2011年03月の記事 | 今のところではありますが…
ハッパかけてくれた父。

【2011.03.31 Thursday 12:19
苦しい夢でも見ていたのか、
夜中に目が覚めた時、汗をかいていた。

気になることがあって、
頭が冴えてきたので、
もう眠れないだろうと起きて、
時間をみると、2時48分だった。

で、あれ?と思い出す。
確か昨年もこんなことが。

父は14年前の3月31日に亡くなったのだが、
昨年も30日から31日にかけて、
3時頃に目が覚めたこと、思い出した。

何か、これは合図なのかも。

父が「俺のことを思い出せ」って言っているのか。
あるいは、最近、
私が本来大切にしなくてはならない何かを、
あやふやにしてしまったいて、
そのことを父が思い出させようとしてくれているのか。

もやもやっとしたものを言葉にしたので、
答えは出ないけど、
ちょっとだけ安心できて、寝た。


そしてお墓参りに行く。

車で40分のところ。
私の生まれ育った町にある。
そこに行く間の道は、
清水港に沿って伸びる道を選ぶ。

毎年のこの日のお墓参りは
父のことを考えながらのドライブだけど、
今年は地震や津波のことを考えずにはいられない。

清水港を取り囲むように並ぶ大きなオイルの施設。
海と駅との間はそんなに距離がある訳ではない。
大丈夫かなあ?
そして、あまりにも低い防波堤。
私の走っているこの道路など、
あれだけの津波に襲われたら、
どうなってしまうのか。

幼い時から東海地震については、
さんざん聴かされてきた。
小学校では防災頭巾を座布団がわりにしていて、
いつでもかぶれるようにしていた。
いつ来るのかと、
どこかでなんとなくは考えていて、
それなのに、阪神淡路にきて、
そして、この東日本大地震だ。
関西と東関東、東北が身代わりになってくれた訳ではないが、
でも、なんだか申し訳なくなる。

そんな気持ちだったから、
お墓のある、私の生まれ育った町につくと、
あらゆるものに、ありがたさが募る。

富士川駅は、私が中学高校と電車通学をするのに、
6年間毎朝夕、お世話になった駅だ。
かわいがってくれた美容院や床屋さんの
おじさん、おばさん。
近所の方々。
お転婆全盛期だった小学校。
夫が交際を申し込んでくれた
ハイキングコースの入り口。
夜中に妹と抜け出して見に行った、
かっこい男の子が住んでいた家。
亡くなってしまった同級生の生家、酒屋さん。



お墓参りを終えて、
近くにあるサービスエリアの、
富士山が真正面に見える
スターバックスでお茶しながら、
目覚めた訳について、
なんとなくピンときてしまった。

父が私に言いたいこと。


父は、
ほんとに、
今のおまえでいいのかと
言っているように思った。

父が作ってきたものを、
父の死と共に全部チャラにしてしまって、
それで手に入れてきた家族や仕事。
それらは
たくさんの方の理解や犠牲や我慢のおかげで得たことだ。

そうやって得てきたことに対して、
久美子、お前は、本当に誠実か?って、
父は問うているように思う。

しかも、
今のところ大きな災害にも見舞われていない
地域で活動している。
もっともっと力を発揮できるんじゃないのか?
本当に精一杯でやっているのか?




30日は離任式の日だった。
以前の私なら、
転任される先生お一人お一人に
その先生から教えていただいたこと、
与えていただいた影響について
感謝の手紙を書いてお渡ししていた。

退職される先生にはご挨拶に伺い、
直接お礼を申し上げた。

今の私は恥ずかしいが
・・・してない。


家族に対しては・・・。

夫の夢や希望を知りながら、
積極的にそれを叶える手伝いをしているとは、
とっても言えない。
いつも自分の仕事を優先している。

義理の両親に対しても、
気がついたやってあげた方がいいことの、
60%くらいしかやってないと思う。
出し惜しみしてる。


やるべきことはしている。
やってはいけないことはしてないつもりだ。
でも、やった方がいいことに関して、
以前、つまり、家族や仕事を手にいれた直後は
「やる」選択をすることが多かったが、
今はいろいろな言い訳をして「やらない」選択を
することが多い。

昨日Twitterで書いたばかり。
「仕事上、やるべき事はやり、
 やってはいけない事はやらない。
 難しいのがやった方がいい事。
 やるかやらないかの判断は、
 『信頼感』におく。
 『現状でも信頼は崩れない』と思えばしないし、
 『一層信頼関係が深まる』と考えればする。
 しかし、ひと手間を惜しんじゃう時があるんだなあ。」

あ〜情けない。
「現状でも信頼は崩れない」とは、
なんて、横柄で独りよがりの考え方だ。

その上さらに、
ひと手間惜しんでばかりの最近の私に、
ハッパかけてくれたのかもしれないな、父は。


スタバでお茶し始めた時は
雲に隠れていた富士山。
しかし、だんだんとその姿を表し始めた。

よし、
この気持ちはずるずる引きずらない。
でも、忘れもしない。
昨日までは、時々手抜きなとこもあった。
それも私。
でも、ここからは、
「やる」選択をふやしていく。
やった方がいいことは、
仕事の場でもプライベートの場でも、
やる選択をするんだ。


父が
私に与えてくれたチャンスをいかさないと。












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出来事は忘れても感情は残る。

【2011.03.29 Tuesday 18:17
何週か前の「ためして、ガッテン」で
認知症について放送していた。

その中で、
アルツハイマー病の特徴のひとつとして、
「事実を記憶する脳の能力は衰えていくけれど、
 感情を記憶する能力は残る」
ということがあった。

私は、その前日、
まさに、それかあ!と思うような出来事に遭遇していた。



義母が夜二階にあがってきて、
「くみちゃん。ちょっといい?」と言う。

「何ですか。いいですよ」と私。

義母「私って、そんなにくさいの?」

私「ええ?臭くないですよ」

義母「それならいいけど、
   あなたが毎日、お風呂入りますかって
   きくから、そんなに臭いのかしらって
   心配になってしまのよ。
   私たち年取ると、そんなに動かないから、
   汗もかかないし、
   若い時と違って、ちょっとお風呂に入らなくても
   臭わないのよ。
   私たちくらいの人はみんな、そう言ってるわよ。
   なのに、あなたが、お風呂どうしますかって
   訊くから、本当に心配になるのよ」

そこに夫が入り込む。

夫「あのさ、年取ったら、若い頃より
  清潔にしといた方がいいよ」

義母「清潔にしてるわよ。
   お父さんにも時々、私、臭い?ってきいて、
   臭くないっていうわよ。
   とにかく、そういうふうに言われると、
   臭いんじゃないかって、心配になってしまうの」

私「そうだったんだ。お義母さん、それはごめんね。
  私、最近、着替えを揃えることしているから、
  臭いとかそういうことじゃなくて、
  お風呂入るなら脱衣所に着替えをおいとくし、
  そうでないならベットの方においとこうと思って、
  それで訊いてるだけだよ」

義母「そうだったのね。
   でも、とにかく、
   心配になってしまうから、
   いいから」

私「じゃあ、お風呂、どうするか、訊かない方が
  いいってこと?
  着替えの支度もしない方がいいってこと?」

義母「そうなの。お願いします」
と階段を下りていく。

ちょっと、トゲのある会話で、
私はドキドキした。


義母はそれまで、何回かあった「匂い」に
ついての失敗の出来事や、
私が着替えを整えているという出来事は
すっかり忘れ、
毎日の私の言葉掛けによる「心配」は
積み重なっていたのだ。
その時、義母の心の中は、
なんか、いや〜なものが浮かんで、
それが貯まってきてしまって、
それで思い切ってそのことを
私に言ったんだと思う。

なんてことをしてしまっていたんだろうと思った。
つまり、
私が自分なりにやっていたことは、
義母を傷つけていたんだと知って、

さらに翌日の放送で、
そういうことだったのかと知り、
義母はまだまだアルツハイマーの軽度のものだけど、
配慮が足りなかったなあと思った。


でも、このことはすごくいい経験になった。

何日かして
義母が自分の姉のところに
泊まりにいくことがあった。
その時、思わず私は
「さみしいから早く帰ってきてね」
と言うと、
義母の顔がぱあ〜っと明るくなって、
「嬉しいこと言ってくれるわね」って
言ってくれたんだ。

それで、
そういうことか!
こんなふうに、義母の心の中に、
嬉しいとか、楽しいとか、幸せとか、
そういう想いを積み重ねていって
もらえばいいんだと思った。
心配とか辛いとか、そういう想いではなく。


そして、このことは、
社会の中でも生かすことができる。


というのは、
感情や感覚に流されたくはないが、
しかし、ある程度感情が流れを作ることは
事実としてあると思う。
「感情マーケティング」なんて本もあり、
よいよい物やサービスを作るのはもちろん、
なんとなく買いたくなる「気分」の醸成のために、
消費行動の研究は重ねられている。

今、消費行動がなんとなくしぼんでいるのも、
被災者の方々に対する罪悪感や申し訳ない想いなど、
感情が動いているからだと思う。


つまり、
人の能力の中でも、
「感じる力」ってのは、
年を重ねても残るものだし、
社会生活の中での大きな意味を持つものと
考えた方がいいと思う。


「これやっといて」と上司から仕事を頼まれて、
「えっ?今日ですか。今日は無理です」(A)
と答えた時に、上司の中に残る感情。
「今日ですか?今日はなかなか難しいのですが、
 明日中でしたら可能です。
 それでは間に合うならやらせてください」(B)
と答えた場合に上司に残る感情。

「その日やらない」という事実は同じ。
しかし、何かの時に
部下の顔を思い出した時、
感覚的に「いい感じ」って残っているのは、
きっと(B)の方ではないだろうか?

そして、そういう小さい積み重ねは、
新プロジェクト立ち上げのとき、
(B)をひっぱりたい!なんてことに
繋がっていくのではないだろうか?




実は上記の義母との会話の後、
義母が階下におりてから、
私は深くためいきをついた。

すると、夫が、私を救う一言を。

「悪いね。あなたにイヤな思いさせて」

この絶妙の一言。
私の心には温かいものが流れた。

と、おかしなもので、
事実としては、
とげとげしい感じの時間だったのだが、
なんか、
それほど悪くないものが私の中には残ったのだ。

やるなあ、夫。





で、
被災地の方々の「感情」を思う。

恐怖や不安やあせりや、
心許なさややるせなさやもどかしさや、
おびえや落胆や怒りや憤慨や、
悲しみや苦しみや辛さ、
疲れと憂うつと絶望と、
どれだけのネガティブな「感情」を
この20日の間に味わったかと思う。
短い期間に、からだはもちろん、
どれだけ心を使われたかと思う。

避難場所で活動された医者や看護師さんや、
ボランティアの方々の「感情」も。
自衛隊や警察や消防の方々、
原発の中で働いている
作業員の方々の「感情」のことも思う。

そのことを考えて、たまらなくなる。

少しずつ、
希望や楽しさやリラックスや
安心や嬉しさなどを、
感じてもらえるような機会があるといいなあ
と思う。
大切な方や大切な物を失ってしまった方には、
それは無理な話だから、
ゆっくりその方その方のペースで、
それでも、ちょっとずつ何かいい「感じ」が
あると本当にいいなあと思う。
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現実逃避。

【2011.03.28 Monday 12:26
桐野 夏生
文藝春秋
¥ 1,650
(2011-02-15)

桐野 夏生
文藝春秋
¥ 1,650
(2011-02-15)

17日間の間に、
目が覚めたら、
地震や津波や原発のことが夢だった、
なんてならないかなあと何度か思った。

こんなこと書くのが
めちゃ情けないけど、
被災地の避難所の今の様子も、
あの時の映像も、
各テレビ局が作った原発の模型も、
東電の記者会見も、
苦しい状況を見ているのが、
苦しい時があるんだと思う。

だったら、なんとかするために
「動け!自分。。。」。

すると、たくさんの、
動かない言い訳が浮かんでくる。

計画停電さえない地域に住んでいているのに、
その私が
めちゃくちゃ甘えていると思うが、
先週は現実逃避してしまった時間がある。

映画「愛する人」を見た。
現実的には母になったがその後すぐに養子に出し、
母にならなかったことを後悔している人、
母になりたいけど、なれない人。
キャリアより母になることを選んだ人。
いろいろな形の「母と娘」を描いた物語。
ラストは、せっかくいろいろ判明したのに、
そうなるんだ・・・、
というせつないもの。
静岡では小さな映画館で上映されていて、
その日のその回は年配の女性が多く、
ここでも、共感の力を思いっきり使っていると
思われる人、多数。

土日は
桐野夏生さんの小説に逃げ込んだ。
ずぶっとはまって抜け出せなくなって、
上下合わせて850ページの
「ポリティコン」を一気に読んだ。

主人公、東一のあまりにも身勝手な考え方に、
圧倒されちゃって、あんぐり口をあけたまま
読み終わった感じだ。

桐野さんはこれまで数々の自分本位な人を
書いてきたけれど、
東一が抜きん出ていると思う。
彼はいかなる時でも、
自分側から見た事実のみに基づいて考える。
相手の立場にたったり、
第三者の立場に、
決して立ったりしない。
これだけ徹底してれば楽に生きられそうと
思ってしまうが、そんなことはない。
自分の側から見た事実だけからの
判断で生きていると、
主体的な人生は送れない!
という小説だったようにさえ思う。

あまりにも身勝手であるってことは、
自分の存在、
自分の考え、
自分の感情のみが
大切であるってことだ。
ってことは、
誰かと考えの交わる点を探したり、
相手の気持ちを推し量るなんてことは
しない。
その先にあるのは孤独。

しかし、自分中心であるってことは、
自分が孤独であることもいやだ。
周りに認めてもらいたいし、愛されたい。
だからって、
そのために自分を押さえることはしたくない。

この葛藤にはまっていたら、
自分本位ってところを変えるしかないが、
東一には、とうとうそれができない。



で、桐野さんの言葉の使い方は、
私はものすごく好きで、
以下の言葉については、いつかきっと
もっともっと考えたくなると思うので、
抜き書きしておこうと思う。

「感情がある程度満足すれば、
 人は忘れてくれる」

「(他人の)不始末を、
 自分だけが引受けているって
 気持ちが常にあるのよ。
 だからさ、精神的優位に立っているし、
 自然と人のあら探しを
 しちゃっているんだと思うよ」

「それは、関係を断つのではなく、
 心の中で何とも思わなくなる訓練を
 することだった」

「何か、欠乏した顔しているね」

 自分がなぜ憤慨しているのが、
 すぐには理由がわからなかった。
 が、ざらつく違和感がある。

すごく気になる言葉だけど、
先が気になって読み進めることに
夢中だったから、
あらためて考えてみたいな。



それにしても
こういう時期に、
仕事のためではなく、
自分の楽しみのために本を読んだり、
映画をみたりするのは、
やっていいんだろうかと思ってしまう。
良心の呵責がある。

しかも現実逃避なんて、
目の前にご飯もあり、
電気も水もトイレットペーパーもあり、
空気の中に危険な値の放射能がないと
分かっているからこそ、
できることのように思う。

だとしても、
避難所の方々にも、
一瞬でも地震や津波や原発のことが
忘れられる時間があると、
きっと少し楽になるのに・・・と思う。


 
な訳で、私は
3・11以後初めて
週末をゆっくり自宅で過ごした。
義母の布団をほし、
おでんをたくさん煮て両親にふるまい、
震災で孤児になってお子さんを養育させて
もらう方法について調べたりした。

そして、現実逃避もしてみた。

そうやって、なんとかかんとか、
自分をよっこらしょってして、
今日から仕事を再スタートできたところです。


まだまだ、通常とはいきません。







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許容していた。

【2011.03.27 Sunday 14:06
毎日新聞の3月26日付け朝刊の「時代の風」は
東日本大震災についてだった。
精神科医の斎藤環さんと、
東大教授で「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」の著者
加藤陽子さんで、
それぞれの立場での
今回の震災についての意見を執筆している。

特に加藤陽子さんの原発についての文章には、
本当に考えさせられた。
(ちょっと長いけど、前略/後略して引用)

「地震と津波の直後には、東京電力福島第1原発の
 複数の炉が制御不能となった。テレビは、首相官邸、
 原子力安全・保安院、東電等による記者会見の模様
 や現場の状況を臨戦態勢で報じていた。映像を見な
 がら私の頭に浮かんだのは、奇妙にも次に引く大岡
 昇平の言葉だった。

 『(昭和)十九年に積み出された時、どうせ殺され
 る命なら、どうして戦争をやめさせることにそれを
 かけられなかったかという反省が頭をかすめた、
 (中略)この軍隊を自分が許容しているんだから、
 その前提に立っていうのでなければならない』

 『俘虜記』『レイテ戦記』あるいは『花影』で知ら
 れた大岡が、自らの戦争体験を語った『戦争』(岩
 波現代文庫)の一節である。1944年7月、大岡
 は第14軍の補充要員(暗号手)として門司港から
 フィリピンへ向けて出発する。

 輸送船に乗せられた時、自分は死ぬという明白な自
 覚が大岡を貫いた。これまで自分は、軍部のやり方
 を冷眼視しつつ、戦争に関する知識を蓄積すること
 で自ら慰めてきたが、それらは、死を前にした時、
 何の役にもたたないとわかった。自ら戦争を防ぐと
 いう行動に出なければならなかったのにもかかわら
 ず、自分はそれをしなかった、こう大岡は静かに考
 える。

 よって、戦争や軍隊について自分が書く時には、自
 分がそれらを『許容してい』たという、率直な感慨
 を前提として書かねばならない、と大岡は理解する。
 その成果が『レイテ戦記』にほかならない。この大
 岡の自戒は、同時代の歴史を『引き受ける』感覚、
 軍部の暴走を許容したのは、自分であり国民それ
 自体なのだという洞察だろう。

 以上の文章の、戦争や軍部という部分を、原子力発
 電という言葉に読み替えていただければ、私の言わ
 んとすることがご理解いただけるだろう。

 原発を地球温暖化対策の切り札とする考えは、説得
 的に響いた。また、鉄道等と共に原発は、パッケー
 ジ型インフラの海外展開戦略の柱であり、政府の策
 定にかかる新成長戦略の一環でもあった。生活面で
 も『オール電化』は、火事とは無縁の安全なものと
 して語られていた。これらの事実を忘れてはならな
 い。私は『許容していた』。

 敗戦の総括については自力では行えなかった日本。
 ならば、せめて今回の事故について、同じ過ちを繰
 りかえしたくはない。政府に求めたいのは、事故発
 生直後からの記録を完全な形で残し、その一次史料
 を、第三者からなる外部の調査委員会に委ねてほし
 いということだ。」

私も、中部電力に浜岡原発があることを知っていながら、
「許容してい」た。
そして、電力に頼る生活に浸っていた。

今日のTwitterで江川紹子さんは、違う視点で原発に
ついて自らのこれまでを振り返っている。

「私の反省。原発問題は、長らく政治的色彩の強い
 課題だった。推進派は政府・財界寄り、反対派は
 反政府。初めから結論が決まっている二元論的
 論争に見え腰が引けた。本当は、今ある原発の
 安全性に問題はないか、どうすれば問題を改善
 できるのか、という視点があった。私もまた、
 二元論の罠にはまっていた」

これも、本当にそうで、
議論が、
賛成と反対というか、
どちらが正しいか悪いかという悪者探しのように
なってしまって、
そこにある本当の問題に向かって
解決のための話し合いにもっていかなかったのは、
ただただ、それらを見ていて、あいかわらず
原発を許容していた私の姿勢なんだ。


原子力発電の推進は、
アメリカから「原発の平和利用」という
テーマをもって入ってきたらしいのだが、
その過程をNHKが何年か前に番組にしていた。
「消される前に見て!」というTwitterに
背中を押されてみた。

水爆実験で、
焼津の第五福竜丸が放射能汚染をされ、
その後、日本では実験への反対運動がおき、
今では考えられないくらいのデモが起きていた
ことを知った。

でも、それでも、
日本は原子力を選んだ。

そのことをどうやって忘れてしまったのか、
なかったことにできたのか、
番組の中では
アメリカが日本のマスコミを誘導したように
描かれていたが、
もしそれが本当だとしたら、
こんなことがあったのに、
私たちはまた、
「やはり原子力が必要だ」という利権がかかった
大きな力が動いたときに、
なかったことにしてしまうかもしれないんだ。

いつか日常が戻ってきたとき、
大きな戦略のもとで動く何かによって、
このことを忘れてしまうかもしれない。

これほど嘆き悲しみ、
無力を恥じ、
罪悪感に身悶えしたのに。


何を言いたいかと言うと、
「自分は忘れるかも」ということや、
「便利、快適に引かれるかも」ということを、
覚えておかないといけないってことだ。

私は許容してしまってきたし、
議論にかかわることを避けてきたことも、
ちゃんと覚えておかなくちゃだ。


3月27日付け毎日新聞の朝刊には
「東日本大震災に対する政府の体制」という図が
掲載されていた。

菅首相総合指揮のもと、
大きく3つに分かれている。
「被災者支援」、これは重要だし、
 早くなんとかしてほしいと思う。
「計画節電・原発など」は、
 今現在のエネルギーに対しての
 対応だろう。
「原発事故対策」は今起こっている
 原発事故から派生している
 水や野菜の汚染などを含む、
 様々なことへの対応を
 していると思う。

ここに復興のための
グランドデザイン作り的な室がないような
ことが残念だが、
記事によると
復興を視野にいれた「東日本復興プラン」などが
馬淵さんから提案されているというから、
当然、そこにはこれからのエネルギーについての
提案も含まれているんだろうと思う。

そのことに期待したい。

被災者の物理的精神的ケアを優先させながらも、
復興後の日本のあるべき姿を、
対話によって形にしていく過程に、
私はちゃんと注目していきたいと思う。

そして、そのどの時も、
「忘れちゃったり、なかったことにしてしまえたり、
時には長いものに巻かれちゃうかもしれない」のが、
私だってことを肝に銘じておかないと!と思う。







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自分を好きになれないママ達へ。

【2011.03.25 Friday 10:16
講演や子育て講座などで、
子育ての目標を支えるものについて
お話することがある。

子育ての目標を
自立にむかって生きていく子、
共生を受け入れながら生きていく子、
とするならば、
自立のために必要な力は
耐性(努力する力と我慢する力)だし、
共生のために必要な力は
社会性である、
ってなことを。

で耐性や社会性を育むためには、
基礎体力がいるってことを話す。

それは自己肯定感だと。

すると、保護者の感想の中に、
「子どもの自己肯定感を育みたいと
 思っているけど、自分にもない」
というようなことを書いてきてくれる方が、
よく、本当によく、ある。

 自分が自分を肯定できないから、
 子どもが失敗すると、
 すぐに、周りの反応を見る。
 そして、違和感があると、
 自分の子育てを批判されてるように
 感じてしまう。
 なので、なんとか失敗させまいと思って、
 常に先回りしてしまうとか、

 自分の思い通りの反応が
 子どもから返ってこないと、
 ひどく怒ってしまって、
 その後、落ち込む。
 子育て書には「褒めて育てよ」と書いてあるが、
 どこを褒めていいかわからない。
 こんなに駄目な自分を、
 自分で認められない。その自分が子どもに、
 自己肯定感を育んであげられるとは
 思えないとか。

私は、人間は、
いくつからでも、
どういう状態からでも、
回復していくことができると思っているので、
もし、それを相談してくれたら、
「さっきまでの自分のことを、
 自分で認められなかったんだよね。
 これから、一緒に考えていこう」
と言ったりする。

なんてたって人間は常に変化してるのだ。
新陳代謝して。

そして、こんなふうに、そのことに気がついて、
言葉になった時点で、
すでにスタートをきっていると思う。
自覚的になるから。

でも、じゃあ、スタートからしばらく走った後は、
どうしたらいい?

実は、
子どもにしてあげたいコミュニケーションの方法を、
自分にもしてあげてほしいと、私は思う。

なので、講演や子育て講座に参加してくれた
ことがある方は、
ぜひ、その時のこと思い出してみてほしいんだ。


子どもにしてあげてほしいコミュニケーションは、
①話を聴いてあげる
②気持ちは認める、行動には抑制
③あるもの探し


これを自分にもしてあげるってことは・・・


①誰か安心できる人に、
 話を聴いてもらうとよいと思う。
 いいママでいなくても大丈夫な人の前で、
 思い切り話せるといいと思う。
 話すことは、自分の中の課題を明確にさせるし、
 話すだれですっきりすることもある。
 自己肯定感を育むためには、
 自分で自分を肯定するような行動をすることが大切。
 誰かにゆっくり話をきいてもらう
 という自分を大切にする行動ができたこと自体、
 すばらしい。

②誰かに話を聴いてもらう時間がない時は、
 自分が自分の話を聴いてあげよう。
 その時注意したいのは、気持ちに関しては、
 どんな気持ちがわいてきても
 否定しないで聴くってこと。
 もっといえば、自分の気持ちに、
 気持ちの名称をつけていくような感じで。
 たとえば、
 「公園でママ友と挨拶したけど、返してくれなかった。
  あ=なんかいやな気分。悲しかったな」
 ってな具合に、出来事に対する感情「悲しみ」を
 言葉にしておく。
 「お義母さんがすぐ子どもの役割をやってしまう。 
  今日も夕飯の片付けを、子どもがテレビ見てる
  からって、やってしまった。
  もう、くやしくて腹立つ」
 だとすると、「くやしくて腹が立つ」という感情を、
 まずは自分で自分自身に、「そう感じていたんだね」
 と認めてあげるのだ。
 「こんな小さいことで」とか
 「お義母さんだってよかれと思ってるのに」とか、
 頭でいろいろ考えて、
 湧いてきた感情をなかったことにしなくて、
 よし!
 その後、自分の行動に注目。
 「でも、挨拶した自分はよし」とか、
 「とはいえ、お義母さんにキレなかった。
  やった!」とか。

③あるもの探しは、誰かや何かや、社会と比べないで、
 自分が普通にやっていくことを、自分で認める。
 特に褒めなくていい。
 今日も、朝5時半に起きた。
 犬の散歩をした。メールの返事を書き、
 朝食の支度をした。
 ってな感じでOK。
 特に特別な何かをしたのでなくていい。
 隣のママ友はケーキを手づくり、私はしないから
 駄目ではなくて、
 「隣のママ友はケーキを焼く」それはおいといて、
 「絵本を読んだ」でOK.
  自分の行動に注目して、それを自分で淡々と、
 「義母の分の洗濯をした」とか、
 「回覧板を隣にまわした」とか。
 どうか、当たり前!にしないでほしい。
 当たり前のことを当たり前に
 やることは、実はすごい。


で、注意事項は、
常にこんなことばかりしてなくていい。
息抜き、ガス抜きは必要なこと。
そんなくらいの感じで
ぼちぼちやっていけるといいかなあ。


これにプラスして、
「(損得抜きで)誰かに何かをしてあげる」ってことを、
時々すると、
そんなことをしている自分を、
自分で認められるようになる確率は高いと思うな。


もちろん、もっともっといろいろな方法があると
思う。
本でも、ネットの情報でも、
自分にあう方法をみつけて、
スタートしてみるといいんじゃないかな。







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「○のない大人 ×だらけの子ども」

【2011.03.24 Thursday 15:49
「感じない子ども こころを扱えない大人」の
袰岩奈々さんの新刊。
すごく楽しみにしていたので、今日半日で読んだ。

コミュニケーション力=人とつながる力の
基になるのは自己肯定感という著者。

著者の中での
「自分の中のOKをちょうどよく認めることができれば、
 自分の内側で起こっている感情や考えにじっくりと
 目を向ける余裕ができるようになる。
 そしてそれができれば
 自分の感情や考えをまわりに伝え、
 自分とは違う何かを受け入れる許容力が
 持てるようになる」
という仮説を、
彼女のカウンセラーとしての活動や、
子どもたちへのコミュニケーションの授業、
教師への研修、
一般の人へのアサーショントレーニングでの
様々な事例を通して、
理論付けていく。

著者と私の活動の対象と種類は重なっている部分が
多いので、めちゃくちゃ共感しながら、
さらに、「自己表現と自己信頼」の関係の中で、
多少もやもやしていたことも
言葉にしてもらっている爽快感を持ちながら
読んだ。

中でおもしろかったのが、
他責、つまり
「悪いのは自分ではない。自分以外の誰かだ」
という考え方をもつ方々の主張の裏にあるもの。

彼らは一見、自分に自信があるように思える。
しかし逆だと著者は2つの理由をあげていっている。

①自分に自信がないからこそ、
 どんな小さな批判、指摘にも全人格を否定された
 ように感じてしまい、反論せずにはいられない。
 些細なことでも自分に×がつくので、それを恐れる
 あまり虚勢を張って自分は悪くない周りが悪い
 とする。
②自分にとって何か○で何が×かという価値観
 がないので、何かあるたびに自分の中の基準
 が揺らぐため、なおさら攻撃的になって自分
 を守る傾向が表れる。

自分のことを駄目だと思う人も、
二種類あって、
心の中で「自分が悪い」と思っている人と、
「自分は悪くない。誰かが悪い」と
思っている人がいて、
結局は「誰かが悪いという結論」に
いきやすいのかもしれない。

著者は自分への○の付け方のヒントを書いてくれてある。
でもその前に、自分に×をつけがちな人は準備が必要だと
指摘している。
①自分の中で自分を批判をする声に気づいてみる
②その批判する声が、本当に批判に値するか
 見直してみる
③それらを客観的にみる目をもつ。

実はこれは、アサーティブトレーニングの応用編
「批判に対処する」でやることだ。
トレーニングでは、
他者からの批判の言葉を思い出し、
それらが本当に正当な批判なのかそれとも
決めつけやレッテルはりなどの不当な批判
なのかの見分け方を知る。

私には、これがめっちゃくちゃよかった。
もちろん他者からの批判の言葉の受け止め方にも
役立ったが、
もっと役立ったのは、自分が自分自身にむける
批判の言葉に対してだった。

それまでの私は、
自分のことでひとつ失敗や、いやな出来事があると、
自分の全部を否定しがちなところがあった。
たとえば、スクールカウンセラーとしての活動の中で、
子どもの名前を間違えてしまったりしたとしよう。

以前だったら、
「そんなんだったら、もうスク−ルカウンセラーでいる
 価値なし、やめたほうがいい」
というところまで自分を否定しがちだった。

でも、アサーティブトレーニングで
批判の対処法を学んでからは、
「確かに名前を間違えたことは駄目だ。
 それはあまりに注意不足だった。
 でもだからって、カウンセラーとしての
 自分を全部否定する筋合いはない」
と事実とレッテルはりを分けて考えられるように
なったのだ。

すごく楽になった。


もうひとつ、感情についての記述が興味深い。
「感情・情動を表すemotionという言葉は
 ラテン語で『外へ』という動作を表す『e』
 が頭についている。『motion』は『動く』
 という意味だ。だから感情という言葉は
 『内側から(知らず知らずのうちに外に
 出て行くもの』という意味をもつ」
これがめっちゃおもろしろかった。

今の日本国民かなり多くの人が、
共感疲労を起こしていると思う。
「疲れた」「しんどい」「辛い」という
知らず知らずに発信しているemotionに
自覚的になることが大事なのだ。




私もコミュニケ−ション能力と、
自己肯定感は切っても切れない関係だと思う。
そのどちらか一つにむけて、
自分の力を育んでいく努力をした途端、
二つの力を育むスタートを切ったことになると思う。

著者はそれを、
「自分に○をつけるところからでもいいし、
 感情に気づくことからスタートしてもいい。
 言いたいことがうまく伝わった経験がきっかけに
 なり、自分に○が付けられ」ることもあり、
どこから始めてもいいし、
「このゆるやかに回転する環に乗れば、
 自分の心を無理にポジティブな方向に
 向けなくても、自分もそう悪くない、
 という○のついた状態で
 いられるようになるだろう」
と書いている。

まったく同じ考え。



方法論も同じで、気持ちいい。











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やる気がでない。

【2011.03.23 Wednesday 17:57
今日はオフ。
本当にゆっくりした。

ゆっくりすると、頭がさえてきて、
頭がさえてくると、
今の心配事が言語化できた。

私が今心配しているのは、
自分のことを駄目と思ってしまっている
思春期の子どもたちのこと。

パラリンピックの時に、
エネルギーあふれる選手たちを見て、
返って落ち込む障がいを持っている方が
増えることもあるとのことだし、
我が家の義母も、
同じ位の年齢の女性が張り切っている様子を
伝えるテレビや記事は、
「なんであなたはできないの!」と言われて
いるように感じて辛いと言っていた。

今同じようなことが子どもたちに起きていないか?

たとえば何かに悩んでいて、
でもそれが何なのかわからなくて、
よくわからないものが頭の中を支配していて、
行動を起こせないでいる子どもたち。
終業式まで学校に行くことができなかった・・・
という子どもたちの中には、
自分を責めている子がいるのではないか?
テレビから流れてくる
避難所でがんばっている自分と同じくらいの子どもたちを見た時、
もしかしたら、
被災していないし、停電もないのに、動けない自分を
責めている子は、いないだろうか?

やる気がでない自分、
しかも、家族にもイライラをぶつけてしまって、
そのことで余計落ち込んで、
でも、
テレビの中では、
キラキラ輝くがんばる人たちがいる。
避難所で、自らも被災したのに、
ボランティア活動をしている子どもが、
笑顔で活動している様子を見たりしたら、
相当痛い思いをしているんじゃないかなあ。

昨日のブログに引き続き、
香山リカさんのツイートを紹介したい。

「こんな状況下でも、
 なかなかやる気になれない人もいれば、
 身近なことでイライラしてる人もいるはず。
 でも、そのほうが自然です。
 日本中の人のやる気が沸騰しちゃうのは、
 反動がかえって怖い。
 相変わらずの人がいたら、
 『オレがこの国のバランス取ってるんだなー』
 と思ってみるのもよし」

私は全くその通りだなあと思って読んだし、
このことが、
自分を責めている子どものところに届くと
いいなと思う。
それも、本当にさりげなく届くといい。

だって、そういう時は、
そういうことで自分を責めていること自体を、
隠しておきたいだろうから、
身近な人から大々的に「いいんだよ」
とか言われちゃったら余計混乱しそうだよなあ。

ACのメッセージも、
心が健康な時には素直に入ってくるだろうけど、
そうではない時は、
「そんなこと言われたってできない自分」を
見せつけられる時間になってしまっているのかも。



ま、つまりは、
どんな表れも正常なあらわれ。

自分のことを駄目だなと思ってはいけないではなく、
駄目だなって思ってしまう時もあるけど、
ま、駄目な自分で、とりあえず、
ご飯は食べようとか、
目の前のやった方がいいことをすることがいいと思う。

そして、香山リカさんの考えを拝借して、
自分って駄目なヤツだけど、
ソレだからこそ日本のバランスをとってるとか、
日本の多様化を支えているとか、
一時的にそんなふうに考えておくと、
ちょっとは楽かな。

でね、力が出せそうな時に、
出せる力をだせばいいよ。

私はそう思うなあ。

心配しながら、
今日は走ってこよう。






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おっちょこちょいプラス

【2011.03.22 Tuesday 15:43
この日月は東京に出張。
講座の講師を務めた。

とにかく、今自分にできることは、
募金と救援物資を行政窓口まで持っていくことだし、
それ以外には経済活動をすることだと思って、
そういう使命感をもってやっているつもりだ。

二週連続で講師をしたのは、
アサーティブトレーニング応用編。
思わぬ批判の言葉にいかに対処するのか、
心の中に湧いてくる怒りという感情を
どう扱い、どう表現すればいいのか、
価値観などが違ったり、
何度話してもわかってもらえなかったりという、
難しい場面での話し合いには、
どう取り組めばいいのか、
そういうことを学ぶ講座。

時折ぐらぐらする地震の中で
行った。

受講生の方にとっては、
難しい感情を取り扱うし、
過去も振り返るし、
いやな出来事を思い出したりするし、
そういう時間も持ってもらうので、
私としては、
できるだけ安心の場を作ることを心がけた。
重たくならないように、
時々笑いもいれながら、
トライしている自分自身を、
受講生の皆さんが自分で認められるような、
そんな講座を作ることを意識していたんだ。

スタッフの方々の気配りも厚くて、
場は安心できる雰囲気を保つことができ、
それは皆様の表情や、あふれる言葉や、
感想に表れてた。

本当にやりがいのある仕事、充実した時間だった。

とはいえ同時に、
相当の緊張を自分に課しているかもしれない。

というか、今は通常の仕事をしていても、
どこかで地震や津波への恐怖や
これから日本はどうなっていくんだろうという不安を
抱えながら、
無意識に自分を無理矢理奮い立たせながら、
表面上では普通に生きて生活しているみんな。
みんなが緊張と共にいるかもしれないな。


という訳で、
なんだかこの10日間は、
ぼ〜っとしてしまうことが多い。
何より困ったのがケアレスミスだ。

小さいころから母親におっちょこちょいと言われ続け、
常にではないが、
自分の中の不注意性には気がついていて、
細かくメモをしておいたりしていたつもりだ。

しかし、
ここ10日、
ほんと、うっかりが多い。

講師の仕事のためにタイムスケジュールを作っていた時は、
なぜか保存をしなかったため、
もう一度やり直した。
作った文書の中に細かい漢字のミスや、
数字のミスがあった。
思ってもみない一言がポンと飛び出た、
コミュニケーションのトレーナーらしからぬ時も。

今朝は、
先方にスケジュールを調整していただいた後で、
その日に別の用事が入っていたことが分かり、
30分後くらいに、
調整し直していただく電話をした。

なんだか、こんなんじゃ困ったなあと思うところへ、
香山リカさんのツイート。

「心身が疲れてぼんやりし、
 忘れものが多くなってはいやしませんか。
 私もてれび局に行くのにメガネ忘れて、
 一度取りに戻り、また向かってるところです。」

しかもテレビは「てれび」だ。

なんか、ほっと安心だ。

仕事の現場では、
クライアントさんに、
こういうストレスが大きくかかっている時には、
物忘れが多くなったり、
ぼんやりすることもありますよ
と言っているのに、

自分に対してはそのことを忘れていた。


単なるおっちょこちょいではなく、
それプラス、
非常事態の中で、
緊張を強いる仕事をしたための表れで、
そうなることはおかしいことではなく、
むしろ、
異常時の正常な表れなんだよなあ。


自分をケアすることを忘れたらいけないよな。
今は被災された方々や、
直接被災地でボランティア活動や、
命をかけた仕事をしている方々や、
東電の管轄内で計画停電を受け入れながら、
あるいはガソリンなどの物がないことに対応しながら
生活している方々が、
めっちゃがんばっているけど、
いつか、私の出番もくる。

その時にがんばれる自分でいられるように、
ケアもするぞ。

って訳で、今日はさっきソファでひと眠りした。
すごく深く眠った。

あ〜ちょっとすっきりした。


私みたいな方が、
多分、あちこちにいると思う。
お互い、
自分をいたわりながら、
いきましょうね。




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自己信頼と自己表現。

【2011.03.19 Saturday 21:33
 今日は自己信頼と自己表現の関係について
考えていた。これら二つは密接に関係があるが、
その関係を言葉で明確にしておこうと試みていた。

自己信頼があると、
自己表現がうまくいくことが多い。
そしてそのことが、さらに自己信頼を
深める。

では、自己信頼感がないと、
自己表現できないかというと、
それはちょっと違うと思う。

そういう場合には、
自己表現のあり方について学ぶという方法がある。
方法を知って、練習して、実社会の中でトライすると、
トライした自分に、しないより、よくやっている自分!と、
思えるようになる可能性がある。
それがもしうまういけば、もっと自信になり、
そのことが自己信頼感に繋がっていく。

さらに、そうやってスキルを磨きながら、
自己信頼感そのものを直接的に築いていく方法も
ある。
自分の長所を自分でしっかりと認めたり、
自分に優しくできる方法をいくつか持っていたり、
長期的な目標を持ってそれに向かって行動を起こす。

そうやって自分を大切に、自分で扱うことは、
自己信頼感を築いていくことになる。

しかも、自己表現の方法を学ぶことそのものが、
自己信頼感を高めることにもなると思う。
なぜなら、自己表現を学ぶためには、
「今自分は何を言いたいのか」
「何を相手に伝えたいのか」
を考えることになる。
周りが何を求めているのか、
相手はどういう答えを期待しているかではなく、
自分はどう考え、どうしたくて、どういう気持ちなのか、
それを考える。
そのことそのものが、自分を大切にしている行為で、
そういう行為の積み重ねこそ、自己信頼感に繋がっていく。



逆に、
自分の短所も分かっているし、
時々失敗もしてしまう。でも、
根拠はないけど、なんとなくこの自分で
なんとかやっているけるんじゃないかという
自己信頼感をもっている人は、
コミィニケーションについて学ぶことで、
自己表現する時にはどうすればいいかの
理論と方法論がわかるから、
ますます信頼できるようになると思う。


つまり、自己信頼と自己表現の関係は、
どちらかからでも取り組んだら、
両方をめざして行動をスタートしたことになると思う。



自己信頼がないと、
自分のことが信じられないってことだから、
自分からの自分への評価も信じられないだろう。
他者からの評価に頼ってしまうことになる可能性がある。
そうなると、他者からのよくない評価を恐れて、
頼んだり、断ったりすることも難しくなるだろう。
他者に対して、自分の弱いところを自己開示して、
一歩踏み込むことが難しくなるかもしれない。

さらに、自分を信じられないと、
自分の未来、将来に対しても不安でいっぱいになってしまう。

自分を信じること、
他者を信じること、
将来を信じること、
それなしに行きていくのは、
どんなにしんどいものだろうか。

だからこそ、どこかからスタートしていくことは
意味がある。
自己信頼そのものを育てる方法があるし、
自己表現力をつけることで、
自己信頼感を育むことができる。

そして、一旦その循環に入ると、
両方が両方にいい影響を与えていく。

だからこそ、今、自分の中に
自分を信じる力が薄いと思っている人も、
大丈夫。大丈夫なんだ。
始められるところから始めればいいんだ。

何をどう始めればいいのかの、
方法はある。

アサーティブトレーニングに、それがある。

明日明後日は、
このことに背中を押してもらって
講座に立ちたいと思っている。






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「恕」他人の立場や心情を察すること

【2011.03.17 Thursday 21:38
今日は普段活動している小学校の卒業式だった。
私は小学校は4校を担当しているが、
そのうちの一校は、6年生数名とかかわっていたので、
その卒業式に列席した。

卒業式では、
子どもたちは名前を呼ばれると、
自分の夢や目標を大きな声で発表する。
今年人気だったのは、
パティシエ、サッカー選手、芸能関係、ゲームのクリエイター。
そういえば、キャビンアテンダントは一人もいなかった。時代だ。
一番おもしろかったのは、
「私はジャニーズ事務所の事務員になりたいです」
というもの。
アイドルになって嵐に会うという夢は、
彼女には大きかったのか?めっちゃおもしろいバランス感覚。

その後証書をもらう。
私がかかわっていた子どもたち全員、
立派に自分の夢や目標を発表し、
丁寧に証書を受け取っていた。

そこに至るまでの様々なシーンを思い出す。

そのうちの、ある子どもの担任の先生とは、
連携できた実感がある。
詳しくは書けないのだが、
子どもの保護者と担任と私の間で、
共通の目標をもってそれぞれができることをしたと思う。

子ども自身も「変わりたい」という願いがあって、
それに向かって本当に努力した。
ものすごい勇気を使ったと思うし、
不安とも戦ったと思う。
そして、今日、堂々と立派に証書を受け取っていた。

その担任の先生が、
ものすごく大きなプレゼントをくれた。

12センチ四方の色紙に書かれた
「恕」という書。




「恕」についての説明書きもある。

///////////////
「恕」他人の立場や心情を察すること。
中国の昔の賢人孔子という人の弟子が師に向かって、
「この一言なら一生守るべき信条に足る言葉は
ありますか?」と尋ね、答えた言葉が「恕」です。
自分がしてもらいたくないことを人にしてはいけない。
発展させて、人がしてもらいたいと思うことを
してあげる。そんな精神です。
/////////////////

今、こういう時だからこそ大切なことだ。
買いだめや、
誰かを攻撃的に非難すること、
そういうことをする人ではありたくない。

先生は、6年生を担任すると、
卒業の時、全員にこの言葉を贈るそうだ。

さらに、すごいのだ。
色紙の裏がコレ↓


私の名前谷澤久美子で文章作ってくれている。
先生は、これを私にプレゼントしてくださるために、
どんな言葉にしようか、私のことを考えながら
作ってくれたと思う。
特に「ざっくばらんに気がねなく」
ってところがめっちゃ嬉しい。
そんなふうにできていたとしたら、
それは私のスクールカウンセラーとしての
あるべき姿なんだ。

また、その文章を筆で書いてくれるのも、
大変なことだと思う。
間違っても消しゴムで消せないから、
神経使われたと思う。
その私のために使ってくれた時間ごと、
ありがたい。

放課後、
先生と話し合った相談室のこと、
立ち話をした階段の下、
朝、相談室をのぞいてくれて二言三言交わしたこと、
思い出すなあ。



先生は、
6年生を担任するといつもそうしているように、
今年の子どもたちにも、
クラスの子全員に名前の文章を贈ったのだそうだ。

「名字は、この一年で見えたその子の特徴、内面を。
 名前は、これからこうあってほしいという私の願いを」

こんなふうに、
一人一人の子どもを大切に導く人がいるってこと、
すっごい希望だと思う。

先生のこの想いに応えたいし、
来年度もがんばるぞ〜と、
底の方から燃え上がってくるものを感じる。  




被災地には、
子どもにこんな風にしたくてあげたくても、
してあげられない悔しさを感じながら
亡くなった学校の先生がいると思う。
と同時に、先生から、こんな風に
想いをカタチにしてもらう機会を
失ってしまった子どもたちも、
大勢いるんだと思う。

私たちは、
物理的には今、できる。
できるんだったら、やる。
やれることをやる。

がんばる!


author : tanizawa-k
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谷澤 久美子
counselor