「うちらのこと?」 【2010.01.31 Sunday 21:25】 |
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「書き手の人称代名詞や常体敬体の使い分けで、 書かれるコンテンツまで変わってしまう」 と、内田樹さんの「日本辺境論」に書かれていたのを 読んでから、自分を何というのかということが めっちゃ気になる。 女子たちは、何年か前から自分のことを 「うち」という子が多くなっている。 小学4年生くらいからではないか? もちろん、授業で発表するときや、 作文を書くときには「私」と表すが、 普通に話しているときは「うち」を使う子が、 多いと思う。 これって、何年くらい前からかな? そのころ、何かがあって始まったのかな? 「私」ではなく「うち」を選ぶのは、 どういう気分を表したいのかな? そういう私も、このブログの文体を、 時々変えている。 「だ」「いる」のときと 「です」「ます」のときがあって、 それは自分で選んでそうしていると思う。 おもしろいぞ、日本語。 以前友だちと飲みながら、 男性の話し言葉について話したことがある。 私が 「なんとかだぜ」と言う、 その「だぜ」が好きだなあと言うと、 周りに「だぜ」を使う人がいるかどうかという話になった。 彼女の周りに一人いて、 それから彼のことを、 二人の間では「だぜ」と呼んでいる。 「だぜ」と飲みにいくよというような 使い方。 今日は1月最後の日だ。 今月読んだ本は、上の「日本辺境論」の他に、 河合隼雄先生の 「カウンセリング教室」。 カウンセリング教室については、 あらためていつか書こう。 映画はレンタルでいろいろ見た。 「それでも恋するバルセロナ」は、 ベネロペ・クルスのはすっぱっぷりがすごくよくて、 こんなふうに、動物的に生きられたら、 それはそれで大変だけど、 今とはまったく違う人生で、 そんな自分も見たいなあと思ったりした。 スカーレット・ヨハンセンもなかなかよい。 この前衛星放送で幼い時の彼女の映画をみたが、 随分大人になったものだ。 「最高の人生」はモーガン・フリーマンが出演しているが、 「最高の人生の見つけ方」とはまた違う。 ホリー・ハンターも出演している。 テーマは、どんなに罪を悔いても、 犯してしまった罪をなかったことにはできない。 でも、生きていくのだ・・・ 的なことだと思う。 でも、それにしては 主人公の行動が疑問なのだ。 少年の頃に犯した罪をあれほど悔いているのなら、 あり得ないような行動をする。 原題は「Levity」。 辞書でひいたら軽卒、軽はずみというような意味とのこと。 なのになぜ「最高の人生」? 「幸せになるための恋のレシピ」は、 オドレイ・トトウの不器用な感じがとても素敵。 好きになった男性の勤めるレストランがつぶれてしまい、 その土地を離れることになったとき、 どうしても「行かないで」っていえない彼女。 深い関係になることが怖いけれど、 それは頭で考えていることで、 心の中は彼のことが好きで仕方ない。 そんな女性を、本当にかわいらしく演じていて、 とってもいい。 彼女は画家志望の女の子の役なんだけど、 彼が描いている人物画も、すごく素敵。 映画館で見た映画は「正義のゆくえ」。 アメリカの移民の問題を、 いろいろな視点から考えさせてくれる映画で、 「扉をたたく人」を見た人は、 一層「移民」について考えることが できると思う。 移民、移住民については、 私たちもしっかりと考えねばならないことだ。 外国人の地方参政権のことは最近よく議論にあがるし、 それと同時に帰化の話題も出てくる。 さてさて、明日から2月。 2月は今のところ、 丸々一日休める日が、 土日を含めて2日しかない。 映画を見れたらいいなあ。 どうかなあ? |
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author : tanizawa-k
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