2010年12月の記事 | 今のところではありますが…
『行く年、来る年』〜ingでいいんです。

【2010.12.31 Friday 14:24
我が家のお正月の煮物は筑前煮。
イラストレーターの大橋歩さんが
以前出していた雑誌「Arne」に出ていた
彼女のレシピを元にしている。

かつぶしや干し椎茸を戻した出汁で
野菜を煮ている香り充満の部屋の中、
テレビでは、静岡代表静岡学園が
サッカーの試合をしている。
バーニーはストーブの前に陣取り、
家人はソファでうとうと中だ。



2010年。
私はよく人前でお話させてもらった。
保護者の方への、
思春期の子どもたちとのコミュニケーションを考える講演は、
全部で32回行った。
学校の先生方へは16回。
今年は幼稚園の先生から、教頭先生方の集まりと、
対象の幅は以前より広がったように思う。
小学生、中学生の子どもたちには12回。

またアサーティブトレーニングの関係では、
トレーナーとして
3回連続の講座を一回。
対象をしぼった講座を二回。
基礎講座は確か4回担当した。

本は46冊読んだ。
朝倉かすみさんの小説との出会いは大きく、
「自意識」の取り扱いについて、
考えさせられた。
なんだけど、
今年の一冊は角田光代さんの「ひそやかな花園」。

今年は映画を見る時間を惜しんでしまったように
思う。28本しか見ていない。
これがなんとも悔しい。
今年の一本は「キャタピラー」。

今年の私は、
本当にいろいろな講座を受講した。
泊を伴うものを含め、
7つの講座を受講した。

この学びの時間は大きかった。



私はこれまで、
「建設的な生き方~CL」というアメリカで生まれた
人材育成法のインストラクターとカウンセラーの資格を
いただいている。

CLの
「目的に向かって、事実を受け止め、
 なすべきこそをなす」
という教えは私の基礎を作ってくれている。

誰かとなにかすれ違ったとき、
その人とどうなりたいのかという目的を考えて、
事実
(起こった出来事や自分の感情や、相手そのものなど)は
そのまま受け止めて(変えようはせず)、
目的に向かった行動をひとつずつしていく。

これを知って、私の生活は快適になった。

たとえば、
結婚したばかりの頃、
休みの日は家でごろごろしていたい夫が
いやでたまらなかったが、
「いい関係でいたい」という目的に向かって、
「ごろごろしていたい」夫をなんとかしようとはせず、
でも、
用事がある時は、
「何時にどこどこにいこう」と言う、
ってことができるようになったのだ。

でも、困ったことが起こった。

それだけだと、
自分の意見や自分の感情は、
いつもいつもおいてけぼりになってしまうのだ。

「ごろごろしていたい」
という夫の意見も大事だけど、
「たまには外でせいせいしたい」
という私の意見も大事にしたい!

そんな頃みつけたのが
アサーティブネス。
自分の意見や感情を、相手も大切にしながら伝える
コミュニケーションのあり方だ。

これを知り、身につけたことも、
私にとって、すごくすごく大きなこと。


今年は、これにプラスして、
TRUE COLORSというものに出会った。

自分の意見や感情を相手を大切にして伝える時、
その相手によって伝わりやすい伝え方があるってことを
教えてくれた。

これを知ることで、
アサーティブネスで深めた
自分の考え方やふるまい方のくせを
一層見直すこともできたし、
相手の考え方やふるまい方を活かす方法を
こちらから差し出す気持ちよさもわかった。
また、一人でではなく、
チームで何かをなしとげていく時、
多様な人がいることこそ強みになることも
実感している。

それで、来年は、
もちろん私にとって大切な柱である
アサーティブネスをもっともっと深めながらも、
TRUE COLORSも学んでいきたいと、
今のところ考えているんだ。


つまり、
何かの手応えを感じると、
次にやるべき事が見えてきちゃう。

私の一年一年は、
この繰り返しだと、
つくづくと思う。

常に何か足りない感じで、
恥ずかしい。
恥ずかしいが、
常に何かの途中、ing。
これも自分と認めざるをえない。

それが仕事編。



プライベート編では、
きっと家族のことが、
来年のテーマになると思う。

義理の両親は
86歳と84歳になり、
特に義母の中では
いろいろなことが起こっている。

CLでいえば
家族が幸せでいるという目的に向かって、
義母の変化や、
私の中に起こる感情、
たとえば面倒くさいや
いらいらするなどは受け止めて、
その時その時、
やるべきことをやっていこうと思う。

とはいえ、
自分の意見や感情も大切にして、
学ぶために家を留守にする時は、
夫や家族に、
誠実に、率直に、対等に、依頼をしていくのだ。
アサーティブなふるまいで。

時には、家族のために、
何かをあきらめることもあるかと思うが、
そんな時にも、
決して他者の責任にはしない。
自分で選んで学びをやめて、
その責任は自分におく、つまり
アサーティブでありたいな。

また、
家族を構成する一人一人は、
価値観も考え方もふるまい方も違うが、
その違いを活かしていこうと思う。
学んできたファシリテ−トの技術は、
まず、家族の中でこそ使う、
その時にTRUE COLORSは背中を
押してくれると思う。


という訳で、
結局、中途半端な私だけど、
この感じで、
2011年もいきたいんだなあ。




このブログを読んでくださっている皆様。
2010年、お世話になりました。
私の愚痴や私の落ち込みにつき合っていただき、
感謝いたします。ありがとうございました。

来年、2011年も、どうかよろしく
お願いいたします。

ぼちぼちと書いていきますね。




さてさて、そんな合間にも、
静岡学園は残り20分で2点リード。
明日はエスパルスが天皇杯の決勝だし、
来年は、静岡、もってるかもしれないなあ。








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弱音も吐ける方がいい。

【2010.12.30 Thursday 13:13
「自己表現ができる」ってことは、
よいこととされている。

でも大人達が、子どもに望む自己表現は、

「私の夢は○○になることです」とか

「僕は、◇さんの意見とは違い、 
 〜〜〜と考えています」とか、

タバコ一緒にすおうぜ!
とか先輩に誘われた時に
「いやです」ときっぱり言えることとか、

「○ちゃん、きもいよねえ」
に対して、
「私はそうは思わないよ」
と言えること・・・

そんなことのような気がする。


私はそういうこともできた方が、
その方がいいとは思うけど、
子どもが、
弱音を吐けたり、
イヤな気持ちなどを自己表現できたりすると、
すごくすごく、ほっとする。


時々、聴き取れないくらい小さな声の子が、
「一人ずつ発表するのが、困る」と
やっとの想いで言ってくれたりすると、
その子のふりしぼった勇気を思う。
そして、
「よく言ってくれたね。
 わかったよ。
 どうしたらいいか、一緒に考えよう」
となる。
その時に、
「みんなやることなんだから、
 あなたもやりなさい」
という反応だと、
きっとこの子は、
その大人に、それから先、
何も言わなくなるのではないかと思う。

十分にその子の「困ること」を伝えた勇気を認め、
その後、話し合った結果、
いくつかの選択肢を示したら、
結局は「やっぱり発表はした方がいい」
となったとする。
それでも、この子の「困った」ことを伝えた勇気は、
認めたい。


河合塾が社会人として必要なチカラを社会人力として、
評価するためのテストを作ったらしい。
そのことが、毎日新聞に、
しばらく前に掲載されていた。


//////////////////

あなたはある企業の営業部門で働いています。
営業部門では例年部員全員での旅行を実施しており、
あなたは今年の幹事を任されました。
先輩の社員に聞いたところ、
昨年の旅行は幹事の段取り不足で不満の多い結果だったようです。
あなたなら、このときどのように行動しますか。
次のAからEの中からあなたの考えに一番近いもの、
2番目に近いものをそれぞれ選びなさい。

A:みんながどんな旅行を期待しているのか、調べてみる

B:1人では難しいので、先輩社員に幹事を手伝ってもらう

C:昨年の旅行に関する情報を収集し、
 具体的に何が問題だったのか整理してみる

D:自分には荷が重いので、
 誰か得意そうな人を探して幹事を代わってもらう

E:どんなに頑張っても不満はでるものなので、
 できる範囲で取り組む

<分析の例>

A:少しでも多くの人が満足するよう行動し、親和力が高い

B:結果を大事に考えるので、主体性が高い

C:失敗原因を分析するところからスタートし、
  旅行を成功させるための課題発見力が高い

D:結果を大事に考えるので、主体性が高い

E:基礎力が欠如している

//////////////////////////

注目したいのは、2点ある。

1点目はBとDの評価が高いという点だ。

Bだとすると、先輩に依頼しなくてはならない。
「一人ではみなさんの期待に応えられるような旅行を
 企画できそうになく困っています。
 お仕事でお忙しいのは重々承知しておりますが、
 ご指導いただきたいのです。
 ついては、○○の件ですが〜〜〜」
的なこと。

Dだとすると、日頃から人間観察をしていて、
こういうことが得意そうで、好きそうな人を
知っておかねばならない。
そしてその人に依頼するのだ。
「かわってください」とお願いしなければならない。


2点目はEの評価が低い点だ。

これは、本当におもしろいと思う。
自分なりに、あるいは、やっつけでやってしまうのは、
「基礎力が欠如している」になってしまう。

ここでいう「基礎力」とは、
自己理解力とか、
自己表現力などになるのかな?

この評価テストが、どの程度のものかは分からない。
しかし、よく聞く話で、
「何か頼むと、気持ちよく『はい』と言ってくれるし、
 『あれどうなった?』ときくと、『大丈夫です』と
 答えてくれるからいいのかと思ってたら、
 急に会社に出てこなくなって、調べてみたら、
 仕事がたまりにたまっていて、びっくりした」
なんて話もある。
で、私はうなづけたんだ。



学校の中にいると、
自分の考えや感情を表現することが下手で、
暴力やだまりこむことで伝えようとしていた子たちが、
何か事があった時に、
丁寧に彼らの言葉に耳を傾けているうちに、
自分の言葉で話し始めるようになる。


急に不機嫌になることで、
不快な感情をぶつけてきていた子が、
先日は
「先生、この部屋で待っていると、
 掃除の人たちが来て、
 それで、じろじろ見るから、いや」
と言葉で言ってくれた。

「そうか、それがいやなんだね。
 あなたの気持ちはわかった。
 よく言ってくれたね。
 で、どこで待っていたい?」

「保健室」

「了解、保健室なら大丈夫なんだね。
 問題ないよ」

「でもね、鞄がそばにあると、
 何この子?って見られるから、
 鞄は別のとこに置いときたい」

「そうかあ、そう思うんだ。
 どこがいい?」

「カウンセリングルーム」

「了解。いいよ。
 じゃ、カウンセリングルームに鞄をおいて、
 それから保健室で待っていてね」

私は、以前の何か困ったことや心配なことがあると、
ただただだまり込み、うんでもすんでもなくなる子が、
こんなに自分の状況を伝えるようになり、
しかも、自分で選択肢を用意していて、
しかも自分で決めて行動をし始めた子に、
感激した。


「本当はさみしいんだ」
「みんなの目が怖い」
「もう勉強がわかならくなっていて、
 授業中、つまらない」

ってこと、言ってもらえるような大人が増えていくことで、


「困ってます」
「今、厳しいです」
「その件に関して、心配なことがあります」

って大人も言えるような社会になっていくと思う。


もちろん、
自分でがんばることが大事。
でも、
「助けて」「今、つらいんだ」と
言えることも、また大事。

そんなことが言い合える、
まずは我が家だといいなあ。



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避けられない問い。

【2010.12.26 Sunday 21:25
今日は思い切って本を整理した。
今まで読んできた本を、
処分するもの、
すぐには手にとらないが大事にとっておくもの、
本棚に並べて、
必要な時にすぐに手にとれるようにしておくもの、
しょっちゅう開きたい机の上においておくもの 、
に分けた。


夫が定期購読している「クーリエ・ジャポン」の
付録「サンデル教授と考える『日本人と戦争責任』」は、
必要な時にすぐに手にとれるようにしておくために
本棚に並べておくことにした一冊。

サンデル先生が東大の安田講堂で特別講義をされた中の、
最後の問いかけからの対話の様子を文字におこしたもの。

「道徳的責任は世代を超えて負うべきなのだろうか?」
という問いに対して、
いろいろな人が真っ正面から考えを述べ合う。

サンデル先生は
まず、
前の世代が起こした過ちを、
公に謝罪する道徳的責任があるか
という問いからスタートする。

イエスとノー、両方の考えをきき、
その中からサンデル先生は次の問いを
差し出す。

「賠償までする責任はあるか?」

イエス、ノーの考えを聴いていく過程で、
サンデル先生は「歴史や分化に切れ目があるか?」
というもう一つの視点を問いかけながら進める。

3つめの問いは
「オバマ大統領は原爆投下について、
 日本の人々に謝罪すべきだろうか?」

この問いに対する答えから、
サンデル先生は新しい問いかけを見つける。

「すべての道徳的責任は、
 我々の選択や意思から生じるもの義務か?」

とここで、場に新しい展開が起こる。
私は、ここの展開がすごくすごく好きだし、
丁寧な対話が起こす奇跡みたいものを感じる。

次の問いはサンデル先生ではなく、
ケンジという方が発するんだ。

「もし親が隣の人を殺しても
 責任を感じませんか?」
という具体的な例を使った問いかけだ。

これは、これまでサンデル先生が使ってきた方法だ。
具体を使いながら原理に探っていく方法。
それを、「ケンジ」という方が、やった。

「ケンジ」さんは
サンデル先生の白熱教室をさんざんテレビで見ていて、
きっと普段、自分の生活の中でも、
なにか答えを導き出さねばならないときに、
まずは自分の身近な事例から原理に近づいていく方法を、
やってたんじゃないか?
誰かと対話をする時にも、何か複雑な話し合いになったとき、
具体を持ち出していたんじゃないか?


ここから、さらに対話が深まっていくのだが。
それは、広島出身の方が自分のこととして語り始めたり、
歴史的な道徳的責任という大きな問いを、
自らが細かくパート分けしての考えを話したりと、
伝えたい!他者の意見を知りたい!という想いを、
いろいろな方法で表現しはじめる。


サンデル先生の最初の問いかけ、
「道徳的責任は世代を超えて負うべきなのだろうか?」
に対する私の、私なりの答えは、
前の世代が起こした戦争に対して、
私たちは、そのことを知り、
あるいは知る努力をする責任があると思う。
しかし、
公の謝罪がすんでいるものなら、
次の世代の人たちが
謝罪をする責任はないと思う。
ただ被害を受けた国々の方が、
そのことを忘れないでいる間は、
私たちもそのことを
意識しているという責任はあるように思う。
意識しているということを、
どう表すかについては、
また別の対話が必要だと思うが、
私は謝罪とか賠償ではない、
カタチに表すことが必要だと思う。

靖国神社の問題や、
いろいろな瞬間の私たちの態度に、
そのカタチは表れるように思う。



私は保護者の方を対象の講演をすることがあるが、
その時に、質問されることがある。
「子どもから、なんのために勉強するのか?と訊かれたら
 なんと答えたらいいですか?」
「生きている意味は何かと訊かれて困った。
 どうしたらいいですか?」
そういう時に、
その方のぐぐっとくるような、
そして、いつかその問いの答えに近づくための、
最初の一歩の具体的な問いで
つっこめるといいな。

「ケンジ」さんみたいに。

そんなふうに思って、
この薄い一冊は、
手元においておきたい本の一冊なんだ。





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やっかいなギフト

【2010.12.25 Saturday 18:01
TEDで何度も何度も繰り返し見ている動画のひとつ、

ステーシーさんは、
あることをきっかけに、
自分の人生の中で本当に価値あることが何か
みつけることができ、
信頼とは何か再定義でき、
平和や安心感なども得ることができたし、
家族からの愛情や友人や知人の大切さを
感じることができた。

あることというのは、
脳腫瘍を患ったこと。
彼女はそれを「珍しい宝石」と呼ぶ。

そして、その経験を通して
私たちに伝えてくれている。

「もし、あなたがこの先、
 思いがけなく、やっかいで、先の読めないものに
 遭遇した時、
 考えてみてください。
 それは贈り物かもしれません」

私はこの3分の動画を、
もう何度も何度も見ている。


脳腫瘍ではないが、
私は私なりに、
やっかいで、思いがけなくて、
先の読めない出来事に遭遇したことは、
案外ある。
いろいろある中で、
一番最初の、そして最もキツかったのは、
「母の死」だ。
そのことがあって、
私は成長したとは思うけど、
もちろんそれを「贈り物」なんて、
とっても思えない。



12月25日は、クリスマスだけど、
21年前から私にとっては母の命日だ。
今年は23日にお墓参りに行った。
生きていると、母は73才になるんだと思う。
73歳の母に会いたいなあ。
73歳の母に会えたら、
最近思い出した
母が私にしてくれたことを
「こんなことあったよね」と言いたいなと思う。

それは
「バスブーブーごっこ」だ。

私の家はお店を営んでいて、
そのお店部分と家の間をつなぐ、
作業場みたいなスペースがあって、
昼間はお店の仕事の裏の仕事をするところだが、
夕方から夜にかけては、
アイロンがけをする場所になったり、
私のために古文の教科書をノートに写してくれる場所になったり、
家庭画報を読む場所になったり、
とにかく母のスペースだった。

その場所で、母は時々、
私に「バスブーブーごっこ」をしてくれた。
母は椅子に座り、その腿の上に、
私をまたがせて、母に面と向かうように
座らせる。
そして「出〜発!」とスタートする。
ガタゴト道をバスが走るみたいに、
腿を上下に揺らせる。
私のカラダも揺れる。
母が「次は福島屋、ふくしまやア」
と言うと、私が母の鼻の頭を押す。
すると「止まりま〜す」と言って止まり、
「足元に気をつけて降りてください」
と私をギュっとするのだ。

この間、映画を見ていて突然、
このことを思い出して、
私はびっくりした。
だって、思い出したシーンの私は
制服を来ていた。
中学になっても、
私は母にギュっとしてもらっていたのだ。
生意気だったし、
「お母さんみたいに犠牲者みたいな人生はいや」なんて
平気で傷つけたし、
絶賛反抗期中なんて時期もあったし、
それでも、
私は、
母にギュっとしてもらっていたのだ。

私はお墓で、
手を合わせながら、
 私はまあまあ幸せだし、
 なんとかやってるよ。
 でもね50にもなって、
 まだこんなことを言っていて
 相当恥ずかしいけど、
 時々ギュっとしてほしくなるよ。
 ばかみたいだね。
と話してきた。





ステーシーさんが教えてくれたのは、

自分にはどうしようもない出来事が
襲いかかってくることはあるけど、
起こってしまった出来事を
なかったことにはできない。
なかったことにはできないなら、
それをどう自分のものにしていくかが大事。

ってことなんだと思う。

私にとって「贈り物」は、
「母が亡くなってからのしばらく」
かもしれないな。

母のいない家や商売なんて、
まったく考えられなく、
どうしたらいいのか
わからない真っ暗闇だった。

それから、少しずつ
泣きながらやった。
母のことを思い出しながら、
がんばって生きた。
無理!と思ったけど、
結構やれるじゃん、私って瞬間もあった。
それを繋げた。


妹も、
今日はニューヨークで
母のことを考えていると思う。
妹もよくやってきた。
がんばってきた。

このやっかいなギフトを、
お互いなりに解釈してやってきた21年を
妹と語り合いたいな。








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骨太判明のクリスマス

【2010.12.24 Friday 16:06
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今日は5年ぶりに健康診断を受診してきた。

毎年、検査しなくちゃと思いつつ、
申し込むのさえ面倒で、
何となく後回しにしていたら、
5年もたってしまった。

両親とも高血圧で、
私の年齢の時には二人とも薬を飲んでいたし、
母は糖尿病を患っていて、
食事に気を使い、月に一度は受診していた。

調べてもらえば何かあるかもしれないけど、
特にどこか悪いってとこもないし、
ま、いいかってな感じで、時間が流れた。

大切な友人の夫が亡くなって一年になるので、
そのお参りに、
11月の終わり、
夫ともう一人の友人と伺った。
ひとしきり彼の話をした後、
自分たちの体調の話になり、
私がここ5年まったく検査をしていない話をしたら、
大ブーイング。
友人の会社では受けるまで、すごくうるさく
「受けてください」攻撃をされ、
それで受けているという話をしてくれ、
そしたらもう一人の友人が、
「じゃ、私が久美子さんに、
 毎日うるさくメールします」
と言ってくれ、
その日から彼女の「検査行け!」攻撃は始まった。

子どもが親から、勉強しなさいと言われるのが
嫌な気持ち、すごくわかった。
その方がいいって分かってるけど、
一歩動かない自分が情けない。
そんな私に、
彼女は土曜も日曜も、
とにかく毎日メールをくれた。
「久美子さん。病院行きました?」
「予約しましたか?」
怒濤のメールだ。
いやあ、まいった。
とはいえ、参ったのは彼女の方だと思う。
かなり面倒だったんじゃないか。
それでも
とにかくメールをくれて、
やっと私は予約したのだ。


検査の結果が分かるのは年明けだが、
骨密度だけは今日結果を教えてもらった。

「あなたの音響的骨評価値は、3210です。
 これは、あなたと同じ年齢の音響的骨評価値と比較して、
 126%に相当します。
 また。若年成人時の平均の音響的骨評価値と比較すると、
 115%に相当します」
と言うことで、
相当詰まっているらしい。
よかった。

医師が「サプリかなんか飲んでますか?」
と訊いてくれたが、まったくNO!だ。
持って生まれたものなんだろうなあ。
ありがたいなあ。
骨太だ。


ところで、
今回私は清水区の
桜ヶ丘総合病院内の健康管理センターで受けた。
ここのスタッフの方や
検査の医師たちの対応がとってもとっても良かった。

実をいうと、
受診するつもりなどさらさらなかったので、
市から受診をすすめるお知らせがきたとき、
それを適当にどこかにしまいこんでしまっていて、
結局再発行してもらったのだが、
センターに最初に電話して、日程の予約をお願いしながら
その旨を相談した時の担当者の方の印象がとってもよかった。

こういうミスっぽいことをしてしまった時、
温かい対応してくれると、
なんか、勇気づけられるんだなあ。

で、今朝は受付の方のさわやかな笑顔から始まり、
スタッフの方々が、
各検査の部屋の様子を見ながら、
なるべく待ち時間が少ないように誘導してくれる感じや、
常に気配りしてくれる感じが
とってもとっても嬉しかった。

マンモグラフィのところの方は、
痛い思いをすごくわかってくれて、
めちゃくちゃ共感しながら、
サポートしてくれたし、
胃の検査のところの方は、
バリウムを飲み、
右向いて、左から一周してあおむけになって・・・
などの検査の気持ち悪さを、
「そんな小さいことで」なんて感じはみじんもなく、
ちゃんと扱ってくれた感じがした。
子宮がん検診も、採血も、
また、胸部触診のところの先生は、
なぜマンモグラフィをとったのに、
触診が必要なのかを説明してくれて、
自分でチェックする時に確かめる箇所を
教えてくれた。

私って人間のからだを、
本当に大事に大事に扱ってもらったような、
そんな気がして、
帰宅して急いでその旨を手紙に書いて
FAXし、
そして、午後の仕事にでかけた。



で、先ほど帰宅すると、
センターから返事のFAXが届いていた。

「努力しているけど、
 褒めていただけることは少なく、
 手紙が嬉しかった」
と書いてくれてあった。
「午前中に、関係部署にコピーし、
 みんなで読んだ」
と書いてくれてあったのだ。

私は私の投げたボールをしっかり受け止めてくれて、
それをふわふわにして投げ返してもらったような
優しい気持ちになった。



昔、師匠が私にカウンセラーになることを進めてくれた時、
「サンタになってください」と言ってくれた。

「誰かに何かをする喜びを知っている人のことを、
 サンタという。
 だからサンタは世界中にいる。
 あなたもサンタになってくだい」

私が今、なれているかどうかわからないけど、
私はサンタの存在を、
しっかりと感じられる。


友人が私のために大事な時間を毎日、
私のからだを気遣って、
メールの時間にあててくれた。
友人は私のサンタだ。

そのおかげで、今日検査を受けることができた。
その検査のサービスがとってもよくて、
その気持ちよさに感謝の手紙を書いたら、
それに対して、「ありがとう」の言葉をもらった。
センターの方々も、私のサンタだ。
今日私はちょっとだけ良いことできたみたいな
気分にしてくれた。



そんな骨太判明のクリスマス!!!

メリークリスマス!





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「みんな、高校ぐらいは行くじゃないか」

【2010.12.23 Thursday 20:43
以前、ある中学校でアンケートをとった中に、
「周りの大人に言われて凹んだ言葉、
 やる気を失った言葉を教えてください」
という質問を入れた。

この結果は結構おもしろく、
「子どもとのコミュニケーション」を
テーマにした講演の時は、
紹介している。
「だからあれほど勉強しろっていったでしょ」
とか、
「お姉ちゃんはもっと素直だったのに」
とか、
そんな言葉を10の分類で紹介している。

その言葉の中に
「みんな高校ぐらいは行くじゃないか」と、
親から言われた言葉を書いた子がいる。

今まで、その言葉は、
なぜか、あまり引っかからなかったのだが、
最近、とっても気になっている。




中学生の中には、
もうこれ以上勉強は
いやだと考えている子もいる。

勉強自体が好きではないし、
やらなかったことが理由で、
あるいは能力的に大変で、
勉強は分からなくなっている。
授業は分からないから。
他のことを考えて、
なんとか時間をやりすごしているけど、
一日は長い。

多分、心の中で、
勉強なんか、もう、これ以上いやだ!
と考えているように思えるけど、
それでも、
「高校には行きたい」と言う子どもがいる。

今の彼らは、
本来なら選択肢がたくさんあるはずの成熟社会を
生きていながら、
どこからか聞こえてくる、
「みんな高校ぐらいは行くじゃないか!」という
言葉を受けて、
「高校に行くか行かないか」という二者択一の中で
息苦しく生きているように思う。

「行くか行かないか」は、
「行けるか行けないか」になって、
子どもたちに襲いかかる。

「行けるか行けないか」という言葉は、
「行くことの方が断然良い」を含んでいる。

で、
なんとかかんとかがんばって高校に入学する。
そしてなんとかかんとか、卒業する。
その時点で18歳。
しかし、そこで人生はゴールではない。
そんなこと、みんな十分に知っているけど、
中学生の時にはそんなこと考えないんだよな。

そこから定年まで、
きっと、これから先定年は60歳以上になると思うから、
約50年は働いて食べていく。

その働いて食べていくために、
15歳から18歳の3年間で、
一番その子の成長の幅が大きいところは
どこだろうか?

本当に高校か、
あるいは料理の学校か、
または誰かの弟子になることか、
定時制の高校に働きながら通うことか、
あるいは特別支援学校で、
ソーシャルスキルと食べていくためのスキルを
身につけることか。

「みんな高校くらいは行く」から
高校にいくのではなく、
本当にそこが、
その子をブラッシュアップするところかどうか、
見極められるといいなあ。

高校に入学したはいいけれど、
やっぱりなんかとかかんとか
他のことを考えながら授業をやり過ごし、
いやだなあとか、
逃げ出したいなあと考えて生活する3年間は、
子どもにとって本当に苦しい日々
ではないのだろうか。

苦しいのは悪い感情ではないし、
もちろん苦しいことで学ぶことはある。
それに長い人生の中でそういう3年間を
過ごす選択も確かにあるだろう。

しかし、やっぱり、
彼らに浴びせている
「みんな高校ぐらいは行くじゃないか」という
メッセージは、
もっともっと小さくなるといいと思う。


そうした時に、
中学生でやりたいことや、
目標が決まっている子の方がめずらしいから、
やりたいことが見つかった時に、
それに対応できるように、
つまり、いつか、
選択肢をより多くもつためにも、
高校に行くという選択が、
もっともっと意味をもつんだろうと思うな。


つまり、
みんなそうするからするんじゃなくて、
自分で考えて決めて行動するように育ってほしいし
大人は、彼らにそういうチカラがつくように
サポートしたいし、
その時に、
押しつけの価値観を含んだ言葉は、
本当に考えなくてはならないことだと思う。













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達成感を味わうと・・・

【2010.12.22 Wednesday 18:28
ある先生が、
「4月に出会った子どもたちと、
 本当に丁寧につき合ってきた。
 やってきてよかった。
 子どもの話を聴き続けてよかった」
と話してくれて、
あ〜、こんな話を聴かせてもらえる私は
幸せだなあと思った。

ネガティブな感情がわいたとき、
乱暴をふるってしまったり、
かたまってしまったり、
パニックをおこしてしまったり、
そういうことでしか、自分の怒りを
表すことを知らなかった子どもたちに、
丁寧につき合ってきたその先生。
何かあったときは、
そのまま帰宅させることはせず、
必ず時間をとって彼らの話を聴き、
彼らの感情はくみ取り、
しかし行動について、
本当にその選択はいいのかと
問い続けてきた。

予定帳に書いてきた3行の日記から、
子どもの心を読み取ろう、
分かろうとして考え、
共感しながら返事を書き、
そして提案を書いていた。

そして8ヶ月。
ここにきて急速に成長した、
彼らの落ち着いた姿をみたとき、
本当に心から、よかったと思っている顔だった。

私は、そういう先生と活動を共にできたことが、
誇らしいし、
本当に幸せだと思う。


私の活動は「心の教室相談員」という立場から始まった。
その後、
スクールカウンセラーという立場になって、
子どもの話を直接聴くことは随分減ってしまい、
保護者の相談や先生の相談が大部分を占める。
特にここのところ、先生と一緒に問題を整理して
一緒に考える時間がふえている。

多分、私は子どもと、子どもの問題を、
考えることが好きだけど、
でも、
子どもを支える先生を支える、ってことが
本当にできたらどんなにいいだろうと、
思っていたことが、
今回分かった。

それもしたかったんだな、私。



本当に感情はメッセージだ。
ネガティブな感情から自分の本当にほしいものがわかるが、
同時に「嬉しい」という感情からも、
「あ〜これが、ほしいものだったんだ!」と
分かることができる。

そして、この喜びこそ、
次へのステップとなる。

きっとその先生は、

「子どもの話を分かろうと思って聴く」
「子どもが話してくれるようになる」
「子どもがおちついてくる」
「子どもが自分の感情を自分で分かるようになり
 対応できるようになる」
「子どもが落ち着く」
「自分が嬉しい。達成感」

をつかんだ。

子どもの話を分かろうと思って聴くことが、
今以上に苦ではなくなるだろうと思う。

私がその先生を
後ろで支えることの喜びを知ってしまったように。

あ〜こういうことが、
もっといろいろな学校でできるといいなあ。



今日は、学校関係の仕事納めだった。
来年は、
もっともっと大人の役にも立てるようになりたいものだ。
・・・には勉強だな。

っと、早速いくつかの講座に申し込んだ私。


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正直、嫌い。

【2010.12.21 Tuesday 17:57
ここんところ、あんまりなかったんだが、
最近、
「あ〜この人とはあまり関わりたくないなあ」
と思う人に会った。

話していると、
自分がいらいらしてくるのが分かり、
逃げ出したくなる。
その人が悪いのではない。
その人にはその人の考えがあり、
発言する。
その何かに対して
なんだかわからないけど、
私があわないのだ。

いい悪いではなく、
あわないってこと。

たまにしか会わないけれど
休みだときくとほっとしたりする。

こういう感じは、本当に久しぶりで、
それで、私は我が家のバーニーとの散歩のとき、
愚痴を言いながら歩く。

「きいて、バーニー、もうやんなっちゃうんだよね。
 こんなことあってさ」とか
「もう最悪!信じられない」
とか、もう思いっきり言う。

もちろん、
上手につき合ってはいると思う。

でも、バーニーには
思いっきり、
ここには書けないくらいの悪態も付きながら、
結構すっきりするようなこともあった。


でね、それで、
今日、
なんだか、
ハッと気がついたんだ。

このことは、
「気づけ、谷澤久美子!」のサインかもって。

というのは、
ここのところ、
相談というよりは、
学校の中の何気ない先生方との話の中で、
どうしてもあわない同僚の話を、
聞くとはなしに聞くことがあって、
また、それが結構頻繁にあって、
それで、そんな時、
実は心の中でちょっとだけ、
「うまくやるしかないじゃん」とか、
「もうちょっと違う視点から考えてみたらいかが?」とか、
正直、思うこともあったんだ。

もちろん、カウンセリグの場では違う。
カウンセリングの場では、
話してくれる方の話を、
ひたすら分かろうと思って聴くから、
そんなこと頭をよぎる隙間もない。

でも、何気ない立ち話の時は、
す〜っと、そういう考えが頭をよぎったりしてたんだ。
「あなたが大人になるしかない」とか、
「いいところも探してみよっか」とか。

今日ハッと気がついたのは、
相談というカタチではないにせよ、
その話を思い切ってしてくれたその方に対し、
バーニーが私の話を聴いてくれているように、
私は聴くことができていたのかな?
ってことだ。


「ちゃんと聴く」という、
一番大切なことを本当にしていたか?
その人のありのままを受け止めようとして
本当に聴けていたか?

私は本当に分かろうとしていた?
それだけイヤな人と同じ場にいなくてはならない
その人の辛さを、本当に分かろうとしていたのかな?
 

バーニーは私が話している間中、
私の方を見て、
私の目から見ると、時々うなづくような仕草もあり、
しかも、私に意見しようとはせず、
私の人間的な未熟さも指摘せず、
ただただ聴く。

私は、そんなふうに聴けていたのか?



そんなことを考えるチャンスを、
私の苦手なその人はもってきてくれた。
とはいえ、
あんまり関わりたくないという考えはそのままだし、
あんまり好きじゃないって気持ちは変わらない。
それでも、
その人のおかげで、
私は久しぶりに師匠の本を手にとって、
ポストイットを貼ってある、
そのページを開いた。




杉井保之さんの本「不完全なあなたへ」の中の、
「聞いてください」という詩。

「聞いてください

 私の話を聞いてください、と頼むと
 あなたは 助言を始めます
 私はそんなことは望んではいないのです

 私の話を聞いてください、と頼むと
 あなたは その理由について 話し始めます
 申し訳ない と思いつつ
 私は 不快に なってしまいます

 私の話を聞いてください、と頼むと
 あなたは 何とかして 私の悩みを
 解決しなければ という気になります
 おかしなことに それは
 私の気持ちに反するのです

 祈ることに慰めを見いだす人がいるのは
 そのためでしょうか
 神は無言だからです
 助言したり 調整しようとはしません
 神は聞くだけで 悩みの解決は
 自分にまかせてくれます

 だから あなたも どうか
 黙って 私の話を 聞いてください
 話をしたかったら 私が話し終わるまで
 少しだけ待ってください
 そうすれば 私は 必ず
 あなたの話に 耳を 傾けます

 (Loving Each Other より)」



よし、何度でも基本に返るのだ。
明日は年内の学校での活動、最後の日。
聴いて、聴いて、聴いてこようと思う。




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片付け、掃除。

【2010.12.19 Sunday 15:08
物理的に片付け(掃除)が上手ってことと、
精神的な片付け(掃除)上手って、
無関係ではないのかも。

悩みにはまってしまって、
どうにも動きがとれない時は、
悩んでいることをまずは整理することが必要で、
それをしないで解決しようとしても、
至難だ。

つまりは、
片付け(掃除)下手の人が
何かに悩み苦しくて仕方ないとき、
さらに、進んで
もう何をどうしていいかわからないとき、
まだまだチャンスがあるんだ。
その問題解決には直接関係ないとしても、
まずは物理的にやってみるってこと。

古新聞をまとめる。
テーブルの上にのっているものを、
元あった場所に戻す。
冷蔵庫の中で、賞味期限がきれているものを、
処分する。
これらは、頭の中で起こっている悩みにも、
効果的なはずなのだ。

これは一見、無関係のようだが
問題解決の一歩を踏みだしたことを意味する。

なぜかというと、
人間の考えていること、感じていることを、
意識と無意識に分けると、
意識の上にあがってきているものは、
ほんのわずかで、ほとんどが無意識だと
言われている。

自分の身の回りをキレイにするという行為、
また整理整頓された場を目にするということは、
無意識、潜在意識に働きかけるんだそうだ。

まずは、物理的にごちゃごちゃを整理する。
つまり、自分がいつもいるところを、
すっきりとさせること。
目に入るものが、
すっきりしたってことは、
それは何もしないで、
ごちゃごちゃの中で暮すより、
無意識に働きかける印象は大きく違う。
ずっと建設的なんだな。


今「断捨離セラピー」ってのが
はやっているらしいけど、
なんか、うなずけるなあ。



私は「建設的な生き方(CL)」という人材育成法で、
インストラクターの資格をいただいているが、
この資格取得の時には、
目の前の方の問題に気づき、
その解決に有効な宿題を、
いかに提案できるかが大きかった。

大きく分けると、
内観的な宿題
(いろいろな方のお世話になっていることや、
 迷惑をかけながら生きていることを知る)と
森田的な宿題
(感情がどんなであっても、目標に向かって、
 するべきことを行動する)
があって、
自分に起こっている問題を、
他に責任を求めることで解決をしようとしている方には、
主に内観的な宿題を出すし、
感情に支配されて行動が伴わない方には、
森田的な宿題を提案する。

そして片付け(掃除)は、
どちらに視点をおいても、宿題になる。
「片付けをしながら、
 それが誰のおかげで手に入ったものか、
 10人あげてください」
なんてのは内観的な課題になるし、

「毎日、時間を決めて、
 玄関階段の拭き掃除をし、
 表にチェックをしてきてください」
なんてのは森田的な課題になる。

私は元々は、
片付け下手だと思う。
でも、それでも、なんとかかんとか、
家の中を保っているのは
「建設的な生き方」で、
いやでもやる
面倒でもやる
という経験を、
いろいろさせてもらったことが大きいと思う。

やだから、
面倒だから
やらないんじゃなくて、
いやだけど、面倒だけどやるっていうことは、
自分を鍛えるトレーニングになって、
しかも、部屋は整理されるし、
さらに、
積み重ねは自信に繋がる。

行動が感情に影響を与えるんだよなあ。



さらに、
最近は「トイレの神様」で歌われているらしい、
トイレをキレイすると、
キレイになるという説。
私の幼い頃に聞かされていたのは、
トイレをキレイに掃除すると、
キレイな子が生まれる説。

イエローハットの取締相談役の鍵山秀三郎さんが、
ずっと提唱され、実践され続けているが、
著書「小さな実践の一歩から」の中に、
 掃除の五つの意義・効用として、
一 心を磨く
二 気づく人になる
三 謙虚になる
四 感動する心になる
五 感謝の心がわいてくる
とある。

私は二度ほど、
トイレ掃除の会に参加して、
鍵山さんが実際に、
ジャージをはいてどぶの中に頭をつっこんで
掃除をされているところ見たし、
私自身も、
汗だくになりながら素手でトイレを磨いて、
ピカピカになったトイレを前に、
涙が出てしようがなかった経験もある。
(ま、2回じゃ、本当の意味は分かるはずも
 ないけど)



なんというのか、
キレイにすると、
ふっとぶ。
いろいろなことが。


大掃除の季節、
めっちゃ面倒だけど、
自分に内観的な課題を与えようと思う。
テーブルをふく時は、
このテーブルのおかげでできたことは何か、
考えながらふく。
床にワックスをかけるときは、
床に迷惑をかけたことを考えながらにする。
そういう宿題。

そして、森田の課題としては、
今日から始めた。
「冷蔵庫を年内の毎休み、
 下から整理する」という宿題。
今日は野菜庫をやった。
タマネギか何かが、
腐ってしまったことがあって、
そこから出た茶色い汁が野菜庫の下の部分を汚していて、
そのままだった。

毎回、
開ける度になんとく気になっていたその部分を
片付けたことは、
もしかすると、
潜在意識に何か影響を与えてくれるのかな?

で、23日のお休みは,
冷蔵庫真ん中のドアの一番下の
棚をやろうと思う。



つまり、
片付けるのが下手、
掃除がきらいな人で、
家の中がごちゃごちゃしている人は、
すごく可能性があるんだと思う。
まずは、自分のできること、
周りのものを整理することからスタートすればいい。
しかも、小さなことから始めれば、
それで十分だと思う。


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チカラの抜き方。

【2010.12.18 Saturday 10:16
昨日の朝、 NHKの「おはよう日本」で、
ヤクルトの由規選手のことをやっていた。
彼はこのシーズン中に161㌔というスピードのボールを
投げたらしく、
その背景をやっていたのだ。

彼は、
同じく速球を投げる、一つ年上のある選手の言葉が
きっかけになったと言っていた。
それは
ボールを手から放すそのギリギリの瞬間まで
チカラは抜く
そしてすべてのチカラを使って放す。
つまり、チカラを一旦ゼロにして、
そこから一気に100にすると理解して、
その練習をしたそうだ。

その時難しかったのは、
放す瞬間までゼロにすること。

プロの選手としてチカラの使い方は慣れているだろうけど、
それは入れ方だったんだろう。
抜き方、しかも、ゼロというのは真逆だ。
最初は、
どうしても少なからずチカラが入ってしまったと言っていた。

しかし、ある時コーチに促され、
腕のチカラを抜くのではなく、
下半身に意識を集中することを試してみたそうだ。

下半身のフォームや、下半身の使い方、
腕のチカラを抜くことばかりを意識していた彼にとって、
まだやったことのないこと。
しかし、コーチのアドバイスは的中し、
そのことで腕のチカラが抜けるようになったそうだ。

テレビの中でやっていたその話を見ながら、
卑近な例で恥ずかしいが、
30年くらい前に運転免許を取った時のことを思い出した。

緊張しハンドルを握る腕にチカラが入ってしまい、
カキンコキンと音がするようなハンドル操作をする私に、
助手席に乗って練習をみてくれた父が、
「足にチカラを入れてみろ」と言った。
なんで?って思いながらも、
足にチカラを入れると、
なぜか腕のチカラは抜けていって、
スムースにハンドルを動かすことができた。


このことは、
身の回りに起きるいろいろな問題に応用ができるな!と思う。

たとえば、恋愛で苦しんでいてそのことばかり考えてしまうとしたら、
そのことを考えないように努力しても、
それはなかなか難しいだろう。
「そのこと」を考えないと何度も自分に言い聞かす時点で、
「そのこと」を何度も考えてしまっている。
だとしたら、「そのこと」を考えまいとするよりも、
他に熱中できることをした方が有効だ。

学校の中では、こんな例がある。
トイレに度々行くお子さんに、
帰宅後、家の人が
「今日は何回トイレに行ったの?」
「ちゃんと先生に、トイレ行きますって
 言ってから行った?」
などと、トイレに注目した言葉かけを行っているうちは、
一時限の中で何回も行っていたが、
そうではなくて、
「今日理科の実験どうだた?」とか、
「持久走、きついみたいだけど、
 よくやってるね」とか、
トイレとはまったく関係のない話をしているうちに、
いつのまにかおさまってしまった・・・なんてこともあった。

意識をどこにもっていくか!

問題そのものを解決しようとがんばるよりも、
視点の移動は重要かも。



真っ向勝負も時には必要。
でも、はぐらかして取った点も、
一点なんだよなあ。









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谷澤 久美子
counselor