2011年04月の記事 | 今のところではありますが…
支離滅裂。

【2011.04.30 Saturday 11:42
 支離滅裂にいろいろなことが頭に浮かぶなあ。

確か一昨日だったか、
キャンディーズのスーちゃんの追悼番組を
テレビでやっていた。
ヒット曲は2〜3曲だったようなイメージだったのに、
出てくる曲全部一緒に歌えて、自分でもびっくり。
特にまったく忘れていたけれど、
「アン・ドウ・トロワ」は
いい曲だよなあと思いながら口ずさみ、
これって、肩の力がぬけてる曲で、
「ここで絶対ヒット一発出さないと!」みたいな
気負いみたいのがない分、
気楽に聞けたんだなあと思った。

そしたらふっと思い出した場面があった。
それは子どもの頃に見た「スター誕生」
というオーディション番組のこと。
決勝大会に勝ち残ったある女性が、
山口百恵さんの
♪月夜の海に、二人を乗せたゴンドラが〜♪
ような歌詞の歌を歌ったら、
審査員の阿久悠さんだったか都倉俊一さんだったかが、
「こういうヒットしている歌手が
 ヒット曲の合間に出す曲を、
 ここぞという場面に選択する
 あなたのそのセンスが問題」
のような講評をした。
そのことを覚えていた自分にびっくりした。

スーちゃんの追悼番組で頭に浮かんだことといえば・・・

そういえば、
最初はスーちゃんがメインだったようば記憶。
でもランちゃんの方が人気が出て、
センターを交代したような。
「これからメインヴォーカルはランちゃんでいく」
と誰かが3人に告げた日があったんだな。
それを3人はどう受け止めて、納得して、活躍をして・・・
そして、
スーちゃんが亡くなる時まで仲良しだったんだなあとか。

ま、ほんと、
ぼーっと画面を見ながらも、
いろいろなことが浮かんでいるものだ。

昨日から今日にかけては、
ロイヤルウエディングを
世界の人口の3人に一人が見たってのに、
めっちゃ驚いて、
アルジャジーラはどう報道したのかとか、
イスラム教徒の方々も見たのかしらとか、
まあまあ、いろいろ。

その反面、あんまり何度もその報道を見ると、
今、多分それよりよっぽど重要なのは、
福島の子どもたちの限界線量が
年間20ミリシーベルトが、
本当にそれかどうかで、
そのことをあまり報道してないように
思えることに腹がたったり。

そして薬害エイズのことを思い出して、
落ち着かなくなり、

かといって、
私の支持する細野補佐官はそれでいいと言っているし、
どう考えたらいいのか!
困る。
本当に困る。

さらに、昨日福島の小学校の先生のブログにあった、
 20ミリシーベルトを超える数値の場所が
 運動場の中にあるけれど、
 今『みんなでひとつになって、これを乗り越えよう』と
 言っている時に、『本当に大丈夫ですか』と言いにくい
というような文章が、頭の中をぐるぐるする。

とはいえ、そのブログは名前がなかったからなあ・・・


急に違うことも考える。

昨日の毎日新聞にあった湯浅さんの
ボランティアと、
被災地の方々の就労問題の兼ね合いに
関する記事だ。

瓦礫の撤去や、家の片付けなど、
ボアンティアの方々が来て働いてくれるのは、
本当にありがたいし助かるけれど、
それを被災され職を失った方々の仕事にしようとした時、
そこに問題がおこる。
被災され職を失った方の仕事とし、
残った部分をボランティアの方に担ってもらえるような
そんなシステム作りが必要のようなことが書かれていた。

同時に炊き出しもありがたいけれど、
それと街の食堂をどう共に支えていくのか・・・
本当に難しい問題だけど、大切なことだと思う。

それにしても、
大切な連休を
(そう、今年はどうしてもゴールデンって言えない)
あんなにたくさんの方が被災された方のために
ボランティアに出かけてられている。
本当にすごい。頭が下がる。

被災地でお金になりにくいけど、
必要な仕事って何だろう。
それをボランティアが担えればいいんだ。
いつか私にもできることが、
ありそうな気がしてくる。

あ〜そうだ、そうだ。
支離滅裂にいろいろなことを考えていたけど、
やっぱ、私が考えるべきことは、
「自分のできること」だ。
そして、それは、
被災され職を失った方のじゃまにならず、
しかも、被災地にお金が落とせるようなこと。

あとちょっとのところまで来ている感じがする。
あ〜もどかしい。

もどかしいまま、
今日は支離滅裂に終わろう。






author : tanizawa-k
| 日常 | comments(0) |

「部下に自分の考えがしっかり伝わる話し方」

【2011.04.26 Tuesday 09:17
この本は、ビジネス書の「コミュニケーション」を
テーマに書かれた本の棚にあった。
上司が、どう部下と関わり、
良い職場環境を作っていくかについて、
具体的に書かれた本だ。

なんだけど「学級経営の本?」
と思うほど、
学級担任の役割を担ってらっしゃる方にも、
役立つ本だと思う。

ま、上司と部下も、
担任と児童生徒も、
もっといえば、
親と子も、
人間関係だから、
信頼関係を作るコミュニケーションの方法の基本は同じだ。

つまりこの本は、
組織や学校や家庭の中で、
立場上、上の立場の方から下の立場の方への
コミュニケーションの方法を様々な視点で考える本。
(人としてはみんな同じ価値を持っている人間同士だけど)


私がこの本が役に立つと思ったのは、
アサーティブなコミュニケーションの使い所を明確にし、
さらに、その使い所で、
どう使うかを言語化している点だ。

そして
具体的なスキルはもちろんだけど、
その裏付けとなる考え方が
分かりやすく書かれている点も。

たとえば部下を注意する時へのアドバイス。
(これは学級担任がクラスの子どもへ注意する時にも、
 おおいに役立つと思)
なぜ、その場で言えばいいという訳ではないかを
説明しながら、
場面を設定する意味が書かれている。
過去のことを持ち出さない方がいい理由も説明し、
具体的に何を、どのように変えてほしいのかを
伝える方法が書かれている。

この基本にあることは、
目的は自分のチームの中で、
一人一人が働きやすくなることで、
落ち込ませることではない。

「『しつけ』『教育』『叱責』を
一緒に行うことはできません」とある。

なるほど、そうだよなあと思う。

著者の岩舩さんはアサーティブなコミュニケーションの
ワークショップを行っている方。
(私の属するアサーティブ・ジャパンとは別で)
要求の明確化(的をしぼる)が、
注意という場面でも伝わりやすいことを、
講師という立場で伝えているだけに、
本当にわかりやすい。

担任をされてる先生で、
時々「子どもがうそをつく」ことに対して
悩まれている方がいるが、
その方々にとっても、
この「注意の仕方」の部分は、
特に「子ども(他者)を変える」という発想から、
「自分の子ども(他者)への
 コミュニケーションの方法を変える」ことの、
可能性がみえてくると思う。

子どもがうそをつかずにはいられない状況を
作ってきたのは、
そこにどういうコミュニケーションがあったかと
考えるのだ。
そこから、自分にできることを探していく。



また、たとえば報告/連絡/相談が大切なのは、
多分、全員知っていると思うが、
それでも
「なんでもっと早く言わなかったんだ!」なんてこと、
日常にはあると思う。
全員、それが大切だと分かっているのに、
小さな段階で報告/連絡/相談しないのは、
どういう段階ですればいいのか、
チーム内に共通の認識がないからなのだ。
きっとみんな心の中で
「このくらいのこと言っても、
自分でなんとかすることになるから言わない」とか、
「こんなささいな事をいちいち言っていると、
評価が下がるだろう」とか、
そう考えて、報告/連絡/相談しないのではないか。
としたら、
それを「早く言わない部下が悪い」としてしまうより、
チームの中で、それをどういうタイミングで行うかを
共通の認識する方が解決の可能性が高い。


また上司として部下のメンタルヘルスに注意を払うことは、
仕事の一部だ。
「注意を払う」とは具体的に部下のどんな部分を見るのか
また、どういう状態になったら、部下に受診をすすめたら
いいのかなども、簡単にまとめられている。


この記事に感想として書いたのは、
「注意」「報告/連絡/相談」「メンタルへルス」のこと。
それらの場面に、
伝わりやすいコミュニケーションが必要だということを
明確にし、
さらに、ではそこでのアサーティブなコミュニケーションとは
どういうものかが書かれている。

この本を読むと上に書いた以外にも
たくさんの学びがあると思う。
そして頭では、きっときっちりと分かると思う。
理論的には理解できるんだと思うんだ。

しかし、実はそこから・・・なんだ。

頭で理解できても、できないってこと、
人間だれしもあるのではないか。


理論的に理解し、
理解したことを表現できて
はじめて「伝わる」。

この本を読んで、
こういう場面では、
こういうコミュニケーションが必要なんだなと
分かったら、
ぜひぜひ、それを試してくれるといいな。
そしてもし、リハーサルの場がほしいと思ったら、
ぜひぜひ講座に参加してくれるといいなと思う。

岩舩さんも講座を開催されていると思う。
(すみません。詳しく分かりません)
私の属するアサーティブ・ジャパンの講座については、
以下のサイトに書かれている。


安心できる場所で、
十分に練習することって、
「できる」「伝わる」の第一歩になる!
私は、たくさんの講座で、
そういう実感を持っている。


「自分を活かすことと、
 周囲といい関係を築くことは、
 決して矛盾するものではない」
とこの本の最後のコラムに書かれている。
本当にその通りと思う。

そのため必要な道具のひとつとして、
アサーティブネスが、
きっと多くの人の役に立つと思うんだ。



★このウェブサイトは、
NPO法人アサーティブジャパントレーナー会員である
谷澤久美子が個人で開いているブログです。
このブログ記事に関する全ての責任は谷澤久美子にあります。
NPO法人アサーティブジャパンが運営・管理している
ウェブサイトではありませんので予めご了承ください







author : tanizawa-k
| | comments(2) |

苦手な人。

【2011.04.25 Monday 18:04
「 なんだか、あわない」
「よくわからないけど、一緒にいるといらっとくる」

世の中の人全員好きになれれば、
こんな幸せなことはないけれど、
なかなかそういう訳にはいかないものだ。

新しい学年になって、
子どもが苦手な子と一緒のクラスになった。
あるいはあまり顔をあわせたくない方の子どもと
我が子が同じ部活に入った。

新しい部下と約一ヶ月仕事をしたけど、
どうもうまくいかない。
今度の上司は顔をあわせるだけで憂うつな気分になる。
あの人とパートのシフトが同じ日は、調子が出ない。

担任の先生、
医者や担当看護師、
営業で廻ってくる人、
同じ場所で二人きりで仕事をする、その相手、
そういう人と、
どうしてもあわないってこと、
人間だからあると思う。


そういう時、
人は防衛本能が働いて、
初期の段階では
「あわないって思うと、
 これから自分が大変になってしまうから、
 そう思わないことにしておこう」
と考えたりする。
そして、
「人間100%悪い人はいないから・・・」
などと考え、良いところを探したり、
がんばって声をかけたりしたるする人もいるだろう。

しかし、そのうちへとへとになって、
そして自分を責めたりすることが
始まったりするかもしれない。
「いやだなと思う自分が悪い」
「嫌いだと考えてしまる自分が、小さい」
などと。



その時にやった方がいいことは、
自分がその人に対してどう思っているか、
自分でしっかり認識することだと思う。

「あの人と、あわないな」
「あんまり好きじゃないな」
と認めること。
もちろん、口に出して、その人にそう言うのではなく、
自分の中で、そう言葉にしておくだけだ。

自分の感情、
「いやだ」「好きじゃない」などを、
自分の中で言葉にしておくことのメリットは、
そこで自分が客観的になれること。


感情は自分のからだの中を流れる
エネルギーのようなもので、
最初から感情名とともにそこにあるのではない。
そのままにしておくと、
その感情に巻き込まれてしまうことも
絶対にないとはいえない。
それは不用意なふるまいとなってしまいかねない。
たとえば、その人が職場に入ってきた途端に
ため息がでてしまうとか、
その人が挨拶してきた途端に
クルっと背を向けてしまったとか。

カラダの中に流れる、まだ名称を持たない感情に、
感情名を与えるということは、
自分のカラダの中を流れるものを
客観的に考えたということになる。

これが、「言葉は感情を抑制する道具にもなる」
という理論の、一番の要点でもあるのだ。


つまり、
苦手だなあとかあわないなあとか思ったら、
最初にすべきことで、一番大切なことは、
それを自分で認識すること。

そしてその上で、
苦手であっても、あわなくても、
人として、立場として
すべきことをする。

つまり、朝会えば「おはよう」と言うし、
帰りには「お疲れさまでした」と言う。
上司として部下に指示すべきことは、
明確に的確に指示をし、
担任として、他の子と同じように接する。
同僚が休みを変わってくれたら「ありがとう」と言い、
受けた仕事は、受けた分をする。

感情は苦手でも嫌いでも、
一緒に仕事をする人とか、
一緒にその場を作る人として、
やるべきことをする。
特に仲良くなる必要もないし、
太い信頼関係を築く必要もない。
でも、当たり前のことをする。

しかし、それは結構キツいことだから、
ガス抜きできる場を確保しておいたり、
ストレスを開放できることを
もっておいたりできたらいいと思う。



そして、そうやってみても、
どうしても、
辛かったら、
違う場を選ぶってこともできる。




・・・で、
そういう感じで自分の感情は受け止めて、
ふるまいはコントロールしていると、
なぜか、
感情が変化していることに気がつくことも
あるんだなあ。

ちょっとだけ苦手感が減っていたり、
嫌いって思ってたけど、
好きじゃないなあ・・・くらいになっていたり。










author : tanizawa-k
| 日常 | comments(2) |

「俺にはアサーティブはできない」

【2011.04.24 Sunday 20:12
義父が二階に上がってきて、
開口一番
「久美子、俺にはアサーティブはできない」
と言った。

「ええ?お義父さん、どういうこと?」

「俺はあの人と話していると、
 なんだかいらいらしてきて、
 実際のところ、
 ちょっと怒った感じになるんだよ」

「あの人」とは義母のことだ。

私は心底感心する。

義父は85歳。
アサーティブという言葉を知ってくれているばかりか、
概念も分かってくれている。
私がアサーティブの講師となった頃、
説明したのだが、
それを覚えていてくれているのだ。
そのことは知っていたが、
今日は「言葉」として使ってくれた。

私「そうなんですね、お義父さん。
 いらいらすることあるんですね」

義父「もういやになってしまうことあるんだ」

私「そうなんだ」

なんて話しながら、
お義父さんは、
私からみると、
アサーティブな生き方だなあと思う。
(義父自身が、
 それをめざしているって訳ではないと思うけど)

義父は、
義母とのコミュニケーションの時に、
時には攻撃的になってしまったり、
作為的になったりすることがあるんだろう。

でも、そのことをこうして振り返り、
しかも私に話すということで、
この後からの自身と義母との時間を
より良いものにしようとしている。

なんとかしようと、
二階に上がってきてくれた義父。

私はただただ話を聴くだけだったけど、

心の中で、
「お義父さん、
 お義父さんはめっちゃアサーティブだよ。
 葛藤しながら、自分のことも大切に、
 そして周り、特に義母のことを大切にしようと、
 努力を重ねているじゃん。
 それがアサーティブ!
 時々は、コミュニケーションがうまくいかないこと、
 あるよ。それが生身の人間だよ。
 でもお義父さんはそれを相手のせいにばかりしないで、
 だからって、自分を追いつめることもせず、
 どうしたらよいかに向かって行動をしている。
 そういうお義父さんが、めっちゃかっこいいんだよ」
と言っていた。

言葉に出して、
「私はお義父さんが、すごくがんばってるの、
 知ってる。
 私はお義父さんと親子になれたこと、
 ホント、感謝してる。
 時々気分転換してほしいことが、
 私の望み」
と言った。

お義父さんは
「おう。ありがとな、いつも」
と言って、階段をおりていった。

かっこいい。




author : tanizawa-k
| コミュニケーション | comments(2) |

「『対話』がはじまるとき」

【2011.04.22 Friday 13:42
管さんが、昨日、
原発から20㌔圏内に住んでらして
避難されている方々を、訪問したとのことだ。

今さら何しに?とか、
来るなら短期の計画、長期の計画などを
もってきてほしいとか、
単なるパフォーマンスでは?とか、
避難されている方々にとっては
複雑な想いがあるようだった。
それはそうだと思う。
ほんとに、そう思うのは当然だと思う。

だとしても、
私は訪問したことはよかったと思う。

そして、そこに行けば、
厳しい怒りの声を
いただくことが分かっていて、
それでも行くことを選んだ管さんを、
このことに関しては、
私は認めたいと思った。
それは問題点はいっぱいあると思うし、
どうしてこんなになってしまったのかと
いう疑問もあるけれど、
それでも、避難されている方の行き場のない
怒りや不安を直接聴くことは、
やるべきことだったと思う。

そして、さらにいえば、
民主党政権になる前まで、
原発推進をすすめてきて、
「絶対安心!」と言い続けてこられた
自民党の政治家の方も、
行かれた方がいいと思う。

「間違いでした」と
認めることからスタートしてほしいと
考える。


この、「『対話』がはじまるとき」という本は、
ひとつの信念に基づいた本だ。
「私たちがお互いの言葉に耳を傾ければ、
 世界は変えられるはずだ」という信念。

変えられるかどうかは分からないが、
変えることができる可能性があるとしたら、
それは分かり合おうとするところから始まるということは、
理解できる。

特に、ここのところ被災地で、避難されている方や、
ボランティアの方々の話し合いの場面を報道で見るたびに、
この著者の言葉は確信になってくるように思う。

少し前、BSで、
被災当初から、各避難所に支援物資を供給し続ける
ボランティアグループの話し合いの場面が流れた。

運転手として活動しようと
集合場所に集まってはみたものの、
事務局から指示が出ないスタッフの方々。
自分の時間を削って、
被災地の役に立ちたいと駆けつけたのに、
待機時間が長いことでイライラがつのる。
事務局は、SNSか何かで、
この団体が詐欺グループだという噂が流れたことへの
対応に負いまくられて、
スタッフに指示を出すまでに至っていなかったのだ。
そこで話し合いが持たれた。

話し合いでは途中、ワルモノ探しが始まった。
スタッフと運営側、
どちらに効率悪さの原因があるのかに
議論がいき始めた。お互いを攻撃し始めた時に、
スタッフの一人が、建設的な発言をしたのだ。
「じゃあ、どうすれば、
 支援物資を運べるようになるのだろう?」

この発言がきっかけで、
スタッフをいくつかのチームにわけて、
チームのリーダーに事務局がタスクを示し、
リーダーが各スタッフに指示を出す
ということが決まったのだ。


昨日みたニュース番組では、
学校を避難場所にしている方々が、
子どもたちの学校生活のために
ある程度のスペースを返さなければならなくなり、
洗濯物はどこに干すか?という話し合いをしていた。
これまではひとつの教室が洗濯干場になっていたのだ。

まずは、小さな単位で話し合い、
最後は体育館で避難している100名くらいの方、
全員で話し合っていた。
「こうすべき」というものを決めないで、
「とりあえず外に干す」ということが決められていた。

今朝のワイドショーでは、
運動場で、放射能の値が基準値以上を示す学校
の方々が一同に集まり、
文部科学省の役員から直接説明を聴く場面をやっていたが、
保護者の方々は、
疑問点や要望を口々に発言していた。


お互いの声に耳を傾ける。
それだけではどうしようもないけれど、
それをしなけれなば、問題解決への扉は
開かれない。


本の中には、対話にむけて後ろ盾になって
くれるような言葉がいろいろある。

「ほかの人の考えを耳にすれば、
 自分の信念が揺さぶられることも
 あるでしょう。大切なのは、
 進んでその衝撃を受ける覚悟が
 あるかどうかです」

「解決の糸口が見つかるのは、
 『自分は答えを知らなことを
 認めたときだけ』なのです」

「混乱なくして創造はありません」

「一緒にじっくり考えていくために
 同じ考えをもっている必要は
 ありません」

「私たちを分かつのは『違い』ではなく
 互いに対する決めつけが、
 私たちを離ればなれにしているのです」

そして、人の心に湧いてくる「恐れ」という
感情についても、アドバイスがある。
対話を進めるときに、
本当に分かってもらえるのか?
否定されたらどうしよう?
という恐れの気持ちは湧いてくるものだからだ。

恐れに対しては「否認しないこと」をすすめている。

「否認しないとは、恐れを感じても
 それを否定せず、自分は恐れているのだと
 認めることです。ただし、逃げ出したりは
 しません。そこにとどまり、果敢に恐れと
 対峙するのです。恐れの方にむきなおって、
 興味をもち、その原因や大きさを探ろうと
 します。どんどん近づいていって、
 しまいには仲良くなってしまうのです。
 すると恐怖のほうに変化が生じるでしょう。
 たいていの場合は退散していくはずです」


私は管さんに、
福島第一原発で働いている作業員の方々の、
あの、硬い床にマット一枚敷いて休んでやっしゃる
現場に言って、彼らの声を聴いてきてほしいと思う。
大変さを汲み取り、辛さに耳をかたむけ、
それでも日本のために命を差し出してくれている方々の
考えや感情を聴いてきてほしいと思う。
そして、全国民を代表して、心からの労りの言葉と、
さらなる作業のお願いをしてきてほしい。

次に、彼らの家族の方々にお会いして、
おかけしているご苦労やさみしさや心配に
お詫びをして、
さらに、彼らは日本の誇りだと伝えてきてほしい
と思う。

それをしても、
「不安定に安定」している原発が
急に収束していくことはない。
でも、そこから始めること、
作業をしてくれている方々と、
その家族の方々の声に
耳を傾けること、
そこからやるべきではないだろうか。


そして、管さんだけに要求するのではなく、
私も、私の現場で、
どうしても考えの違う人、
あわない人、
それでも一緒に仕事をしていく人の声に
耳を傾けることをしていきたいと思う。

そこからしか対話は始められない。
対話を始められなければ、
問題解決の扉は開かないのだ。

この本は、そんな意欲を運んできてくれた。









author : tanizawa-k
| | comments(0) |

建設的に発言すること。

【2011.04.20 Wednesday 09:16
まだまだ、考えがまとまっているとは言えないのですが、
途中の段階で、
だらだらと書いてみます。
もう少しで捕まえられそうな予感がしています。
以下・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今後、ますます、ますます、
「きちんと物を言う」ということが
必要になってくるのではないか?

「エコ」を高邁なところから推進していても、
ここまで「節電」はできなかったが、
必要に迫られると、
私たちはやる。

それと同じような感じで、
「主体的に生きる」ということのためには、
やったほうがいいくらいのことだった、
コミュニケーションの技術の取得も、
これからはなくなてはならないものに
なってくるのではないかと思う。


今はもう、Twitterを読んでいても、
批判のための批判に思えるような
書き方をしている文章は、
読み飛ばされているように思える。



まつのりさんがリツイートしてくれて読む事ができた
高橋琢哉さんという方のツイートに、
大きなヒントがある。

「原子力委員会が国民からの原子力政策に対する
 意見を募集。投稿しました。とにかくダメ!原
 発止めろ!と盲目的に言ってるだけのひとは投
 稿出来ないような仕組みになっている。意見と
 理由をちゃんと記載することが必須。ぜひがん
 ばって投稿を。 http://bit.ly/glbZiy」



私たちの社会は、
和や社会的団結に価値観をおいて、
顔を立てたり根回ししたりという
コミュニケーションで、
なんとかがんばってやってきた。

だから、ある一つの意見でまとまりつつある時、
自分の意見が正反対の場合は、
和を乱すかもしれないというリスクを考える。
そして自分が絶対に正しい、
だからそれを通したいと考えた時には、
和を乱すかもしれない自分というものを保つ
方法として、攻撃的なもの言いを
取りがちになってきたかもしれない。

もちろん、いつの時代でも、
和も社会的団結も大切なことのひとつだ。
でもそれを大切にするコミュニケーションの方法は、
気配を読んで、
自分の意見をそっと出して様子を見て、
だめだと思ったら引っ込めて、
それっきり言わない的なものだけではない。

そればっかりやっていると、
きちんと自分の意見を発言する必要がある時に、
言えなくなってしまわないだろうか?



今、国には「新しい公共」という考え方があって、
たとえば官だけでなく、市民、NPO、企業などが
積極的に公共的な財・サービスの提供主体となり、
身近な分野において、共助の精神で活動することを
推進するためのシステムを作ろうとしている。

誰かが暮らしやすくしてくれるのを待つのではなく、
自分にできることを考え、
そしてそれを分かりやすく表現することが求められている。


被災地の復興計画も、
地域によっては、
国の復興構想会議に先駆けて、
住民と行政が自分たちの理想像を作っているところもある。

どういう町に住みたいのか、
どう暮らしたいのか、
自分たちで考えて、それを表明していくことが
必要となってくる。


Twitterで糸井さんが
「飯舘村長への言うことは、 http://bit.ly/eXvJsA 
 たぶん、ぼくが村長であっても、言うような気がする。
 誰だって命は大切だし、誰だって人を大切にしたいに
 決まってる。村長が極悪人だから、こう言ってるのだ
 ろうか?だまされてるのかね?ぼくには、そうは思え
 ないんだけど」
と発言した。

すると、アキモトという方が糸井さんに向けて、
「あなたは飯舘村の問題にどれだけ時間をかけて事の成
 り行きを理解してますか?まさかあの記事一つ見ただ
 けでこんな不用意な影響力多大な発言してるんじゃな
 いだろうね。これは村民には言葉の暴力だよ。」
という私から見ると攻撃的な発言をした。

この発言を糸井さんは取り上げて、
「なにかを読んで、そうかと同意したということを伝え
 たら、それがことばの暴力であると言われる。考えが
 ちがうのはいいが、人を黙らせようとするのは困る。
 じぶんの感想くらいは、これからも言う。 
 @Lk_akimotoさんのTLもさかのぼって読みました。
 背景が少し見えました。」
と言い、

そして、糸井さんは自分の責任でこのやり取りに
終止符を打つ。
「ぼくは、飯館村長の話に『なるほどそうか』と同意して、
 その考えもあるということを書きました。その後に、
 同じ村にいる反対の意見の @Lk_akimoto さんのTL
 をさかのぼって読みました。いちど、この問題につい
 ては黙ります。村長にも、@Lk_akimoto さんにも
 感謝します。」


私たちは、発言する道具を手に入れて、
今まではとても届けられなかった声を、
人によっては届けることができるようになっている。
急に手に入れた道具を使うのに、
まだまだとまどいながら使っている。
この流れは、多分もう止まらないだろう。
もっともっと進む。


いろいろな方法で自分の意見を表面することが
できるようになり、
また、意見を言うことを迫られるようにも
もっともっとなる。


言いたいことをぶつけるか、
言いたいことも黙って内に秘めておくのではなく、
違う考えの人を否定することなく、
価値観の違いを薄ら笑いながらでも、
攻撃するのでもなく、
自分の意見を伝わるように伝えられるように、
訓練しておきたいものだと、
つくづくと思うのだ。




author : tanizawa-k
| コミュニケーション | comments(0) |

「ほしいものはなんですか?」

【2011.04.18 Monday 16:54
 「すーちゃん」の益田ミリさんの漫画、
「ほしいものはなんですか?」

「かかわり方の学び方」の西村哲佳さんがおすすめする本
の中の一冊。

小学校3年生と思われるリナちゃんの
問いかけに、
リナちゃんのママミナ子、
叔母タエ子は、
自分自身の人生を考える。

これがおもしろいんだ。


「なんで若い方がお得なの?」
「大きくなったら、何になりたかったの?」
など、
リナちゃんが感じる素朴な疑問であって、
大人になってしまうと
気を使って訊かれなくなってしまうことを
すばり訊かれて、
たとえば適当な返事をしてしまって、
なぜ適当に応えてしまったんだろうとか、
あるいはつい本音を言ってしまって、
あらら、なぜ口に出してしまったのかなとか、
そのあたりから考え始めて深めていく様子が、
とってもとってもおもしろい。

一人になった後で、
ミナ子もタエ子もなんとはなしに考える。



そして私はまたまた「ねずみ女房」を思い出す。
「ねずみ女房」の主要なテーマは、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「これいじょう、何がほしいというんだな?」
とおすねずみは聞きました。
 めすねずみには、何がほしいのかわかりませんでした。
でも、まだ、いまもっていない、何かがほしかったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というところにあり、
この本も、まさにそれだから。

ミナ子がほしいものは「存在感」。
専業で家の仕事をしていたが、
外で働いてみようかなと思い夫に伝えると、
「いいんじゃない。
 家事に支障がでない範囲でやるには、
 全然okだよ」と言われる。
「うん」と応えて、もやっとするけど、
なぜもやっとするのかも分からない。
でも、時間が立つと、
「家事に支障のでない範囲で」という言葉に、
妙にひっかかりを感じる。

今の50代くらいの方々は働き始めた頃、
男女雇用機会均等法が制度としてスタートした。
その下の世代、
30〜40代の方は
中学校の生徒会長や部活の部長に女性がなることも
普通な時代も通ってきていて、
表向き、男女平等ということが頭には入っているし、
「家事は分担しよう」なんて決めたりする家庭も多いと思う。
でもまだまだどこか、
「基本は女性でしょ」ってとこが
あったりする男性も多く、
「分担」と決めても、
「やってあげてる」意識や、
女性の方も
「(本当は私がやった方がいいんだから)
 ありがたく思わなくちゃ」的な意識が、
残っている場合もあると思う。

もちろん、その上の世代の男性の中には、
「妻がご飯を作るのは当たり前で、感謝に値しない」
と考えている方もいることを知っているから、
それと比べれば雲泥だ。
(これは、個人の問題というより、
 そういう社会だったんだよね)

とはいえ、まだまだそんな世の中の感じを、
この
「家事に支障がでない範囲で」を
「夫が認めてあげている」という辺りの
表現にしていて、
うんうん、分かる分かるとうなずける。

ミナ子はある日、
ふかふかに干した布団に入っても、
そのことに何も気がつかない夫に、
「その布団、今日、干したのね。
 この家、一階は日当り悪いし、
 いつも二階のベランダに干すの。
 布団を持ち上げてね、
 階段を上ってね、
 干したらまた戻って
 次の布団干すために
 階段のぼってね
 しばらく太陽に当てたら、
 また布団を取り込むんだけど
 階段を降りる時は布団で前が見えないから
 重いけどゆっくり降りるんだよ
 だから
 あなたが寝ている布団は
 そういう布団なんだ」
って言う。

この場面が、私はとてもとても好き。

そして母が亡くなったあと出てきた、
彼女の書いた文章を思い出した。
あまりに忙しく自分の時間がない毎日に
耐えかねて、
自分の一日を朝5時に起きるところから書いてあったんだ。

そんなミナ子のほしいものは「存在感」。




リナちゃんのお父さんの妹タエ子は、
仕事をもち結婚をしていない女性。
つい最近マンションを買った。
家庭をもっている同僚が子どものことで休むと、
彼女の分も働いてあげているし、
ミナ子の母親が入院しているのでミナ子が付き添いに
いくときは、リナちゃんを預かってあげている。
「支え合わないと」と思っているけど、
なんとなく自分の方が多めに支えてあげているように思ってる。

彼女のほしいものは「保証」。
リナちゃんはそれを聞いて、
「それって、誰かにもらうものなの?」と
質問する。
するどいなあリナちゃん。


ミナ子もタエ子もいいなあと私が思うのは、
ほしいものが手に入ったら、
しっかりと生活するのではなくで、
ほしいものはほしいけど、
今もちゃんと生活していること。

ちゃんと、自分自身のことを考えながら、
理想の自分や足りないところも意識した上で、
折り合いをつけて生きているところ。

そこが、すっごくすっごく、
私の心を温める。


リナちゃんは学校で「主」という文字を
習ってきた。
そして熟語を考えてくる宿題がでた。
リナちゃんは、前の晩、
「主人ってパパのことでしょ?」とミナ子にきく。
でも、翌朝、
「ママ、宿題、主人公にした」と言う。

私は不覚にも涙。

そうそう。
なりたいものになれた人もいる。
なりたいものになる過程の人もいる。
なりたいものにはなれなかったけど、
今の自分でなんとか生きている人もいる。

みんながみんな、主人公なんだよ、リナちゃん。
ちょっとこっぱずかしいけど。
本当のことなんだ。




・・・・・・・・・・・・・

あああ、震災にあった方々の、
ほしいもののうち、
送ることができるものや、
他者が支援できることは、
できるだけ届けたいと思いながら・・・



author : tanizawa-k
| | comments(0) |

驕り。

【2011.04.15 Friday 20:52
先週金曜日、トヨタの社長が
テレビの画面に映っていた。
東北地方で作っていたトヨタの車の部品が作れず、
海外の工場での生産を停止にすることを伝える
ニュースの中でだった。
そんな大変なニュースであるのに、
トヨタの社長は落ち着いていて、
毅然としていた。

昨年だったかアメリカでリコールの問題が起こり、
公聴会での緊張した社長や、
その後の社員始め身内の方たちの集まりでの涙など、
感情をあらわにしていた彼を見たことがあったので、
今回の情報を冷静に伝える社長の姿に、
おおっと!という感じだった。

あまりにも上から物言いな言い方しちゃうと、
昨年の大きな出来事を乗り越えたことは、
彼の力になっているかもしれないなあ、なんて。

私はそのことを夫に言いながら、
自分のことにも引きつけて
「私も父の死と、
 その後の廃業をやってみて、
 あれほどのことがあると、
 あれを乗り越えられたっていうことが
 自信になって、怖いものがなくなって
 くるんだよね」
なんて言った。
ほんと、我ながら調子に乗っている。
あああ、恥ずかしい。

確かに父の死のこと、廃業のことは経験したけれど、
怖いものがなくなるほどあらゆることなど
経験した訳ではないのに。

その日の夜のことだ。

お風呂に入ったあと、
テーブルの上においた鏡を見ながら、
顔にクリームなどを塗っている私の背後から、
何かが動いた。
はっと見ると、その瞬間、
夫がバサっと倒れて、
テーブルに顔をぶつけ、
そのまま床にうずくまった。

私はひゃ〜と大きな声を出し、
「泉さん、泉さん。
 どうした?大丈夫?」
と叫ぶ。

彼は床にうずくまり、
手で顔を押さえている。
そこから血がだらだらと流れる。

小さな声で「紙ちょうだい」と言う。
私が渡すと、ティッシュペーパーは、
みるみる血に染まる。

「大丈夫?
 救急車呼ぶ?」
という私に、
「いい、血がとまればいい」
という彼。

何分か床にうずくまっていた彼が、
たちあがる。

一瞬気を失なって倒れ、
その時に顔をテーブルにぶつけ肌が切れ、
血を流し、
その後、血はなんとか止め、
そして落ち着いて、
ベットで休んだ。
1〜2時間ほどは眠れたようだが、
一度トイレに起き、
その後、何度もトイレにいく。
気持ち悪さで眠れないようだ。

夜中の3時ころ救急にかかった。

そこでCTとレントゲンを撮り、
異常がないことがわかり、
気持ち悪さはぶつけた時に三半規管にストレスが
かかったからではないかということで、
傷を縫ってもらって帰ってきた。

この間、私は心配で心配で、
もしかすると
彼の脳の中で何かがおこっているのかもしれないと怖くなる。

昨年亡くなった巨人の木村コーチのことが
頭に浮かぶ。
彼の倒れ方と似ているような気がしてくる。
私の母親も小脳梗塞で亡くなった。
倒れる前に気持ち悪いと吐いていた。
母は52歳で亡くなった。夫も52歳だ。


ほんの数時間前に
「怖いものがなくなった」なんて言った私。

神様が、
驕った私に「ばかたれ!」と言ったのか。
あるいは父や母が天国から、
「身の程を知れ!」と合図を送ってくれたのか。

あれほどの地震、津波、原発事故の情報を知っていながら、
「怖いものなくなった」なんて、
その横柄さに、
神様も父も母も、相当あきれたんだろうな。

罰を与えるのなら、私に与えてくれればいいのに。

私の一番大切な人が
痛い想いをした。

それが私にとって一番痛いってこと、
わかってるんだな。


大事なことがある。
大事なものがある。
大事な人がいる。
それが絶対なくならないなんてこと、
ない。
絶対なんて、ないんだ。

ってことは、
ちょっと考えれば、わかることだった。
自分が弱い人間だって。
すぐそこに、恐怖や不安もあるんだって。

怖いことがなくなることが強いことではなくて、
怖いことがあっても、
それでも怖さを感じながら生きていくことが
強いことだ。

これほどのことがないと、気がつかない、
ちっさな私だ。



で、夫の体調ですが、
大丈夫なので、ご安心を。
今日抜糸して、
そして走り始めました。







 

author : tanizawa-k
| 日常 | comments(6) |

まずは自覚して、そして折り合いをつけていく。

【2011.04.14 Thursday 15:39
香山リカさんの本二冊続けて読んだ。

年が同じってことと、

「リカ」って名前が好きってこと。
 「リカちゃん人形」の「リカ」だし、
 私が社会人になって
 始めてできた友人の名前が
 「理香」ちゃんだった。

それと、彼女のツイートから忍ばれる彼女の雰囲気が
最近以前より私好みなんだ。
 ちなみに最後の書き込みは3月24日、
 「被災地の精神科医の話や避難所の方々から
  感じたことなど書きたいけど、あとにしよ…
  とこんなときまで先のばし路線を変えないワタクシ。」
 この前日くらいから、彼女は被災地に行っていて、
 被災地からいろいろつぶやくのかな?と期待してたら、
 肩すかし。でもまた、それが彼女らしくって、
 なんかいい感じ。

ま、そんな訳で読んだ。
彼女の頭の中で起こっていることと、
私の頭の中で起こっていることは、
彼女には遠く及ばないけど、
多分種類がすごく近いと思う。
思いっきりうなずきながら読んだ。


「だましだまし〜〜〜」の方は
著者の半生を鈴木利宗さんというルポライターの方が書いている。
なぜ精神科医になったかとか、
医者であり続けながら、テレビでコメンテイターとして、
あるいは文筆家として活動も続けている理由や、その発端、
そして彼女の恋愛観などが書かれている。

彼女は自身のことを、
親への依存度が高いと考えている。
私から見ると、「親」への依存というより
弟も含めた「家族」への依存度がかなり高いように
思う。
それは親から過度の期待をかけられて育った訳でも、
親からの愛情があまりにも不足した訳でもない、
つまり、機能不全家族とは正反対の家庭で育つ彼女。
しかしながら、
彼女が自分自身を分析するには、親へ依存していて、
たとえば、
両親が亡くなる時に一緒に死にたいと
本気で思っていたようだし、
そして弟には、毎日電話をかけて、
日常の出来事や社会で起こった事件や事故、
政治のことなどしゃべっているらしい。
パートナーがいるにもかかわらず。

そしてそのことを自覚している。
私は、そこが健康的なんだと思う。

しかも、自覚しているから、
それと折り合いをつけて生きている。

つまり、依存度が高いけれど、
そのことで誰かに過度の迷惑をかけたり、
あるいは自分が生きづらいようなところまでは
いかない。
大きな問題がない程度に折り合いをつけている。

私は、そこにめっちゃ共感するんだ。

彼女の場合は親への依存度が高いってことだけど、
みんな誰でも、ひとつやふたつ、
ちょっとやばいな・・・ってとこがあると思う。
それはあっていい。
あったとしても、それを自分で知っていて、
そしてそういうところもある自分で、
生きていく。日常の中で超困らない程度に、
生活できていれば、それでいいのだ。

彼女自身がそういう人だから、
彼女の発することが、私は信用できるように思う。

マイナスあっていいんだ。って感じ。

そこが勝間さんと、多分、大きく違うんだと思う。
勝間さんはマイナスはゼロにしてプラスに変えてやる!的な
やる気がちらほらする。
それはそれでOKで、そういう考え方もある。

でも、香山さんは、
「あるよ、誰でもマイナスは。
 あっても、それが自分で分かってて、
 それで生きていければいいんだよ・・・」
のスタンスのように思う。

この本を読んでると、彼女がそういう考えに至るのが、
なんとなく分かってくる。


で、もう一冊、「世の中の意見が〜〜〜」は、
これがまたおもしろくて、
様々な意見、洪水のような情報の中で、
それらに振り回されないで生きていくには
「少数派であることを恐れない」
「わからない時には保留する」
「変節を恐れない」ということだと書いている。

さらに、自分の考えを自分で決定するために
やったほうがいことも書いてくれてある。

今も、たとえば原発をめぐって、
3・11以後のエネルギーの考え方は大きく二つある。

その二つのうちの自分はどちらに立つのか、
あるいは第三の道を考えるのか。
彼女は、こういう時は、
まず自分で考えられることなどたかがしれている
と自分で知っていることが大事だいう。

ほらほら、これこれ。
つまりは自覚すること。
やっぱり、それが大事だ。

そして、
情報量だって、知識量だって、
原子力やその他のエネルギーの
すべてのことを知りきるのは不可能だし、
まして万が一知ることができたとしても、
それに関する
あらゆる考え方を考えるのも、不可能に近い。
そのことを自分で知っておく。

さらに、
「『偏見や先入観なく、なるべく中立的、客観的に
 考える』ということに尽きると思う。また、
 『自分ひとりの立場や経験で考えられること、
 決められることは、たかが知れている』
 ということも忘れないようにしている」
と。

そして彼女はいくつかの中から一つを選択、決定
が必要な時には、
「多くの人の利益になるほう」ではなく
「その決定で傷つく人がなるべく少ないほう」
を選んでいるそうなんだ。

私はこの考えに至るのに、
大きな影響を与えた臨床の現場の話に
とっても興味をもった。
それは私も同じようなことを感じていたからだ。
私の場合はカウンセリングの現場にいると、
「こういう時にはこれ」という
「当たり前」は存在しないという経験が
日常の中に普通にあるが、
彼女もそれを医療の現場で感じているとのことだった。

たとえば「努力は大事」は当たり前かというと、
一般的にはそうかもしれないけど、
今被災地の方に、それを求めていいかどうかは、
大きな疑問だ。
そういう事例が日常的にあると、
とても一般的に語れないというか、
「当たり前はない」とさえ思う。

これは私のカウンセリングルームでの話ではないが、
仕事上知ってしまった話に、以下のようなものがある。

パチンコに子どもを連れてきて、
プレイルームに子どもを預ける時、
まだ歯が生えたか生えないかくらいの子どものお昼に、
コンビニの鮭弁当を置いていく親御さんがいるってこと。
また
駄菓子屋さんに買いにくる、
小学生1〜2年生の子の中に、
一円や5円は捨てていく子もいる、
なんて話も知ってしまうと、

当たり前など、どこにもないように思うのだ。

そうなると、
知らないことのほうが多いかもしれないし、
客観的であろうとしてもありきれないってことを、
自覚しておくことこそ、大事だと思う。

その上で、彼女は自分の基準をもって選択し、
決定している。
それが素敵。

ま、二冊をざざっと読んで、
同じ年の彼女が、
年を重ねていく姿を観察していかれるのが、
一層楽しみになっている。
そして、きっと被災地のことも、
いつか何かで発表してくれると思う。
それにも期待しよう。









author : tanizawa-k
| | comments(1) |

錯綜する言葉。

【2011.04.12 Tuesday 14:33
プロ野球が今日から始まるのだろうか?
朝のニュースなどで、監督たちのコメントが
紹介された。
みんなが一様に
「自分たちががんばることで
 東北に元気になってほしい」と言う。

これ系の言葉は野球関係者だけではなく、
有名な方からそうでない一般の人まで、
いろいろな人がいろいろな場面で、
「今自分が自分の活動の場でがんばることで、
 被災地の人々に勇気づけたい」と言っている。

多分、みんな、心からそう言っていると思う。

自分の活動の場で、自分の仕事をするしかないのは
本当のことで、
でも、仕事さえ天災に奪われた方のことを思うと、
仕事をすることさえ
罪悪感のようなものに襲われる瞬間も
あったかもしれない被災地以外の人々は、
「自分ががんばることで
 避難されている人々に希望を届けたい」
という言葉が
最初に公にOKと受け止められた
(と感じられた)時には、
ほっとしたと思う。

というか、私はほっとした。
堂々と仕事して、いいんだ!と。

多分、それが公に最初に認められたのは、
サッカーのチャリティマッチだったと思う。

あの時の選手や協会の人々の言葉には、
迷いがあったし、葛藤が表れていた。
小笠原選手は
「今、サッカーをすることが本当に良いこと
 なのかどうかわからない。でも、自分に
 できることはこれだけ。だから、
 いいかどうかはわからないままだけど、
 なんとか力になりたいから出場を決断した・・・」
のようなことを言っていたし、
カズも協会の人々も、
相当悩んで決めた、その葛藤の過程がにじみ出るような
そんな言葉でインタビューに答えていた。

今も、野球の監督の中にも、
悩みに悩んで、ふりしぼるようにそう発言して
いる人もいるかもしれない。

しかし、そうでない言葉も感じ取ってしまう。
そう言っても大丈夫そうだから発言している感じ。



じゃあ、口を閉じた方がいいのか?



いいや違う、と思う。



大地震、津波、原発事故からの後の一ヶ月。
私はTwitterから目が離せなかった。

政府や東電を責めるよりもまずは、
今の対応をしやすくしてもらうことの方が大事と
考えている人の言葉。
それでは甘い、今、政府や東電の対応方法や
情報提供の方法を糾弾しない
マスコミカからの情報を鵜呑みにするのは、
戦争の時と同じになってしまうというような
攻撃的な言葉。

自粛を促す言葉。
反対に経済活動をすべきだという言葉。

計画停電への困惑の言葉。
計画停電を好機と捕らえようという言葉。

♪ずっとウソだったんだな♪という言葉。
いやいや
♪ずっと無知だったんだぜ♪という言葉。

明らかに間違ったことからは目をそらしたが、
正反対のどちらの意見も、可能なものは読んだ。

また、
被災地に希望や勇気や元気を届けたいという
前向きなエネルギーいっぱいの方の言葉。
そういう言葉は今傷つくだけだし、
今は聞きたくないという、
被災地からの率直な言葉。

励ましていいのかいけないのか?
物は送っていいのかいけないのか?

いろいろな背景をもった、
いろいろな人からの
いろいろな言葉を読むと、
何かを発するのが、
一時は、とても怖くなった。

「被災地でがんばってる方々」と書き、
いや、まてまてそう書くと、
がんばることの方がいいってメッセージを
含んでしまわないか・・・と考え、
「被災者の方々」と書き直したり、
絵本を送る時に、
「希望を東北に」と段ボールに書いてしまったけど、
自分の手を離れた直後から、
「絶望のどん底にいる方に、希望をなんて
書いてしまった自分」を責めて、
しかし、そうつぶいやいた私に励ましの返信を
くれた友人たちに感謝したり。


何かを発することが怖くなったけれど、
でも、私は、それでも発した方がいいって、
今思ってる。

「自分のがんばる姿を見て、
 東北の方に何かを感じてほしい」
と、それがたとえ葛藤を含まず言ったとしても、
言うのもありなんじゃないかと思う。
そう言ったあと、
他の誰より多分自分が最初に、寒々っとすると思う。
だとしたら、そこから考えたらいいと思う。


どんなに想像力を働かせ、
どれだけ共感力を使っても、
被災地で
被災された方や、
彼らを支援している方々と、
同じ気持ちになることはできない。
それでも想像し、それでも考え続けるしかないのは
もちろんだけど、
そうしたとしても、どこまでいっても、
同じにはなれないと思う。

私は私の立場で、
今考えうることを考え、
そして表現していくしかないのだ。


だまるのではなく、
発して、
そして、
他者の言葉を受け止める。
他者の言葉に応え、
自分の考えを伝える。

伝え、
応える。


錯綜するのは当たり前ではないか。
そこに摩擦が生じるのも、
みんな生身の人間だもの、
あると思う。

その上に立って、
自分の考えや感情を、
相手も尊重しながら伝え、
応え、
言い、
聴いていきたいと、
今のところだけど、
思ってる。








author : tanizawa-k
| 日常 | comments(2) |


谷澤 久美子
counselor