2010年11月の記事 | 今のところではありますが…
受け止め方についての質問に対して。

【2010.11.30 Tuesday 18:43
先週金曜に講座をもった中学校の保護者の方々の
感想をいただいた。
人数と同じ数の感想。
つまり全員の方が書いてくださったことが、感激。
しかも、思いっきり体験型だったけど、
体験型そのものに対しても、
良い評価をいただけている。

感想をこういう場でオープンにしていいかどうか、
伺ってないので、書けないのが残念だが、
「子どもの気持ちをわかりたい」のような、
それこそ、まさに、伝えたいことがズバリと
伝わっていて、
本当にありがたい。


その中でお一人質問を書いてくださっている。
その方がこれを読んでくれていることを願って、
応えてみることとする。


質問は、「感情受け止めトレーニング」と名づけた、
子どもの言葉をどう受け止めるかという、
いってみれば共感の練習のための問題についてだ。

時間がなくて5問あるうち、3問しかできなかった。
残りの2問のうちのひとつについて。

「感情受け止めトレーニングのCに対する助言をぜひ!
 そんな甘っちょろいことを言ってんじゃない!
 と言いたくなるのを×とすると、大変。」

という質問。

Cとは何かというと、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 問)以下の「  」のように子どもが言ったら、
   なんと応えましょう。共感の練習をしてください。
 C・子どもが帰ってくるなり、
  「ねえねえ、きいてよ。まじむかつく。
   今日担任がさ、もう一度テストやるっていうんだよ。
   漢字のとこだけでも、これではしょうがないって
   いうんだよ。やっと、終わったのに、ひどくない?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アドバイスするのでもなく、
反論するのでもなく、
まず、共感して受け止めるのは、
どうしたらいいのか?

この参加者の方は、
「そんな甘っちょろいこと言ってんじゃない!」
ってのは、違うなって思ってくださっている。

しかし、心の中では、
「甘っちょろい」と思って全然OKだ。
そう思ったとしても、
共感で応えようとすると、

「腹立ってるんだね」
とか、
「それはいやだね」
とか、
「むかつくってのは、
 それかあ」
とか、
「せっかくテスト終わったとこなのに、
 きついんだね」
とか、
そんな感じだろうか。

保護者の方としては、
そう言ってしまうと、
担任を非難することになってしまわないかとか、
これは、おまえのためになることなんだからとか、
いろいろな考えが頭の中に駆け巡るだろう。

駆け巡ってOK。
でも、
言葉にする時は、
まずは、感情を受け止める、
共感でやってみるのもいいんじゃないか。

共感は同感とは違う。

保護者の方が「私もそう思っている」のではなく、
子どもに対して「おまえは○○と感じているんだね」
と言葉にするだけだ。

「それはお母さんも腹立つよ」では、
同感ですってことだけど、
「おまえはイラっときてるんだね」は、
お前の感じている気持ちはこれなんだね?
と確かめて訊くようなイメージだ。


このパタ−ンは
テストの後なんかに、
よくあると思う。

「お母さん、ヤバい。
 やったとこ、でなかった」
と、彼らは言うことがある。

私たちは思う。「全部やっとけ」って。

でも、それはアドバイス。
じゃなくて共感するのなら、
「それは悔しかったね」
かもしれないな。


「助言をぜひ!」と書いてくれた方が、
読んでくれているといいな。



さて、さっき夫が帰宅。
ちょっとしたことがあって、
「あ〜あ、なんだか、
 むなしいよ」と言うと、
彼は
「そうかあ、
 むなしいか。
 そういう時あるね」
って。

なんか、簡単にそう言われるもの、腹がたつ。
もっとちゃんと聴いてから共感しろ!!!
って感じだ。
でもま、
「そんな愚痴ばっかり言ってないで!」
なんて言われるより、100倍ましかあ。

難しいけど、
やりがいあるぞ、共感。




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社会に差し出す。

【2010.11.29 Monday 21:10
今週末は講座があり、
来週は保護者対象、中学生対象、小6対象の講演がある。

保護者対象は、
昨年も呼んでいただいたグループなので、
安心感があるが、
中学生も小学生も、
普段活動している学校ではないので、
緊張する。

特に小学生で期待されている話の内容が、
結構むずかしい。
子どもたちはマイドリームマップというものを
作っているらしいのだが、
企画のねらいに、
「それに取り組む子どもたちが
 谷澤氏の生き方や考え方についてのお話を聴き、
 ドリームマップ作成の参考にする」
とある。

こりゃ、難しいなあ。

少し前から、このことがずっと頭の隅にありつつ、
日常の仕事をしていた。

で、今日、
昨年の今頃、自分はどんなことしてたんだろう・・・
と思い、ブログを読んでみた。

の感想文があった。
そこで、中学校でお話をして
2校続けてうまくいかなくて凹んだ私が、
この本の中の一文で、
すっかり蘇っている様子が書いてある。

その一文とは
「どんな結果を得るにせよ、
 優れたフォワラーであるより、
 つまり他の誰かみたいになるより、
 自分自身を社会に差し出してみる方が、
 少なくとも後味はいいんじゃないか」

というもの。

昨年の私を勇気づけた言葉が、
今年の私の背中も押す。

そうか、
小6に自分の生き方と考え方を話すってのは、
ホントに私でいいの?って感じがするけれど、
ま、普段さらしている私を、
やっぱり小6の子ども達の前にも差し出せばいいのか・・・
と思って、
ちょっとすっきりしたなあ。

私が子どもたちに言いたいことは、

そのままのあなたでいいんだ!
あなたには生きている価値がある。
そのあなたで、今やれることをやっていこう

ってことだ。
それを伝えたいって考えるに至るには、
私の歴史がある。
そのことをさらしてくればいいんだ。

なんか、すっきりとしてきたな。


それにしても、
昨年の私も苦しみながら、
いろいろなことをやっている。
いやあ、がんばっていたなあ。

ひとつひとつのことは苦しかったけど、
今思うと、それは大切なプロセス。

今の私は、どうしようもなく、これが私で、
いやなことも、好きなとこもあるけど、
こんな感じでやっていくしかない。

そして、また来年の今頃、
今のことを
「なんとか、がんばってたなあ」と振り返るのかな?


そうやって繰り返すこと・・・。
繰り返しながら、
いろいろなことを自分の身につけていけるってことは、
なんとなく分かるし、
私には身近にお手本がいる。
それは義理の父。
義父は、最近、一層豊かだと思う。

義母にかける声の温かさ、
私が義母に対してするささやかなことに対する
優しいまなざし。
そしていろいろな言葉で
「ありがとう」を伝えてくれること。

私もね、
だめなこともあるし、
失敗もするけど、
そえでも、
やれることを少しずつふやし、
ちょっとずつ豊かになっていくのだよ。



私は、自分自身を社会に差し出しながら・・・
ってのはいやじゃないんだ。




author : tanizawa-k
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新しいプログラム!

【2010.11.28 Sunday 14:22
スクールカウンセラーとして
保護者の方にお話する機会を
いただくことがある。

これまで得意なパターンと、
そのアレンジしたものの話を
させてもらってきた。
しかし、
何年か続けて
呼んでいただけたりすることがあって、
同じような話じゃ申し訳ないなと思い、
ここ何回かは
一番伝えたいことは同じだけど、
アプローチを変え、
体験していただくことを増やしている。

これの直接のきっかけになったのは、
孔子の言葉を思い出したことからだ。
以前あるワークショップを受けたとき、
ファシリテーターが
孔子の言葉を紹介してくれた。
「聞いたことは忘れる
 見たことは覚える
 体験したことは理解する」

その時は、そういうものかあ・・・
と思ったけど、
後からよく考えてみると、

人間には、学習スタイルとして、
聴覚を使うことが得意な人、
視覚を使うことが得意な人、
体感覚で学ぶことが得意な人とあるから、

聴くだけで記憶できる人もいるはずだよなあ、
ま、ちょっと横においとこう!と、
疑問を抱いてからは、
その言葉を、
取り立てて考えることはしなかった。

しかし、久々、
このことを思い出して、
少し調べてみると、
なんと、この言葉にが続きがあった。

それは
「発見したことは、身に付く」
だった。

私は、これは、一も二もなく納得する。

自分で気づいたこと、
めっちゃ驚いたこと、
自分で見つけだしたことは、
自分の中に落ちていく感じがすることは、
多くの人が否めないのではないだろうか?

ずっと前にアドアーの子育て講座で学んだ時、
「これは誰の課題か」というワークで、
目からウロコがおちた。

たとえば、玄関で靴を脱ぎ散らかしてほしくないのは、
親と子、どちらの課題か?という問いかけがある。
これは脱ぎ散らかしてほしくないのは親なので、
親の課題となる。
親の課題だから、本来は親がすることで、
子どもの課題ではない。
もし、子どもにしてもらうときは、
「お母さんは玄関をキレイにしておきたいって思っているだ。
 だから面倒だとは思うけど、靴ぬぐときは、
 揃えておいてね」
とお願いすることとなる。

勉強するかしないかは、
子どもの課題だ。
だから親が当たり前のように
口出しするのは、少し考えなければならない。

このワークをひとつひとつ問いていくときに、
「これで困るのは誰か」と考えることは有効だという、
ものすごい気づきがあった。
そして、他者の課題に勝手に踏み込んでいくことは、
過干渉になり、
自分の課題に関しては、命令や指示することではなく、
お願いすることだと、しっかりと私の中に根付いた。

そして、そのことは、
子どもとの関わりだけでなく、
いろいろなことに有効だと思い、
日常で使えた。

この
「このことで困るのは誰か?」
「誰の課題か?」
と考えることがすごいことだと
目からウロコが落ちる気づきがあって、
そのことは、わざわざテキストを見直さなくても、
私の考え方の一部になったのだ。


最初にアサーティブ・トレーニングを受けた時にも、
アサーティブネスの4つのキーポイント、
「誠実」「率直」「対等」「自己信頼」の中の
「誠実」ってのが私の中の大きな気づきとなった。

相手とコミュニケーションする前に、
まずは自分に、
どう思うか、どう考えているのか訊いていいってこと、
つまり、まずは自分に誠実になることが第一歩ってことに、
心底驚いて、
その驚きは私の中にしっかりと残り、
その後の日常の中で根付いている。

誠実は相手に対して使うものだと思ってた私は、
もちろんそれも大事だけど、
まずは自分に使っていいということに、
本当に驚き、それが「身に付く」に
繋がったと思う。



「発見したことは身に付く」は、
使えるんじゃないか・・・、
そう思って、
参加者が、
自ら発見することが多いような講座を作ろう!と
私なりにトライしてみた。

その分、ワークが増えたので、
そういうことが苦手だったり嫌いだったり
する方は、いやだと思う。
いやだろうなと思いながら、
今のところ、やってくださっていて、
本当にありがたく思うんだ。

知らない同士が、
だんだんと深い話ができるようになってもらうため、
私なりに、体験してもらうものの順番などは、
いろいろ考えている。

まだまだ改善して、より良い講座を作っていきたいな。
工夫を重ねていくと、もう少し洗練していけるかも
しれないけど、
産みの苦しみの、ここ何回かのような感じは、
ここ何回かだけのものだ。
それをご一緒していただいた参加者の方には、
本当に感謝だ。

特に、今日の午前中には、
校長、教頭はじめ、
先生が全部で8人も参加してくださっていた。
日曜に、わざわざ、学校にきてくださっていた。
ありがたい。
本当にもったいない。

いやあ、なんとかがんばるぞ!
もっともっと発見していただけることが多い講座を
作っていきたい。








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必然的な落とし穴

【2010.11.27 Saturday 08:39
自分の浅はかさが元で、
大切な方を傷つけたり、
感情を波立たせたりしてしまうこと、
ある。

自分で分かっている以上に、
きっと自分の知らないところでは、
密かに、
私のふるまいや言葉で、
いろいろな想いをさせてしまうこと、
あるんだろうと思う。

そして、時々自分でそれが分かる時があり、
それが昨日起こった。

あ〜、大切な人を傷つけてしまった。

そんなつもりはちっともなかったけど、
傷つけないようにと、
回りくどいことをしたことが、
結局はそういう結論を生んだ。
私の本質的な欠点の表出だ。

以前、
友人Aとの共通の知人Bが、
Aのことをとてもほめていた。
それで私は嬉しくなって、
Aに、
BがAのことをほめているメールを、
Bの許可なくコピーして、
私のコメントも添えて、
送ってしまったことがある。

まったく、
浅はかな行為だ。

Aは内容そのものには喜んだが、
BのAに対する呼び方に腹を立て、
怒りのメ−ルをBに送信した。
Aは自分がそういう風に
呼ばれていることは知らず、
子どもっぽい呼び名に、
きっととまどったと思う。
また、Bはそのメールが
直接Aの目にふれることなど全く思わず、
その場での親しみを込めた呼び名の
つもりだったと思う。

私には、
「AとBの間に溝を作ってやれ」などというような
悪意はまったくなかった。
どちらかというと、
Bはこんなふうに、Aを評価しているよ!ということで、
Aへの敬意を表したいような、
そんな考えからの行動だ。

しかし、実際に起こったことは、
コレだ。
私の
無断でコピー→送信が、
してはいけないこと。
言い訳のしようがない。
悪い。

私の、浅はかさが、
2人の人を傷つけた。

これは一昔以上前の事件で、
でも私にとっては、
忘れてはいけない出来事だ。
そして忘れないように、
時々自分の頭の中に取り出して、
2人への申し訳なさと、
自分への腹立ちと、
情けなさと、
恥ずかしさを感じながら、
「私には、そういうバカなところが
 どうしようもなく、ある」と思う。
あ〜こう書くと、
反省している人みたいになる。
反省は、確かにしているが、
してしまった事実は消えないことは、
分かっている。

きっとどう書いても、
私の視点からになるなあ。
私の頭の中でぐるぐるしていること、
そのものが言葉になるといいのになあ。
同時にいくつもの考えや感情が流れていて、
とても平面では表現できない。

ま、それで、
また、昨日のようなことをしてしまう。
昨日の出来事は、
これほど浅はかではないが、
今考えると、もっと違う対応があった。

あ〜50歳になったのに、
全然だめだ。
学校の中の相談の活動も12年になる。
10年苦労すると、くろうと。
くろうと+2年にやっとなれたのに、
全然、だめ。

それにしても、
分かっているだけで、これだけあるんだから、
きっと自分には分からないところで、
いろいろな人に、
イヤな想いをさせているんじゃないだろうか。

私には、そういう所がある、
よかれと思って何かする前に、
もっといくつかの選択肢を考え、
そこから起こりそうな結果を導いて、
そして、どの方法を選ぶか、
決めなくてはだめだ。

今年、あと一ヶ月あるもんね。
がんばるしかないもんね。













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心の中だけのことじゃん。

【2010.11.25 Thursday 18:51
小学校6年生の体育が苦手な男子。
でも持久走を休んだことがない。
「えらいねえ」というと、
「いやだけど、やる」
と言う。
「そうなんだ、それは、すごくいいね。
 あ〜私もごはん作りたくないけど、
 作ろう!がんばろう!」
と言うと
「そうした方がいいよ」
と笑った。

持久走がイヤだと思う気持ちも、
ご飯を作るのイヤだと思う気持ちも、
心の中だけのことだもん。
いやだと思いながらやるってのが、
素晴らしい。




いろんな人となんとなくの話の中で、
私はよく
「大丈夫だよ。
 だってそれは心の中だけのことなんだから」
と言う。


 年老いた父親が一人で住んでいる。
 もちろん心配で、
 兄弟で交代に見にいってはいるけれど、
 時々面倒くさいなあと思う。

面倒だと思っても、大丈夫。
それは心の中だけのこと。
自分の担当の日程には
父の家にいって、
父親の話を聴き、
そして身の回りの世話をしている。
面倒だと思っている、
自分の心の中のことに、
責任をもつ必要はないよ。


 3人の子どもがいる。
 どうしても一番上の子が、
 よくわからない。
 もしかすると、
 あんまり好きではないかもしれない。
 子どものこと、好きじゃないなんて、
 母親として、これって、どうなんだ?

好きじゃない子がいても、大丈夫。
それは心の中だけのこと。
あなたは、他の子と同じように
ごはんを作り、その子の洗濯をし、
その子の授業参観に行き、話もきいている。
好きじゃないと思っている、その
心の中のことにまで、
責任をもつ必要はないんじゃない。


 上司が信用できない。
 何か命令されても、
 素直にやろうと思えない。
 時々、その依頼の仕方にも
 めちゃくちゃむかつく。

それも大丈夫。
素直になれなくても、むかついても、
それは心の中だけのこと。
あなたは、たとえいやいやであっても、
指示をされた仕事をやり、
チームの中の役割を果たしている。
心の中で思っていることに、
責任もつことないよ。





そして、いやいやでもやっていると、
なぜかちょっとだけ
心の景色が変わってくることがある。

いやだなあと思いながら始めた仕事に、
夢中になっているうちに楽しくなってきたり、
嫌いだなあと思う部下に、それでも丁寧に
対応しているうちに、いいところが見えてきたり、
口もききたくないほどむかつく夫のお弁当箱に、
それでも離婚はしたくないから、
ちょっとずつでも関係を変えようと、
最初はいやいや「毎日働いてくれてありがとう」と
メモを入れたら、
ある日「いつも、おいしいです。ありがとう」と返事がきて、
ま、いろいろいやなこともあるけど、
まっいいか、と思えたり。

感情はいろいろだけど、
行動はしていると、
その行動が感情に影響を与えたり、
行動の結果として良い感じになると、
そのことで感情が変わったりする。


だから、どんなことを思ったとしても、
それはこころの中だけのこととして、
そのことに気を病むよりは、
それでも行動していった方がましってことで。

小6の彼が、
「イヤでも持久走をやる」みたいに。

 

author : tanizawa-k
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飛躍してやしませんか?

【2010.11.24 Wednesday 22:08
中学校はきっとどこの学校もテストが終わって、
返ってきているころなのかな?

特に相談って訳じゃなくて、
何気なく話した一年の男子が、
「目標より合計で50点も下でさ、
 そしたら父さんが、
 そんな成績なら野球やめろって言うんだよ。
 そんな成績なら塾行けとか、
 毎日1時間机にすわれ!とか、
 そういうんだったらわかるけど、
 野球やめろって、
 どういう繋がりだよって話だよ」
とつぶやいていた。

だよねえ・・・、
と私も思う。

それって懲らしめるって発想なのかな?
好きなものをあきらめさせることで、
発奮して、好きではないことをやらせようと
いうことかもしれない。

お父さんの気持ちも分からないではない。
他のこともいろいろやってきて、
それでもきっと彼は勉強しないから、
奥の手って感じで、
野球を持ち出したのかもしれない。

でも、それは、
あまりいい影響を与えないのではないか?

懲らしめるっては罰だよなあ。
罰の弊害は、いろいろ言われている。

アドラーの子育て講座では、
罰の弊害を6つあげている。
①罰する人がいなければ、不適切な行動をする
②罰は関心を与えたことになり、
 同じ行動を繰り返す可能性もある
③罰では適切な行動を学べない
④罰は勇気をくじき、消極的、依存的な子どもにする
⑤罰すると親を嫌うようになり、
 人間関係が悪くなる
⑥チカラが逆転したときに、罰を使うようになる


この野球少年の彼と父親の場合なら、
③はあるし、
④もあるかも。
⑤も、⑥も。


めざしていた点を取れなかった。
その時点で子どもは子どもなりに考えたりしている。

そしたら、まあ、叱って、
十分反省してもらうのもいいけど、
だからって好きなものを取り上げるという
飛躍をするより、
どうしたら点が取れるようになるのか、
適切な行動の相談に
のってあげればいいんじゃないかな?

その方がシンプルじゃん。

ちなみに、彼は、
ちゃんと自分で
自分の改善点が分かってた。

とはいえ、
親子という関係の中では、
そんなにキレイ事ではいかない場合もあるかも。
それはそれで、分かるな。


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間違っても大丈夫な雰囲気。

【2010.11.23 Tuesday 21:51
今日は、学びの場で、いきなり間違った。

そこには多分、40人くらいの人がいて、
ある指示のもと、名札を書いた。
そのとき、40人くらいの中で、
私だけ指示に対し、間違った対応を
してしまった。

私はこういうことはあまりないが、
この間違いは
私の本質をつく間違いで、
私の「思い込み」の問題だ。

やっちゃったあ!と思ったその瞬間、
ファシリテーターは言った。
「あなた、先いってるね」

そう言われた途端、
間違ったというより、
わかっちゃってるからこその間違い!!!と
思えて、
凹むよりなんだかうきうきしてくることを
感じた。

間違っても大丈夫な雰囲気作りは、
「間違ったって、いいんだよ」と言葉で言うことよりも、
こういうことだと思った。

間違ったとしても、
そのことが凹みの原因になるのではなく、
勇気づけられる元になるような声かけ。

そのことが可能なんだって、
今日のファシリテーターの一言で、
わかった。

今日私が学んだのは、
TRUE COLORS  の応用講座、
「リーダーシップとチーム作り」。

4つのカラーがチームに
どんなふうに貢献できるか、
そして自分のカラーを発揮しながらリーダーシップを
とるにはどうしたらいいか、
さらに、弱みはどんなことで、
そのことに関するサポートはどんなことが必要か
などを学んだ。

私は今所属しているいろいろなチームのことを
頭に置きながら講座を受けたが、
チームによっては、
自分の第一カラーではなく、
期待されているカラーを使ったり、
あるいは、
そのカラーの色を出した方が自分が楽だからという理由で、
あるカラーを演じていることもある。

でも、今回、
そのどの自分もかわいいなあと思った。
そして、
たとえ仕方なくやっているカラーだとしても、
そのカラーをやることで得ているたくさんのことを
思った。
しかも、
他のチームのメンバーも、
その場に貢献するために、
それぞれが考えて動いてくれていることも、
理解できた。

特にリーダーという役目を
担わなくてもよいチームもあるが、
しかしメンバーの一人として、
リーダーシップを発揮することはできる。

そんな時に、
できれば自分のカラーもいかし、
メンバーの一人一人が自分を活かしてもらえる
そんなチームを作っていきたいな。
しかも、そのことでチームそのものが成長し、
変容していく、そんなチーム。

そんなチームにしていく元のもとは、
安心感。

間違っても大丈夫!というような安心感。

今日のファシリテーター ハワード・カツヨさんも、
尊敬するファシリテーターの一人だ。

そして、いろいろな講座を受けるたびに、
いろいろなファシリテーターに出会い、
それぞれの豊かな個性に出会う。
そして、大いに勇気づけられるのだ。








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「ゴッホ展〜こうして私はゴッホになった」

【2010.11.22 Monday 18:16
今回の「ゴッホ展」は、
私たちが知っているゴッホに、
ゴッホ自身がいかに模索し続けながらなっていたのか、
その過程が明らかになっていて、
とてもおもしろかった。

ゴッホは最初から偉大な画家ではなく、
いろいろな画家から技法やマインドなど、
教えを受け、学び取り、真似をしながら
成長していったのだ。

で、私は今回、音声ガイドを借りた。
安住さんがナレーションを担当していたのだが、
これが結構よかったと思う。

安住さんの説明を聴きながら見た絵の中で、
2点印象深かったものがある。

1点は
「じゃがいもを食べる人々」。
これはリトグラフで、
農民たちが一日の労働を終え、
家族で食卓を囲んでいる絵。
みんなが食べようとしているものはじゃがいもだ。
ゴッホは彼らの手をいかに描くかにチカラを
注いだそうなんだ。
まじめに働いたその正当な成果としての、
今日の糧のじゃがいも。
彼らの手は、今食べようとしているじゃがいもを、
作った手でもある。
ゴッホがこの絵を描くことで表現したかったことは、
そのことだったんだそうだ。

じゃがいもといえば、
この頃描いたじゃがいもと、
3年後、アルルで、
今私たちが知っているゴッホらしい色彩で
描いたじゃがいもは、
全然違う。
その比較もおもしろいかも。

もう1点は、「ゴーギャンの椅子」。
南仏アルルで、
彼は独自の様式に到達することになるのだが、
9週間に渡り一緒に暮らした
ゴーギャンから教わったことは、大きかった。
見えているものだけ描くのではなく、
見えていないものも描くようにと教えられたゴッホは、
ゴーギャンがいつも座っている椅子を描くとき、
ゴーギャンの姿は描かず、
しかし、
ゴーギャンの椅子だということを表したいと考えて
描いたそうなんだ。
暖かみのある色使い、背景は深いグリーン、そして
どっしりと存在してるその構図。
ゴッホがゴーギャンをどんなに大切に想っていたかが、
伝わってくる絵。


そして私の今回の一番好きな絵は、
「マルメロ、レモン、梨、葡萄」という油絵。
黄色を基調とする色彩の中で、
微妙や色使いや、筆の運び方で、それぞれを描いている。
巨匠たちから学び、
新進作家たちの色彩の使いを学び、
点描の手法や、薄く塗り重ねていく技法や、
様々なことを取り入れていった先にあるといえるような
見事な一枚で、
思わず絵はがきを大人買い。


ゴッホがゴッホになっていくには
理由があって、
確かに才能はあったかもしれないけど、
それは芸術的な才能だけではなく、
絵に関することにどん欲であるという才能や、
表現することにかけては、
努力を継続できる才能や、
純粋いられるという才能だったのかなあ
なんて、
そんなことを考えました。


author : tanizawa-k
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映画「エイト」

【2010.11.22 Monday 12:21
全く、結局、新聞読んでないな,私・・・と思った。
というか、読みたいところだけ読んでるんだろうか・・・。
世界の中のことで、
知らないことがいっぱいある。

映画「エイト」は、
2000年9月に開かれた
国連ミレニアムサミットにてまとめた目標に対して、
その達成のために8人の映画監督が製作した短編映画の
オムニバス。

私は恥ずかしいんだが、
国連のミレニアムサミットのことも知らなかったし、
そこで8つの目標がまとまられたことも知らないし、
だから、8つの目標の内容さえ知らなかった。

ミレニアム開発目標は「MDGs」と呼ばれている。

その1
「極度の貧困と飢餓の半減」
その2
「普遍的初等教育の達成」
その3
「ジェンダーの平等の推進と
 女性の地位向上」
その4
「乳幼児死亡率の削減」
その5
「妊産婦の健康の改善」
その6
「エイズ・マラリア、その他の
 疾病の蔓延防止」
その7
「環境の持続可能性の確保」
その8
「開発のためのグローバル・パートナーシップの
 推進」

映画はひとつの目標について、
ひとつの短編という構成。
目標の期限は2015年。
しかし、足踏み状態の目標もあるし、
目標自体が忘れられているのではないかという
危惧を抱くものもある。
監督自身のオリジナリティはもちろん、
多分担当したテーマによって、
設定したポイントが違うのか、
短編のひとつひとつの手法が
まったく違うものになっていて、
それもとてもおもしろかった。

たとえば妊産婦の健康の改善は、
アジアの奥地に住む民族の協力を得て、
子どもを身ごもった女性が、
貧しくて、医療も整っていない中、
出産時に亡くなってしまうストーリー。
これは、どちらかというと、
観客に、
「こういう現実を知っているはずだ。
 意識して、行動していこう」
というメッセージを感じさせる。
つまり問題としては分かりやすいものだし、
訴えかけも常套な感じを受ける。

それに対して
ジェンダーの平等の推進のテーマでは、
子どもがいる女性が、
夫と別れ、子どもを残し、
愛する男性と住む意志を貫くストーリーを描いている。
そのことを取り上げることがすごいことだと私は思った。
子どもがいても、宗教がどうであっても、
自分の生き方を自分で選び決めていい。
性差に関係なく、自分のことは自分で決める。
そしてそのことに責任をもつ。
それを
この事例で表現することの深さ。

「子どもがいる女性が自分の心に正直になる」
という事例に、
私がひっかかるところに、
性差別が私の中に全くないわけではないことが、
自分で分かる。

見た人に、自分の中にある性差別のチェックを
させてしまうチカラが、
本当に短いストーリーの中にあると思った。

最後の短編は、
社会起業家でノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌスさんが
作ったマイクロクレジットのことを通じて、
私たち一人一人がすぐにでもできることを
訴えかけてくれるもの。
国連も、いろいろな国も、支援のためにできることを探し、
目標達成のために努力することは大切だけど、
だからって個人が何も考えなくていい訳じゃないと、
繰り返し
「Keep the promise!」とメッセージを投げかけている。

U2のボノは
「貧困者を救うと約束したはずだ。
 僕たちが関心を持たないと実現は先延ばしに・・・」
と言っている。

知らなかったのは仕方ないけど、
知ったのだから、関心を持ち続けたり、
もっと知る努力は怠ってはいけないと思う。

上映時間1時間半の中で、
いろいろなことを考えさせられる。
渋谷のアップリンクXにて上映中。





 

author : tanizawa-k
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レッテルを張りそうなるところを、こらえる。

【2010.11.19 Friday 14:49
取り組んだことが成功すると嬉しい。

しかし、そのせっかくの成功の体験の中に
とどまることは、
とても残念だ。


内田樹先生が先日のブログの中で、

 「私には知らないこと、できないことがあります」
 「教えてください」
 「お願いします」
 これだけ。
 これが「学び」のマジックワードである。
 これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。

と書いているが、この姿勢こそ大切だと思う。

成功体験を重ねた人が、
その成功した自分の方法にとどまり、
それでいいと思ってしまった時点で、
それはデンジャラスゾーンに突入したことになる。

「私には知らないこと、できないことがあります」
というスタンスではなく、
「私のこの方法こそ、成功をもたらせるものです。
 私はその方法を知っているし、いつでもできます」
というスタンス。これが危険なんだ。

これは危険なんだけど、
だからって、その方法をとっている人に、
非難的な対応するのは、
こちら側のアサーティブネスが問われる。

大体、その方法をとっている人と、
そう決めつけた時点で、
私が危ない。




たとえば、
学校の先生の中には、
これまで自分のやり方でやってらして、
それで学級経営をうまくやってきた経験があって、
その経験が長くなると、
それで通そうとされる方がいる。

しかし、学校の児童生徒は、毎年同じ児童生徒ではない。
昨年のクラスで成功した指導方法が、
今年のクラスの子どもたちの心に
届くかどうかはわからないのだ。

そんな方の中に、
これまで特別支援を要する子どもと出会ったことがなく、
しかし今年度のクラスでは
発達にアンバランスがある子どもたちが複数名いて、
クラスが相当混乱しているのに、
そのまま突っ走られている方がいたりする。

それはSCとしては見逃せない事態だ。



しかし、そこで問題になるのは「私」なのだ。
私のアサーティブネスが問われる。



その先生は年齢的に上であり、
また経験も長い方だ。
しかも、経験に裏付けされた自信をお持ちだ。

その方に、どう、コミュニケーションをとっていくか!!!


しかも、
だんだんクラスが荒れてきて、
在籍している子どもが落ち着かなくなって、
多分、先生ご自身、相当困られていても、
同僚にも、管理職にも、
特別支援コーディネーターの先生にも、
「困っている。助けてほしい」とは
おっしゃらなかったりする。

職員室の中で、
「何度言ってもいうこときかない、
 あいつらがなぜ、オレのクラスなんだ!」
的なことをつぶやくぐらいだ。

私の本来の役目は、
「何度言っても伝わらないのなら、
 違う方法をとってみませんか?
 この方法で対応してみて、様子みませんか」
と改善策をそっと差し出すことだと思う。

しかし、誰の、どんな支援もいらないバリアを
はってらしゃる方に、
話しかけるのは至難の技だ。

いかにその方との関係を作っていくか。
私のアサーティブネスが問われる。



たまたま職員室で会えたときには、
世間話をするところから話しかけてみる。

時期を見て、
「この間、隣のクラスに児童観察にいったのですが、
 先生のクラスの丸々さんも出歩きが激しいですね。
 いかがですか?」
と問いかけてみる。

「ちゃんと、指導していますから、
 大丈夫ですよ」と、
たとえ反応されてしまったとしても、
チャンスを伺う。


そして私は自分をチェックし続ける。
その方を、
「これまでのご自分の方法を変えないで
 学級経営をされている頑固な先生」
という視点でとらえた瞬間に、
その方のバリアは何重にもはられるだろうということを
肝に銘じる。

「成功体験の中に生きている先生」と
私の頭の中でその方をとらえた時点で、
その方の心のシャッターはバタンとしまるだろう。

今まで、長い間、
子どもたちのことを考え、
彼らの成長を支援しようと、
教職という仕事を一生懸命にやってこられた方。
私とは方法や考え方は違うけれど、
彼は彼の考えや方法がある。そういう方。


この事態を見逃してしまったら、
それはSCとしての職務が問われる。
だからといって、
「変わってください」では、
私のアサーティブネスが問われる。


伝えたいことを、
押し込めるのでもなく、
ぶつけるのでもなく、
伝わるように伝えよう。

子どもたちに
いきいきと生活してほしいからこそ、
そしてその先生にもご自身を
いかしてほしいからこそ、
私は私の大切な仕事の中で、
いい仕事をしたいからこそ、
アサーティブネスの出番なんだ。









author : tanizawa-k
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谷澤 久美子
counselor