美子
counselor