2011年01月の記事 | 今のところではありますが…
変化は小さくとも。

【2011.01.30 Sunday 20:23
アサーティブの講座で
アサーティブネスの理論とスキルを伝える。
受講された方は、
考え方と方法を得て、
さらに講座で練習をし、
翌日には現実の中でそれを使おうとされる。

しかし、たとえば自転車であっても、
乗れるようになってからしばらくは、
ハンドルをぶるぶるさせたりするように、
アサーティブネスを使おうにも、
なかなかスムースにいかないものだ。

そしてそこは現実の場、
トレーナーはいない。

質問できないままに日常は過ぎ、
もしかすると
トライすることは難しいと思ってしまわれた方も、
これまでいたかもしれない。

しかし、「継続はチカラ」。

継続することこそ、
身につけていく、
多分、一番の早道なんだと思う。

では、講座に参加された方が、
現実の場で継続していくにはどうしたらいいのか?

今日バーニーとの散歩の時、
夫にこの話を相談してみた。

「どうしたらいいと思う?」

と、彼は、
「あなたはどうやって身につけたの?」
と訊いてくれた。

続けて、
「ボクはあなたは初期のころ、
 アサーティブの方法と現実の間で
 葛藤していたように思うよ。
 知っているのに今日も言えなかったとか、
 ネッチーしちゃったとか」

私は、私のことをそんなふうにちゃんと
見ていてくれたことと、
そのことを思い出させてくれたことが
嬉しかった。

そして、そうか、それでいいんだと思った。

アサーティブネスを講座などで学んでもらうと、
アサーティブなふるまい方という、
アサーティブという視点での見本を知る。

今まで、その方法は知らず、
家庭の中や社会の中で受け取ってきた方法を
使ってきたのだから、
知ったからといって急に使えるようにはならないが、
少なくとも、
違う方法を使ったとき、
心の中でチクっとして、
「これは違った」ということが分かる。

理想とは違い、
どこが違うか分かるのは、
「理想」を知ったからだ。

それは小さな変化で、
自分では変化とは思えないような変化かもしれないが、
大きな一歩だと思う。

あ〜今日はドッカンをやったと、
眠れない夜も、

あの時の私はオロロだったという、
自分への情けなさも、

やっぱ得意なネッチーを出しちゃったかという、
反省する時間も、

実はすごく大切なことなんだ。
アサーティブに生きていくための、
必要な過程なんだと思う。


アサーティブなコミュニケーションができなかったという
事実は同じであっても、
今日の自分のコミュニケーションのパターンを
自分で振り返ることができたことを、
成功に至るためのひとつの変化として捕らえることは、
大切だ。

と同時に、
その次には、
じゃあ、どうしたらよかったかを、
自分で自分にフィードバックできると、
次の変化をゲットできると思う。

講座の中で、
アサーティブなふるまいのための心の姿勢や、
土台、
またスキルを具体的に学ぶので、
それと照らし合わせて、
今日の自分のコミュニケーションは、
どこが足りなかったか、
どこに改善した方がいい点があるのか振り返る。
そして、今日の自分のふるまいは、
例えばどっかんだったけど、
アサーティブであったらどうするかを自分で
考えてみる。

この時、不正確な情報で振り返らず、
できればテキストなどを使って、
客観的、論理的に見直せたらいいんじゃないかな?



そのための第一歩、
あれ、なんか、今日だめだったなあ!と思ったら、
思えた自分に、自分でokを出していくこと、
それを成功への小さな変化と捕らえることが
スタートってこと、
今日思い出せて、まったく良かった。







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仕返ししないって決めたけど。

【2011.01.28 Friday 20:27
結局自分は自分が主人公の物語を生きている。

で、私は小説やドラマの中で、
復讐や仕返しという方法はかっこいいと思えない。

なので、私は、
私が主人公の、
私の人生という物語の中で、
復讐とか仕返しとかを、
主人公にさせたくない。

で、しないって決めてる。

しないって決めているんだけど、
家の中だと、結構難しいんだ、これが。
すごくせこい仕返しをしてしまうことがある。

家人は、一度決めたことにちょっとした変更があると、
それに対応するのに時間を使う人だ。
その間、不機嫌になる。

仕返ししないって決めているのに、
私は、
そんなことで不機嫌になる彼に、
ちょっとした不機嫌で
仕返ししてしまう時があるんだ。

先日の出来事・・・
義母がデイサービスに行く日。
その日は前回デイサービスから借りてきたものを
返さなくてはならず、
でも、最近義母は忘れっぽいので、
誰かが見送りながら
それを先方に渡すということになった。
その日、私は朝7時30分には家を出なければならない。
デイサービスの迎えの車は9時に来る。
それで彼が営業の途中
で家に戻ってきてくれることになった。

「じゃ、9時には家にいてね。
 そして、これを渡してね」
と用意した時に、
デイサービスと我が家の間のお便りファイルを
見ると、
「インフルエンザが流行してきているので、
 来所する前に必ず体温を計り、記入してください」
とある。

びっくり。

私が彼に、
「申し訳ないけど、
 9時ちょっと前に来て、
 お母さんの体温を計って、
 これに書いてほしい」
と頼んでみる。

彼の頭の中は、もうすでに、
その日の午前中、
どういう動きをするかある程度決まっていたのだろう。
で、きっとめちゃくちゃイライラしたと思う。
それで
「無理」
と一言。

そして不機嫌になった。

その後、
私という人生の物語を生きている主人公は、
なぜか、いつもよりちょっとだけ
返事のトーンを下げたりしちゃったんだ。

「なぜか」じゃない、
理由は分かっている。

そういうことで不機嫌になる彼を
責めたい気持ちがわいてきて、
それを滲み出しているんだと思う。

「おやすみ、先寝るね」
という彼に、

私という人生の物語を生きている主人公は、
すごくさりげなく、仕返しする。
軽くシカト。


社会の中で仕事をしていると、
いやなことはいろいろある。
難しい要求をされる場面や、
理不尽な出来事も起こったりする。
どうしても合わない人と一緒に仕事しなければ
ならないこともある。

そういうとき、
この主人公は、意外とふんばれる。

外では、
復讐や仕返しという方法を取らないのに、
なぜ家族の中だとするんだろう。

かっこ悪いと思う。
小さいと思う。

そういう物語にしたくないのに。




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そこに反応かい?

【2011.01.25 Tuesday 21:48
話をしていて、
一生懸命に聞いてくれているんだけど、
思いがけないとこに反応されて、
思わず「そこかい!」とツッコミいれたくなる時ないですか?

「すごく眠かったけど、読みたい本があったから、
 がんばって読んでいたら、おもしろくなってしまって、
 結局すごくおそくまで起きてることになってね、
 それで朝起きるとき辛かったんだ。
 でも、がんばってこれて、間に合ってよかった」

で言いたいことを受け止めるとなると、多分、

「睡眠時間が短かったのに、
 がんばって起きて間に合わせてくれたんだね」

だと思う。

たとえば、それを

「なんて本?」

と質問で返されたりすると、思わず心の中で
「そこかい!」

「その話も、またしたいけど、
 今は、そこじゃないだろ!!!」的な。



あるいは、
「今日は犬の散歩の時間に、
 頑張れば間に合うって感じだったけど、
 ま、ここは家の人に行ってもらうかと思って、
 電話で頼んで、久しぶりに夕方の買物を
 ゆっくりしたんだよね。
 そしたら、いつものスーパーなんだけど、
 なんだか景色も違ってみえて、
 あ〜いつも追いまくられているなあって
 感じたんだよ。 
 たまには、メモを片手にパッパと買うんじゃなくて、
 迷いながら、今日何にしようかと、
 考えながら買物するのもいいのかなあと
 思ったんだ」

「自分の意志で飼った犬なのに、
 簡単に家の人に散歩、頼むんだ」

「そこかい!」

みたいなこと。



最近の家人との会話でいくと、

私「教師が保護者を訴える件あったでしょ?
  なんか、保護者は保護者で、教師に対して
  言わなきゃならないほど、いろいろな想いが
  あったと思う訳だよ。
  それに対して、先生もまいってしまって、
  で、訴訟って話になったと思うんだよね。
  でもさ、その真ん中にいる子どもの気持ちは
  どうなるんだろうね。
  なんか、私はせつないよ。
  もうちょっと別な方法がなかったかのかなあ」

家人「それはボクには分からない。
   事実を知らないで、コメントできない」

って、
「そこかい」
あなたコメンテーターじゃないんだから!





バレーのボールをゆっくりふんわり放ったつもりなのに、
それは受け取らず、
硬式野球のボールがビュン!と返されてくるような感じ。
受け取ってほしかったバレーボールは、
相手の周りをころがっていて、拾い上げてはもらえない。


「先生、
 イナズマイレブン(アニメらしい)が、
 3月か4月か、
 そのあたりで終わっちゃうらしいんだ。
 今、私の心を円グラフにすると75%くらいは
 イナズマイレブンのことなんだよ。
 で、それが終わってしまうと思うと、
 終わってからどうして生きていっていいかと思ってさ。
 多分、やる気が今以上になくなると思う」

に対して、

「4月は進級があるから、クラスに慣れることに
 一生懸命になるといいよ」

という会話を小耳にはさみ、
せっかくそこまで心を開いて話してくれている
この子のボール、
そこにころがってしまってる・・・。

私はとってももどかしい。

「それほど夢中なアニメが終わってしまうんだ。
 それは残念だね。
 そのことでやる気がなくなるのが心配ならさ、
 いつでも、話、聴くよ。
 一緒に考えていこうよ」

的な感じでいいんじゃないか。



バレーボールが放られてきたら、
それはしっかり受け取って、
それで、そのボールを返したいな。

で、もし、違うボールを投げたかったら、
バレーボールでのキャッチボールが
ひと通り終わったらにしたいよなあ。



 

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卑しい根性。

【2011.01.24 Monday 22:07
自分の日記を読み返していると、
自分の卑しさが見えちゃっているなあ。

たとえば2日前の日記、
コミュニケーションのことを書くのに、
義父の誕生日にセーターをあげたことや、
義母の薬を取りにいっていることを書いている。

私の気持ちの中のどこかに、
読んでくれている人に、
「谷澤さんって、
 お義父さんの誕生日にプレゼントあげたり、
 お義母さんの薬取りに言ってあげたり、
 いろいろしていて、よくやっているね」
って思ってもらいたい気持ちが
働いているんじゃないかと思う。

私には以前からそういうところがある。

ず〜っと前、
CL(建設的な生き方)という人材育成方法の
研修を受けていた時、
先生からそのことを指摘してもらったことがある。

たとえば、
「○才から○才までの間に
 母親にしてもらったこと、
 迷惑かけたこと、してさしあげたことを
 書いてくる」
という内観の課題が出た。

最初のうち、
私は母に「してもらったこと」を書くのに、
よく自分がしてあげたことも、書いていた。
たとえば、
「お手伝いをしたら、
 ほめてくれた」
のように。

先生は私の中に持っている、
人からの評価に依存するところを、
見抜いてくれていて、
そこを指摘してくれた。

自分ですごく注意しているんだけど、
やはり、自分の書いたものを読み返すと、
そういうところが、しっかりとある。

ま、こうやって時々思い出すことだよな。



今日、1時間20分電車に揺られ仕事に行った。
行きの電車の中は、仕事の準備をしたが、
帰りは自分の日記を読みながら帰ってきた。
そこで、いつもとは違う風景の中で、
いつもとは全く違う環境で読んでいたら、
なんか、自分の卑しさが見えてきて、
少々凹んだ。

あ〜こんな私が、ここにいる。


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すでに自分を信じてた。

【2011.01.23 Sunday 21:07
急に、ぴかっと思いついたんだけど、
実は、「自分なんてダメ」って思うのって、
すごいことじゃないか。

だって、「自分なんてダメ」って思うのは、
「本当はできる」と自分が思っているレベルまで
いってないからこそ、
「ダメ」って思う訳だよね。
ってことは、
もともと自分を信じてるって訳じゃないかな。
「自分なんかダメ」と思うのは、
自分の中で自分に求めている目標が高いってことだよなあ。

私は時々中学生たちにお話をする。
終わったあと、
「あ〜あ、今日は今いちだったな」
とか、
「もう私なんか、だめだ。
 もう絶対中学生への講演はお断りしよう」
とか思う。

どこで、そんなふうに感じているかといえば、
「しゃべっている子がいた」
とか
「目の前の子が寝ていた」
とか、
そういうことが根拠だ。

つまり、
みんなが私語もせず、
いねむりもせず私の話を
うっとりと聴くという、
私の中の目標に比べると、
それが達成できなかったからこそ、
「私ってダメ」
となる訳だ。

今までは「私ってダメ」って思う自己卑下は、
あまりよくないことだと思っていた。
しかし、こう考えてみると、
自己卑下ってのは、
ある視点でみると、
「もっとできる自分を信じていることの裏返し」
ではないか。

それはなんだか、すごいことのような気がしてきた。

では
「自分なんかダメ」
って思ってしまった時はどうしたらいいか?

それは、
自分の中においた「目標に向かって努力を重ねる」か、
あるいは、
「目標の設定を考える」、
の二つだろう。


たとえば私の場合なら、
「中学生に合う事例を考えるため、
 ワンピースを読み、
 嵐の番組を見て、
 ゲームをやる」
か、
あるいは
「給食後の5時間目。
 ただでさえ眠い時間だから、
 寝ている子がいても、ま、そんなものとする」
かだろうなあ。

これは、
自分の中に「私なんかダメダメ虫」が
這い出してきたときに、
それを退治するためにやってきたことだ。


でも、今日、
「自分なんかダメ」ってのは、
自分を信じてる証拠って気づいたから、
今日からは退治するためにやるというよりは、
自分をもっともっと信じるためにやれそうだ。


今学校の世界は自己肯定感を育もうと、
いろいろな取り組みをしている。


それはとっても大切な考え方だと思う。
自分を肯定して生きていけたら、本当にいいと思う。

しかし、じゃ、自己卑下が悪いかというと、
そうじゃあないんじゃないかなということを、
今日は言いたい訳なんだ。
思春期の子どもたちは、
「自分なんかダメ」って思っている子が多い。
そういう気持ちをもつのをやめようというよりは、
そういう気持ちを持つのは、
その奥に、
もしかすると、
自分を信じる気持ちがあるからかもしれないよ、
それを一緒に探してみようよ!
ってアプローチの方が実際的だと思うな。



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感情は理由というより、情報として。

【2011.01.21 Friday 16:38
義父の誕生日にセーターをプレゼントしたのだが、
サイズが小さかったとのことだった。
彼はLサイズと決めている人で、
それを知っている私は、購入するとき、
夫に確かめた。
「Lだよね?」
すると、彼は
「Mだけど、スコットランドのものだから
 Mでぴったりだと思うよ」
という。
私は、
「ええ?いいかなあ?
 お義父さんはLにこだわるよ」
と言いながら、そこでとどめた。

しかし、案の定、
サイズが小さいとのことで、
Lに代えてきてほしいとのこと。

それを帰宅した夫に言った。

「ねえ、やっぱりお義父さん、
 サイズが小さかったんだって」
と言いながら、彼の表情を見ると、
仕事で何かあったのか、
なんだか機嫌が悪い。

機嫌が悪いのは分かっていて、
さらに私は追い打ちをかけようとした。

「だから、言ったじゃん。
 お義父さんは、日本のものだからとか、
 外国のものだからとか関係なく、
 Lって決め・・・」
と彼が、
「それ以上言わないで。
 今それ以上言われると、
 すごくいらいらしそう」

「あっそうなんだ。
 わかった」
と私は引っ込めた。

私は、その時、
彼ってアサーティブだなあと思い、
で、追い打ちをかけようとしていた自分が
恥ずかしかった。

彼をいらいらさせるのが私の目標じゃないなあ。
でも、買物の時、
私の主張を受け入れてもらえなかった悔しさと
私が正しかったことは伝えたいなあ。
(正しい間違いにこだわるのはかっこ悪いけど)
しかし、それはもう伝わっている。
じゃ、もういいか。

で、しばらくたって、
「あのセーターは僕が着るよ。
 父さんにはLのものを、
 僕が買うから」

うん。それで万事OK。


夫は、まったくアサーティブを学んでいないが、
時々とってもアサーティブなふるまいをする人だ。

「あなたのその言い方には、腹が立つ」

と感情を、
感情的に伝えるのではなく落ち着いて言ってくれ、
しばらく時間をおくと、普通になっていたりする。

「何度も言っているから、
 言いにくいんだけど、
 Tシャツを洗濯機に入れる時には、
 腕が片方裏返しってこと、
 ないようにしてね」

言い出す時の気持ちの言葉を言いながら、
ものすごく具体的な要求を言ったりする。
(これ、本当に何度もやってしまっている
 自分が情けない。トホホ)


で、先ほどの
「今それ以上言われると
 いらいらしそう」
という言葉を聴いたとき、
私は、「感情」も情報のひとつだということを、
とても感じた。

アサーティブな伝え方をする時に、
まず伝えたいことの整理の仕方を学ぶ。

どんな事実があって、
そのことに対してどう感じているか、
そして相手にどういう変化を望んでいるのか、

それらをまず整理してから、
伝え方のスキルを使って伝える練習をする。

アサーティブネスを学び始めたころ、
その二番目の「感情」は
理由として伝えるのだとばかり思っていた。

「こういう事実があって、そのことに私は
 こういう気持ちをもっているので
 こうしてください」
のように。

でも、最近は、
感情も情報として伝えるという説明が
しっくりくるようになっている。

「私はその事実に対して、
 こういう感情を感じています。
 こうしてください」
という、
「感情」を、
何かを依頼する時の理由にするというよりは、
その事実に対してこういう感情がわきました
という情報として伝えることで、
依頼に対する返事をする時の、
参考にしてもらうような感じ。


彼が
「それ以上言うと、いらいらしそう」
と言ったとき、
私の頭の中で、

彼は今、これ以上私が文句を言うと、
いらいらしそうなそういう状態なんだ、
そういう情報をもらったから、
じゃ、
その後の私のふるまいはどうしようか?
ま、彼をいらいらさせたい訳じゃないし・・・
となったわけなんだな。


そんなの面倒!!!
って思うかもしれないけど、
この面倒なことを、
小さいケースでやっておくことが大事なんだなあ。




今日は義母の薬を処方してもらう日。
約2時間かかる。
もらってきて、
義母に
「4390円でした」というと、
「ありがとう。
 じゃ、4400円で。
 10円はガソリン代」

私は、忙しい中行ったこともあり、
カチン!

これは情報として、
今のやり取りでカチンときたことを
お知らせしとこう。

「お義母さん。
 10円でガソリン代とか言われると、
 カチンときます」

「あっそうか、そうよね。
 そうだわそうだわ。
 ありがとね。
 いつも、あなた、忙しいのに
 行ってくれて」

「お義母さん、そこまで申し訳ない
 感じも、いいですよ。ははは」

「そうね。卑屈だったわね。
 ははは」

何もお腹の中に残らなかった。



author : tanizawa-k
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「移行期的混乱」

【2011.01.19 Wednesday 19:17
今という時代を、著者は
「移行期」と捕らえている。
戦後の日本の経済成長率は
56年〜73年まで(高度経済成長期)は
平均9,1%
74年以降17年間(相対安定期)は
平均3,8%
それからリーマン・ショックの08年までは、
平均1,1%。
大きく三段階のサイクルで変化してきている日本の
経済を考えた時、
いよいよマイナス成長への
移行期に入っているのではというのだ。

「現在、私たちが抱えている問題、
 つまり環境破壊、格差拡大、人口減少、
 長期的デフレーション、言葉使いや価値観の変化
 などもまた、移行期的な混乱のそれぞれの曲面
 であり、混乱の原因ではなく結果なのである」

そして
「過去にその成功事例をもつ経済政策、
 会社経営、個人の価値観、つまり右肩上がりの
 経済をさらに増大させるような戦略も対策も、
 計画も、現実との乖離を広げるだけだということは、
 容易に想像つくのである」

つまり、今
「問題なのは成長戦略がないことではない。
 成長しなくてもやっていけるための戦略が
 ないことが問題なのだ」
と言うのだ。

私は、この論調に我が意を得たりの想いなんだ。

日本の社会は成熟が進み、
そのことと少子高齢化は繋がっていて、
働き手となる年代の人口は減少している上に、
製造業は海外だし、
サービス業はインターネット、
つまり経済活動が停滞している社会で、
それをなかったことにするかのように
成長を目標に掲げるのは、
あまりにも現実離れしている。
この現実をありのままに捕らえて、
地に足ついたビジョンが必要で、
もしかすると、それは、
お金や物があっても幸せを感じにくかった、
ここ何年かの時代より、
少し生きやすい時代を作れるのではないかと
そんなふうに思う。

一昨年年末の年越派遣村から湯浅さんの活動が
伝えられるようになって、
彼が活躍できるようになっている。
政府は昨日、
首相官邸で無縁社会解消をめざすための
「一人ひとりを包摂する社会」特命チーム
の初会合を開いたそうだ。
湯浅さんもチームの一人だ。

グルーバルな経済の中で規制緩和は
必要があったことだと思うけど、
私はそれはセーフティネットとセットで
あるべきだと考えていて、
規制緩和が先行していたことに、
本当に腹がたっていて、
でも、こういう動きがでてきたってことは、
やっとやっと、
成長の夢から
ちょっとだけ覚めてきたのかもしれないと思う。

今までは、成長をめざしてきて、
それでよかった。
でも、これからは、
たくさん売り、たくさん消費するより、
もっと違うことに力や時間を使う価値観が
出てくるのではないか。

働き方や、生き方や、
地域とのつながり方や、
親子の関係、
もしかすると、
この移行期を転換地点にできるかもしれない。

寄る辺ない不安定さを
抱えながら生きる生活から
支え支えられ、
「生きていていいんだ」
「自分は生きる価値がある」
「信頼できる人がいるし、
 ちょっとだけど自分のことを
 あてにしてくれる人もいる」
・・・な安心感のある生活への関心が
もっともっと深まるかもしれない。


私は12年間、
学校で相談の活動をしている。
どちらかというと、
前進、前進、また前進というよりは、
今はエネルギーをチャージする時期を
過ごしている子どもや、
その子どもを見守る大人、
つまり、
学校社会の中でのマイノリティーと
共にいさせてもらった。

「助けて」って言っていいんだよ。
弱音を吐いていいんだ。
辛い時は、辛いって、教えて。
そう言いながら
12年、やってきた。

そういう彼らが、
一歩ずつ歩いていくところを見てきた。

だから、自信をもって言える。
成長戦略も必要だったかもしれない。
でも、右肩上がりばかりじゃなく、
停止や平坦なことも、
不幸せなことばかりじゃない。
その中でしか見えないことがあり、
その中だからこそ、大切なことを
見直したりできる。

平川さんが書いているように、
今は100年に一度の危機なんかじゃなく、
歴史の必然的な過程であり、
とりたてて騒ぎ立てるほどではなく、
だからこそ、
今までの目標の立て方や方法ではなく、
今からの働き方や、
今からの価値観を構築していくことを、
一人一人が考える必要があるのかもしれないな。

ま、一人一人の中に私も入っているし、
私は、そうしていきたいと思うよ。










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傲慢とは・・・

【2011.01.17 Monday 22:16
昨年の8月25日に
田口ランディさんがTwitterに投稿していた
「傲慢とは、
 謙虚すぎること、 
 心配の押し売り、
 具体性のない善意」
という言葉が、
ずっと気になっている。

この言葉はまだまだ私には重いけれど、
今のところの考えをまとめてみようと
思う。


傲慢というのは、
「おごりたかぶって人を見くだすこと」。

一番目の言葉
「謙虚すぎること」とは、
たとえば、
「このぐらいへりくだっておけば、
いいだろう」・・・的な、
本当に謙虚であるというよりは、
謙虚にふるまうことで
何かを得ようとしているような態度のことを
いうんだと思う。

そういうのは見えてしまう。

いわゆる慇懃無礼な感じ。

いつか何かの会で、
発表をされた方が、
「私のような者がこのような席で
 発表させていただけるはずもないのですが、
 そのような立場でありながら、
 皆様方の前に立つことをお許しください」
のような前書きを延々と話された時、
ちょっと残念な想いだった。
みんなの時間を、
自分のエクスキューズでたくさん使うというのは、
もしかすると、傲慢かもしれない。

私もやったことがある。
先生方に対する研修の講師として伺った学校で、
「私のような者では、
 先生方にゆっくりする時間を提供できるかどうか
 自信がありませんが・・・」
とその時のそのままの気持ちを言葉にしたが、
後で、それは必要ないよ!と言ってくださる先生がいて、
私はものすごく反省した。

自分を低めることで得ることは、
「偉そうにしなかった」
という自分の安心だ。

そのために、先生方の大事な時間を、
もらってしまった。
今思うと思い上がった態度だと思う。


これと、それほど遠くないところに、
先日記事に書いた
「○○してくれると嬉しい」
があるように思う。

それが、今私がイヤな理由は、
「○○してくれると嬉しい」
と言われたら、
そこにはノーと言わせないような力が
働くように思うからだ。

「○○する」ことに関してはノーだけど、
「だと嬉しい」と言われてしまうと、
その人に嬉しい想いをしてほしくない訳ではないと、
単純に
「○○してください」
よりノーを言いにくいように
相手をコントロールしようとしている意図が
含まれてしまうように思うのだ。

このことと、謙虚すぎるは、
ちょっと似ていると思う。



二番目の言葉
「心配の押し売り」。

これも考えてみると、
おごっていることと結びつく。

親という立場の方は、
子どもにしてしまいがちな
ふるまいかもしれない。

最近読んだある方のブログで、
親から「愛」を理由に指示をされることが、
辛かったとあった。

すごく分かる。

あなたのためなのよ!と言われて、
何かをアドバイスされたり、
こうしろああしろと言われると、
ほっといて!!!と叫びたくなったことがある人、
結構いるのではないか。

親子でなくとも、やってしまうことがある。

私の場合は義母に対して
やっていないか、
自己チェックが必要だ。

薬は飲んだか?
着替えはしたか?
今日はお風呂に入るのかどうか?
血圧は朝一で計ったか?
杖をついてほしい。
デイサービスには行こう。

それらを押しつけてないか?

年齢を重ね、
忘れることも多くなったし、
ひとつのことと、次のことの繋がりが
みえにくくなったこともあり、
つまりは弱くなった母を、
「世話を焼く」だけではない、
心配の押しつけがあるかもしれない。

心配を言葉にし、相手に言うことで
得ているものは、
「私はやった」「私は心配した」という
自分への肯定だ。

それは傲慢なことなんだと、
しっかりと分かっていないとなあ。




3番目の言葉
「具体性のない善意」。

これは、すごい発想だな。

たとえばどんなことかというと、
口先だけの甘い言葉みたいなことが、
ひとつだろうと思う。


3つの言葉に共通しているのは、
「謙虚」
「心配」
「善意」
という
表面的には柔らかで良さそうなものを使って、
相手をコントロールしようと
していることだと思う。

相手を思うがままにしようとした時点で、
どんなふるまいも傲慢となる。
まして、
それを、
一見美しいものでコーティングしているところが、
始末が悪い感じだなあ。

それを使われてしまったら、
表立って反抗することは難しいかも。



今日、このことをまとめられたのは、
ここのところよく見ている
TEDの影響があると思う。

Facebook COO のシェリル・サンドバーグさんが、
組織のトップを目指そうとしている女性への
3つのアドバイスのスピーチだ。

率直に語る彼女の言葉の歯切れの良さが、
気持ちがよく、
誰にもこびていないし、
横柄さもない。

心から、
がんばる、
あるいはがんばろうとしている女性たちの
役に立ちたい想いが伝わってくる。

「具体性のある善意」は、
つまり、明日から何をどうしたらよいか分かる
励ましや、アドバイス。
彼女のスピーチはまさにそれで、
傲慢さは1ミリも感じられない。

そう思った。



author : tanizawa-k
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自分で決める。

【2011.01.16 Sunday 21:04
4月以降の働き方と家族との関係を
昨年末から考えていた。

家族に話をする前に、
自分で何をどの程度働きたいのか
明確にしようとした。

学校と講師の割合をどうするか?
講師として月にどれくらい仕事をするか?
宿泊を伴う出張は、どの程度できそうか?

4月以降の自分がどんなでありたいか考えた。

これは、こうやって書くと、書けちゃうけど、
私にとってみると大変な作業だった。

昨日の延長で、なんとなくやってしまえば、
今年度とあまり違わない来年度になるだろう。
それもそんなに悪くはないし、
もし自分で決めたとしても、
その通りうまく依頼があるかどうかはわからないから、
考えることが無駄になるかもしれない。
・・・とよぎったりした。

また「講師としてこれくらい仕事がしたい」と
数字が浮かんだとしても、
自分の中の自分を卑下するくせが頭をもたげて、
思い上がっていると思われるんじゃないかと、
数字を考えることを
途中でやめたりした。

また、自分の仕事のことばかりを優先して、
だんだん年を重ねてきている義理の両親のことを、
あまりにも後回しにしていないか、
自分を責める考えも浮かんだ。


しかし、今回、私はねばる。

自分の意見や考えを、まずは自分の中で明確にして、
そしてそれを家族のことも尊重しながら伝えようと考えた。
そして私の希望に対する家族の考えも聴き、受け止め、
そして何か問題があったら、また考えようと思った。

その最初のステップ、
まずは自分の考えを自分で決めるってことを
がんばったのだ。

途中で考えることをやめそうになったけど、
その先を考え、そして具体的に自分で決め、
そして、
家族に話したのだ。


あ〜、本当にアサーティブネスを学び、
そして実践してきたこと、よかったと思う。


自分自身でも、自分で決めたこと自体が喜びで、
それだけでも十分なのに、
なんと夫も夫の両親も、
賛成してくれた。
家族の中での私の役割についても、
理解を示してくれたのだ。

さらに、家人の気持ちを聴けるなんて
おまけも。


「ねえねえ、秋に一回、つい最近一回、
 4泊とか3泊の出張あったでしょ?
 あれは、どう?
 どんな感じだった?」

と彼に訊くと、

「う〜ん、3泊以上は、
 さみしいかな」

と彼。
私は、ちょっと嬉しい気持ち。

「そうなんだ。
 それは私もそうかも。
 じゃ、3〜4泊の仕事は、
 年に一回くらいにするように、
 考えるね」

と言うと、

「でもま、あなたが
 できる時にやった方がいいよ。
 うちのことも、これからどうなるか
 わからないし」

と彼。

「うん、そうかあ。
 でも、とりあえず、
 3〜4泊の仕事を決める時は、
 必ず相談するね」

 ・・・


これらのことを通して、
結局、今まで、
中途半端な時があったなあと思う。
途中まで考えて、
いろいろな考えや気持ち、
たとえば自分を卑下する気持ちや、
自分を後回しにする考えが浮かんだとすると、
そこまでにして、
結局自分はどうしたいのかつきつめずに終わり、
しかも、他者に対して要望を伝えないってことが、
あったんだと思った。

そうするとどうなるかというと、
自分の中ではいろいろなことが起こっているけど、
それは周りはわからない。

だから、
「もうちょっと仕事したいけど、
 なんとなく家族が迷惑そうだから、
 翌月はあきらめよう」
とたとえ自分で決めて仕事をしなかったとしても、

あきらめさせられた感が、
まったく自分勝手なんだけど、
なんとなく残る。

それは家族にとっては
迷惑な話だろうと思う。

自分の頭の中では複雑にいろいろつぶやいてはいても、
外には一切表してないんだもん。
自分で勝手にもやもやして、
結局自分で何をどれだけ仕事したいかも
明確にもしてないし、
まして伝えてもいないんだもん。

結局自分が問題だったんだ、自分だ。

そんなことが、
霧が晴れていくように、
見えてきた。






さて、今年度も、
そろそろまとめの季節。
来年度のことを考えていたとはいえ、
今年度の最後を、最後まできっちりと丁寧に
仕事することが大切だ。
がんばろう。




author : tanizawa-k
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子どもとコミュニケーション。

【2011.01.14 Friday 17:47
迷いながらやってきた
子どもへのコミュニケーションの授業。
明日、
そのことについてプレゼンテーションする機会がある。

どんなことを目的にして、
どこを大切にして、
何に注意し、
どんなふうに伝えているか。

明日プレゼンするのは、以上のようなことに
なると思うので、
そこに至るまでの間にあった
私の葛藤をまとめておいてみる。




学校で相談活動を始めた当初から、、
子どものコミュニケーションに課題があることは
分かっていた。

「あの子、うざいよね」と影響力のある子に言われたら、
そう思ってなくてもうなづかねばならず、
そういう日々に疲れ果ててしまっている子。

登校の待ち合わせの時間に遅れてきても平気な
友だちに、
「もっと早く来て」といえなくて、
突然友だち関係を切る子。

友だちとの力関係の中で、
暴力や暴力的な言葉を使って上に立っていたけれど、
だんだんと周りから友だちがいなくなってきて、
結局独りぼっちになってしまい、
学校外に自分の居場所を求める子。

いろいろな子どもの表れと、コミュニケ−ション力は、
密接に関係していて、どうにかしなくてはならないと
ずっと思っていた。

と同時に、
「個」が大事にされる世の中を作ってきたのは大人で、
つまりは誰かと密接なコミュニケーションをとらなければ
生きてはいけなかった時代を思えば、
今の世の中、
そういう訓練の場が日常に少ない訳で、
だとしたら、
子どもにコミュニケーション能力をUPさせる
何かを提供する前に、
大人がやる必要があることが
他にあるのではないかとも思っていた。

スキルを教えれば、
表面上、自分も相手も大切にした言い方を、
子どもたちは考えつく。
でもそのことと、
コミュニケーション能力が身に付くこととは
別物だ。



子どもにコミュニケーションについて
教える必要があるよなあ、
でも、
いやいや、待て待て・・・.

の間で迷いながら、
子どもの前に立ってきた。



ある時、
ひとつ目の確信をつかむ出来事があった。

学校に登校しずらくなった女子生徒が、
担任の先生に卒業式に出ないと伝えたいけれど、
言えない、どうしよう・・・と、
私に話した。

言って、先生をがっかりさせたくない。
でも、だからって、ここで全部のエネルギーを使って出たら、
せっかく決まった高校に、行けるかどうかわからない。

それで私はアサーティブネスの課題の整理の仕方を使って、
担任の先生になんと伝えたら、
気持ちや考えが伝わるか一緒に考えた。

彼女はそこで考えたことを担任に伝え,
伝えることができたことをめちゃ喜んでいた。

思ったこと、考えていることを、
しっかりと口にできた彼女は、
満足そうだったし、
あ〜結局、コミュニケーションの力を付けることは、
自己肯定感を育むことになるんだ!と
納得した。


そしてその時、
どうしても伝えたい何かをもっている個人に対して、
スキルを教え、一緒に考えることは
その子の力になるということが、
わかった。

これはその後も、
部活をやめたいと両親に伝えたいけど、
やめさせてもらえないと言っている子や、
けんかをすると友だちがすぐに機嫌悪くなってしまい、
それが何日か続くことで困ってしまうことを伝えたい子など、
たくさんの効果をあげてきた。

個人的にはスキルを教えることは
力になる。
では、集団に対し、
どう伝えていくか?

小中学校時代の
うまく伝わらなくてもどかしい経験や、
言いすぎて後悔することや、
誤解して伝わった苦い経験。
それらは、その時はキツいけれど、
そういう経験こそ、大切なことではないか。
それらを大人が先回りするようにしては、
それは彼らのためにはならないのではないか?

そんなことも考えた。


その間も、 
コミュニケーションのことそのものとは別に、
私は学校で子どもたちとの相談活動を通し、
様々なことを感じていた。

そして、
まだ言語化できていない感情が言葉になった途端に、
感情にまきこまれないで、冷静に何かを伝えられるようになる
子どもたちの具体的な姿をいっぱい見た。

そして二つ目の確信を得る。

子どもにコミュニケーション能力を
付けさせたいと思ったら、
大人がしっかりと
彼らに話をさせてあげることだ!
という確信だ。

大人が、彼らの話を受け止めることが、
彼らのコミュニケーション能力をあげる。

相談室で出会う子どもたちの話を聴けば聴くほど、
彼らは表現力がついた。

ある女子生徒は、それを言葉にした。

「ここでは安心してしゃべれる」

黙ることで身を守っているつもりになっているような子が、
否定せず、ゆっくり話を聴くことで、
話し始める瞬間にたくさん出会った。

大人が子どものコミュニケーション能力を
つけさせたいという時、
それは自分の考えを発表できたり、
他の子の悪さに引きずられない発言を言えたり、
そういうことを指す場合が多い。

しかし、時には大人が聴きたくないことも、
ちゃんと聴くこと。
たとえば、

面倒くさい
○○さんが嫌い
学校に行きたくない
クラスに居場所がない

思い切って口にしたこういうことを、
ちゃんと受け止めてあげないと、
子どもはシャッターを下ろす。

大人が聴きたいことだけしゃべっていいというのでは、
子どもは安心して自分の考えや気持ちを
言葉にすることなどできないのだ。


つまり、大人がやれることは、
コミュニケーションについて教えることより、
まずは、話を聴いてあげることだ。

このことを元に、
子どもの話の聴き方,受け止め方のプログラムを作り、
講演や、連続講座の講師をつとめている。
(*最新のお知らせを一番下に掲載しています)


そして、3つ目の確信。

集団に対して
できること、
集団の方がより学びがあることを
3点みつけた。

1点目は、
コミュニケーションという視点を通して
自己確認をするということ。
(自分の良いところも課題も知り、
 良いところは伸ばし、課題とは上手に
 つきあっていくために、まずファーストステップは
 自分を客観的に考える機会をもつこと。
 そして、自分を確認する時に他を知ることで、
 他との共通点や違いで、自分を確認できていく。
 つまりたくさんの他の中で、自分とむきあう機会)

2点目は、
自分とのコミュニケーションの機会も、
集団の中の方が突き詰めすぎなくて、
なかなかよいということ。
(自分を感情と考えと行動に分けて、
 その3つの中で思い通りになることとならないことを
 分ける。
 湧いてでてきた感情はコントロールできないが、
 行動はコントロールできるし、
 考え方も修正が可能なことを知る。
 行動はコントロールする責任があるが、
 子どもにとっては難しいことだ。
 集団の中で話すことで、突き詰めすぎずに
 少し離して考えることができそう)

3点目は、
自己信頼感を保てるような機会にするということ。
(感情に快不快はあっても善悪がないことを知る。
 そしてネガティブは感情がわく自分を、
 それほど責めなくていいし、嫌わなくていいことを
 みんなで確認する)

これらは、もちろん個人的に伝えることもできるが、
他の中で知ることの意味も大きいようだった。




ま、まだまだ途中なんんだけど、
悩みながらやってきた過程と、
そこから得た今のところの確信が、
こんなところ。
まだまだ変わるかもしれないし、
進化する可能性もある。
これらを土台にして、
じゃあ、具体的にどんなことをしているか?
明日仲間たちに見てもらって、
フィードバックをもらうんだ。
そして、もっともっと子どもたちの心に
何かを残せるプログラムにしたいものだ。

楽しみだな。


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もうすぐ 募集開始。

*思春期の子どもをもつ親のための
 連続2回講座(体験型の講座)

主催:静岡市地域福祉交流プラザ
対象:10代の子どもを持つ親 20名
参加無料
日時:2月18日(金)/25日(金) 
   両日とも 10時〜正午

申し込み方法:
 1月24日(月)午前10時から2月14日(月)
 までの間に直接電話にて、
 静岡市地域福祉交流プラザへ。
 054−249−3183 担当:高野さん 嶋尻さん







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谷澤 久美子
counselor