2009年11月の記事 | 今のところではありますが…
失ったものに、足元すくわれちゃいそうな時。

【2009.11.30 Monday 15:39
ここのところ、年を重ねていくことについて、
しみじみと考える機会が多い。

たとえば我が家の犬のバーニーは
この12月15日で生まれて10年になるが、
人間でいえば60歳くらいらしい。
寒くなってくると、
私のベットに乗ってきて寝るのだが、
先日、夜中にキュルキュル言っているので
何かと起きれば、飛び上がれなくて困っていた。
散歩にいっても、夏までとはちょっと変わってしまった。
彼も自分の年齢とどうつきあっていくか、
今バランスをとっているんだと思う。

夫の母も、ここのところ急激に
忘れやすくなっている自分に、
すごく不安を感じているようで、
ずっと飲んでいる薬を処方してもらうのを
忘れてしまった日の夜には、
自分の頭を軽くコツコツたたいていた。
私がその日の朝に、「今日は薬の日ですね」と
一言言えば、そんな想いはさせなかったのにと
思うと申し訳ないし、
すごくせつなくなる。

私は49歳。
もう白髪は一ヶ月に一度染めないと、
自信をもって人前にたてないような状況だ。
乾燥が激しくて、お風呂の後でたっぷりクリームを
ぬってあげないと、かゆくてたまらなくなる。
かかとは手入れをさぼるとすぐにガサガサになる。
からだはどんどん硬くなり、
脳の回路のつなぎっぷりも、ゆっくりになっていると思う。
本を読んですごく感動しても、
感想を書こうとするときには、
どこに感動したか忘れていることもある。

土日の研修は
人としてのあり方の深いところを考えるもので、
内容を書く事はできないが、
ワークの中で、自分のからだのことや
年齢とどうやってつき合っていくかを
考える部分があった。

私は自分のからだのことを、隅から隅まで考えて、
そんなことをしたのは初めてだと気づいた。

そうやって意識すると、
私のからだは、いろいろな記憶をもっている。

私は小さいころ、
よくおねしょをした。
両親ともの祖父母にとって初孫だった私は、
両方の祖父母に心配をしてもらった。
鳥を飼うとおねしょが治るとどこからか聴いてきた
母方の祖父は鳥かごともにプレゼントしてくれた。
父の友だちとスキー旅行にいったとき、
ホテルでおねしょをした私の始末を
照れくさそうにしてくれた父のことも
はっきりと覚えている。

小学校の運動場で、金網に足をぶつけて、
くぎが腿にささってしまった。
忙しい母に代わり、なぜか妹が病院についていってくれて、
けがを縫うところを、じっとみていた彼女は、
医者や看護士さんにびっくりされていた。

視力はすごくよくて、
学生時代山の手線のホームで、
向こう側のホームの小さなな文字を読んで、
友だちをびっくりさせた。

30代の半ば、
私は約2年間に渡り不妊治療をしたが、
そのときの苦しかった時間を思い出した。
卵管に水や空気を通す治療は、
気が遠くなるほど痛くて、
そのあとは腰を曲げたままでなければ歩けなかった。
ホルモンの注射は私の背中に吹き出物をたくさん作り、
お風呂に入ったあと、自分の背中を見るのが、
すっごく辛かった。

土曜日の夜に見舞った友人のパートナーが、
帰りがけに、小さな声で「ありがと」と二回言ってくれた。
そしてかすかに腕をあげて「ハグ」と言ってくれた。
彼の胸に顔を寄せると、
彼は力のない腕で、でもかすかに力をいれてくれて、
私の肩をだいてくれた。
私の肩は、彼の細くなった腕をはっきりと感じた。


私のからだの、
どの部分も、私と一緒に生きてきた。
幼い頃の遠い記憶も、
ついさっきの記憶も、
私のからだは私の中に刻んでいる。

そうやって生きてきたこれまでと同じように、
私は、これからも生きていくんだと思った。
そう思うと、
なさけない思いを経験させてくれた膀胱や、
辛さを味あわせてくれた卵管や、
ぱっちりはしていないけど、
しっかりと働いてきたくれた目が、
なんだか愛しくて愛しくて。

バーニーや夫の母親が、
自分のペースで老いを受けとめていく隣で、
私も私なりに、
自分の年とつき合っていけたらなあと思うのだ。



映画「理想の彼氏」は40歳で離婚し、
自分のキャリアをスタートさせた女性
(キャサリン・ゼタ・ジョーンズが演じてる)が、
25歳の青年と恋におちる映画だった。

年齢の違いにとまどいながらも恋愛を深める二人だが、
彼女の方が、彼と対等になれない自分を感じて
別れを切り出す。
すばらしい仕事も、美貌も、スタイルも、
かわいい子どもたちも、セレブな仕事仲間も、
なんでももっている彼女だが、
「若さ」は過去のものになっている。
彼女は、今ここにもっているたくさんのものより、
たったひとつないこと「若さ」だけに
とらわれてしまって別れを決めるのだ。
それはすごくよく分かる。
なんてたって、これからの人生の長さだって、
きっと違うのだもの。

納得いかない彼だったけど、
彼は彼なりの時間をすごして、
5年後、再会する。

そして、やっぱり二人はパートナーなんだと
確信する。





私も、
失った体力や、もどってこない記憶力や、
しなやかさ(もともとあったかどうかは疑問!)など、
今手にできていないもののみに、
視点がいくことがある。
それらがないことは事実だけど、
そのことだけにとらわれるのは、いやだと思う。
事実は受け止めて、
でも、
今ある自分の、
私の歴史のつまったからだを大切にしながら、
その時その時、やるべきことや、やったほうがいいことを
やっていきたい。

そして、時々、がんばってきた自分に、
優しい時間をあげようと思うよ。

失ったものに、
足をすくわれちゃいそうになった時ほど、
自分に優しくしてあげたいなと思うんだ。


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チャージしつつ、走る。

【2009.11.27 Friday 21:26
いやあ、今週は4日間とはいえ、
緊張と集中のいる仕事の連続だった。

そんな中、私をリラックスさせてくれた
飲み物がコレ↓。
成城石井さんで手にいれた、何やらからだに良さそうな飲み物。

コレ↓には笑った。
静鉄ストア草薙店で、ちょっと前まで1000円
以上していたこの飲み物が、
賞味期限間近のワゴンにのっていて、
なんと950円引きの100円で販売していたのだ。

思わず買った。
結構おいしい。

また毎晩明日のための準備があって、
できるだけ夕飯は手抜きに。

そんなとき、めちゃ役立ったのがこの鍋↓。


とんがり帽子みたいな蓋のこの鍋は、
蒸すことが得意。
でも鍋料理にもとってもいい。

昆布で出汁をとって、
こんにゃくや大根や里芋を煮て、
ゆず味噌でいただいたが、
とくに里芋が、なかなかよかった。
テンションがあがる鍋なのだ。



この間、ブログの記事に書いた事以外も、
いろいろなことを考えていた。

内田先生はブログの中で
コミュニケ−ション能力が
手っ取り早く身に付くプログラムなんてないと書いていて、
私もまったくその通りとうなずき、
大体子どもに手っ取り早く身につけさせようと考えている人が
いるとしたら、その考えが間違っていると思うし、
これさえやれば大丈夫なんてものがあるはずないと思う。

と一人、パソコンの画面を見ながらぶつぶつ言い、
そしてうまくいかないながら、自分でそれでも努力
し続けることこそが、コミュニケーション能力を
伸ばすのよと思う。



西村さんの「自分らしく生きる」の中には、
悪気はないが操作しているときがあることが出ていて、
深くうなずく。
人の「つついたところが大きくなる」
という習性を利用して、
子どもが何かをできたときに、
「○○できたね」と認めるコミュニケーションは、
表面だけをもっていかれてしまうと、
子どもを操作する方にいくのだ。
子どもはまたほめてほしいからがんばる。
子どものありのままを認めて、
その子らしい成長をサポートする
というところを理解してもらってないと、
子どもをコントロールする道具に、
コミュニケーションのスキルは
いとも簡単に、なってしまうのだ。

そんなことも考えた。

と、今日の毎日新聞の夕刊で、
「子どもの自殺」についての特集あり。

ここには、大人に対して、
ネガティブな感情を出せない子どものことが書かれている。
大人が求めているキャラを演じる子どもは、
学校用、家庭用、友だち用など、
いろいろなキャラを使い分けていると書かれてる。


今日私がお話をした学校は、
他の学校と同じくインフルエンザの第二波がきていて、
本来は全校道徳だったはずだが、
感染の予防のため、学級閉鎖あけの3クラスのみの授業となり、
他のクラスは全部帰宅した中で行った。

この学校は、
大きな問題などおこらない
落ち着いた学校だ。

だから、自分たちだけが授業があるという、
中学生だったら「不公平じゃん」みたいな状況でも、
にこにこと、それでいてまじめな表情で、
全員がしっかりと前をむいてくれている。

す、す、すごい!

私が最初に、
「こういう状況の中で、自分たちだけ授業なんて、
 なんでオレらばっか?とか、
 きっとめんどくさいとか、
 早く帰りたいとか、
 いろいろな気持ちや考えが心の中にあると思う。
 もし、そう思ったとしても、
 そう思うのも、みんなが健康な証拠。
 そう思ってOK!
  でも、そう思いながらも、でも、
 今やるべきこと、ここに参加して、
 前をむいていること、それがすばらしい」
と言うと、
ちょっとびっくりしたような、
そして安心したような顔になっていた。

私が今日言いたかったのは、
ほとんどこれで十分って感じ。
最初の5分で。


私は小学生とか、中学生は、
そのことだけで十分と思っている。
そのこととは、
自分と自分自身の感情をわけ、
感情と行動もまた別だということを、
言葉にして伝えること。そのことだけ。
でも時々、もう少し踏み込んだ授業も
しなくてはならないときもある。
最近やっとやっと、
なんとか折り合いをつけて、
これもありかな?
くらいの感じでやっているが、
葛藤はあるのだ。


昨日のNHKで
子どものコミュニケーションのための
取り組みを特集していて、
その中で、ある小学校で1年生から段階的に
授業をやっていることを紹介していた。

1つのテーマをみんなで話す。
その時「私は○○と思います。なぜなら〜〜〜」という
形を使って自分の考えを話すのだ。

それができるようになると、
3年生くらいからは、話し合いの中で、
自分が話したことや、聴き取ったみんなからの意見を、
まとめるという作業をやる。

そして、高学年になると、
さらに、そこから自分の意見を豊かにしていく学びがあるらしい。

どうせやるなら、
時間をかけて、
そのぐらいのことをやらないと、
いかんよなあ。

ま、そんなことも思いながら、
そう、私の中にも、
いろいろ情報がうずまいて、
いろいろな考えが浮かんで散らばり、
感情も複雑でありながら、
それでも、目の前の子どもたちに、
話した。

はあ〜。今週の仕事が終わった。

明日あさっては、自分の勉強で
東京です。











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引き寄せました。

【2009.11.26 Thursday 21:25
評価:
西村佳哲
バジリコ
¥ 1,470
(2009-09-17)

火曜日も水曜日も、
子どもたちの前で話したのだが、
なんとなく上手く話せなかった。

中学生の子どもたちは、
本当におもしろいほど、
「つまんない・・・」
「関係ねえし」
みたいな態度を表してくれる。
これは、それを表す彼らが悪いのではなく、
それを知っていて、
彼らを引きつける話ができない私が悪い。

それも、さすがに二日続くと、
情けない思いが押し寄せてくる。

そんな私にこの「一文」だ!

「どんな結果を得るにせよ、
 優れたフォワラーであるより、
 つまり他の誰かみたいになるより、
 自分自身を社会に差し出してみる方が、
 少なくとも後味はいいんじゃないか」

子どもたちは、私にフィードバックを表情でくれた。
つまりその瞬間は彼らはフォワラーだ。
私はその時、自分自身を社会に差し出す人だった。
あんまり上手くはできなかったけど、
でも、差し出すことに価値がある。
と私は自分に声を掛けるのだ。
そして、
私は顔をあげ、目の前でお茶を飲んでいる夫に、
「あ〜なんだか、今日の私のことがわかってて、
 この本を書いてくれたみたいな本だよ」と言う。

夫は「あなた、おめでたいね」的な顔をして私を見る。

この一文をキャッチしてしまったが最後、
この本からは次から次へと、
私の仕事にも関係が深いし、
また私の仕事のやり方、スタイルにもヒントを
与えてくれる考えが、湧いて出てくるのだ。

この本は、自分はどこまで自分なんだ?的なことを、
主に、仕事とか働くとか、生き方とか働き方を視点に
考えている本だ。

そして、断言できないもどかしさを感じながらも
あいまいにおいとく部分もあって、
ものすごく寛容な柔らかさがある。
鷲田先生みたいだなあと思って、
気持ちよく読んでいたら、あとがきに、
著者の、
どこまでが自分?のような
もやもやしたことを考えているってことを
一番最初に聴いてくれたのは鷲田先生だった
ってことが書かれていて、
なるほど!と思う。

この本の中には、
どこまでも自分に近い仕事をみつけた人や、
そういう働き方をしている人を
紹介している。

その中でアメリカでインを経営している女性が
紹介されていて、
その方の言葉で、
「その時その時自分が正しいと思ってやってきた
 ことが、何かこういう結果に繋がっているとしか
 いえない。つまり目標よりプロセスを重要視して、
 歩きながら行く先を決めていくようなスタイルね」
というのがあった。
私にはこれも新鮮で、できたら目標を決めたい派の私は、
でも、それもありだし、
そういわれてみれば、これまでの自分も、
とりあえず、目の前のことを必死にやっているうちに、
なんとなく進んできたこともあるよなあと思う。

彼女は
『はじめればはじまる』『はじめないかぎり、何も
 はじまらない』というメッセージを発してくれている。

こんなふうに、登場する人々は、心に残るメッセージを
次々と発してくれて、
結局私は、もったいないと思いながらも、
一気に読んでしまったのだ。



そして今日。
小学校5年生の一クラスに、
「いらいらしたとき、どうしたらいいんだろう?」という
授業をした。

私は私自身を差し出してきた。

昨日、引き寄せてしまったこの本の中の、
いろいろなメッセージに背中を押してもらって
「いらいらしたとき、どうしたらいいんだろう?」
ということを通して、
どこまでも自分を大切にしていいんだということを
話してきた。

なんか、すっきりと、
私なりの話ができたんじゃないかと思う。

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昨日と同じことをするのを、やめる。

【2009.11.25 Wednesday 11:42
私のカウンセリングの師匠が
日本アドラー心理学会の野田先生を
静岡に呼ばれたのは、
10年以上前のことだと思う。

野田先生の講演は、すごくおもしろくて、
笑ってばっかりの記憶なんだけど、
すごく大切なこともたくさん教えてくださった。

その中で、記憶に残っているのが、
「性格を変えようとしなくていい。
 昨日と同じことをするのをやめることだ」
というようなことをおっしゃった。

このことを、私の師匠は、
そのあたりにある大きなものをもちあげて
説明してくれてた。

1つの大きな物をもつ。
それは両手でなければ持てない。
他のものを持つには、
一度、今もっているものをおかねばならない。

そういうことを視覚で見せてくれた。

さっきまでその荷物を持っていたからと言って、
それを持ち続けないといけないことはない。
他の物をもつには、置くことだ。



以下は自分に言い聞かす。

母に対して優しくできない時があったとする。
そのことを、変えた方がいいのではと思っている。
そしたら、
優しくしようとするというよりは、
帰宅した後、忙しそうなふりをして階段をかけあげるのを
まずは、やめればいいんんだ。
そして大きな声で
「お母さん、ただいま。今日はどうだった?」
と声をかければいいんだ。

帰宅後、夕食を作りながら、
なんとなくいろいろなものを食べる。
でもやせたい。
あごが二重になりつつあるのだ。
だとしたら、
やせようと考える前に、
お菓子などを購入することをやめるのだ。
たとえ購入してしまったとしても、
食べようとするとき、
「別にだらしない自分を変えようとしなくていい。
 でも、これを食べるのは、今はやめる」と
そこにおくことだ。

こんなふうに、
昨日までの自分よりも、もう少し成長したいなと
考えていたら、成長したい部分を考えて、
その中で、それに差し障りがある行動をやめると決める。
そしてやめるのだ。

昨日までやってきた、
ながらパソコン、
書斎のぐちゃぐちゃの見て見ぬふり、
次の日の講座を前日に準備すること、
変えたい部分は、たくさんある。

変わるのを待つのではなく、
何をやめるか自分で選ぶ。

昨日と同じことをしなくたっていいのだ!





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第三の道

【2009.11.24 Tuesday 09:43
今日、事業仕分けの後半がスタートするようだ。
一事業について一時間で、
そのままにするのか、
見直しにするのか、
廃止するのかを
決めるのだから、
本当にしんどい話し合いの場だと思う。

でも、そういう限られた時間内で
決定をしなければならない中でも
「見直し」という選択肢があるのは
救いだと思う。

私はこれを
「見直してより建設的な方法を探す」
というふうにとらえたい。
つまり、YES でも NOでもない第三の道だ。

第三の道というか、
第三以外にも
第四も第五も、
選択肢は、私の前にも、あなたの前にも、
たくさんあることを分かっていたい。
正しいか間違っているかでもないし、
良いか悪いかでもない。

生きるか死ぬかではなく、
逃げるや、
休むや、
そのままじっとしとくや、
ちょっとやってみて考えるや、
とにかく私たちの前には、
いろいろ選べる道があることを、
心底わかっていたのだ。

今日の毎日新聞に、
11年連続で自死を選んだ方が
3万人を超えたという報道があった。
その方法しか選べなかった方々が、
どれほど無念だったか!!!
と思うと、胸が痛い。

そして、この記事には
自殺防止の活動をしているグループの紹介がある。
「自殺未遂者が、ボランティアや牧師、
 僧侶、行政職員らとともに活動する
 『自殺のない社会づくりネットワーク
  ささえあい』(03−6803−2527)
 が先月発足した。メンバーは50人で、
 自殺未遂者の声を聞き、活動に反映する。
 『死にたい』ではなく『逃げたい』ー。
 自殺志願者の本音だという」
という箇所があった。

このグループはきっと、今
生きるか死ぬかと考えている方々に、
たくさんの「逃げ方」があると伝える
活動をされているんだと思う。
すばらしい活動だと思う。


「逃げる」のは、
逃げ出すと考えると選びにくいかもしれないが、
「方向転換する」と考えると、
少し選びやすくなるかも。
言葉の上のことだけど、
たとえささやかな気休めであっても、
ちょっとでも「逃げる」ことが選びやすくなるなら、
それを採用してほしいなと、
私は本当に思うんだ。

命あってのものだから。



私は、
今週は毎日
中学生や小学生に授業をする機会を
いただいている。
「おまえが正しいっていうなら、
 おれが間違っているのかあ!」的な
コミュニケーションではない、
「どうせ私の意見なんか、きいてはもらえない」
というコミュニケーションでもなく、

お互いの意見は確かに違うけど、
一緒に考えると、もっともっといい考えが浮かんだね!
的なコミュニケションが可能なんだということを、

一生懸命に伝えてきたいと思っている。

正しいか間違っているか、
積極的か消極的か、
派手か地味か、
白か黒か・・・じゃなく、
そうじゃなく、
第三の道以上に、
私たちの前にいろいろな可能性はあるのだ。

それは、自分のことだと見えにくいから、
その手助けをできるような、
そんなね、
授業になるといいです。

とはいえ、午後一の授業のために、
今もまだ苦しんでいる私です。

 


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夫の母校が花園へ!

【2009.11.22 Sunday 16:01
夫の母校の静岡聖光学院ラグビー部が
静岡県大会で優勝した。
応援に行ってきたが、本当に嬉しい。

夫もラグビー部だったので、
先輩ってことになるのだが、
その頃と、今の彼らとは全然違うらしい。

今年の秋、
この部活のことはテレビで特別番組が放送された。
「骨太のジェントルマン」というタイトルがついていて、
元広告代理店のビジネスマンだった方が、
監督としてかかわってくれるようになって、
子どもたちが変わっていく様子が、
よくわかった。

この学校は進学校なので、
部活動は週に3日のみ。
しかも一回の練習時間は1時間半だという。
一時間半の中で充実したトレーニングが
できるように、
まずはミーティングからスタートする。
ミーティングは、もちろん体を動かすのではなく、
脳を動かす。
戦略の説明や、
システムの話をみっちりとやり、
頭にいれたことを、
その後運動場に出たときに、からだで実践してみるのだ。

また「走る」ということを
科学的に教えてくれるコーチに来てもらい、
どんな足のあげ方、手の振り方をすれば、
効率のよい走りができるかを徹底的に教えてもらい、
それを練習に生かしていた。

夏には菅平に合宿にいったが、
その前の校内合宿は勉強をやっていた。
しかも、その校内合宿に参加するには、
夏休み前にだされた宿題(もちろん勉強の)を
やっていなければ参加できない。
監督が一人一人の宿題をチェックするのだ。

そして菅平では花園常連校の高校の練習を見て、
一緒に練習をし、
その時点での自分たちの力を目の当たりにしていた。

この監督は静岡聖光学院の体育の先生でもあるが、
中学一年に、その時その時のベストを尽くすことを、
「1に1を掛ければ1。
 つまり、昨日と同じことをしていれば、
 現状は維持できる。
 しかし、ちょっと力をぬく、
 つまり0.9を掛けると、
 一週間で半分以下になってしまう」
ということを教えていた。
計算上は、本当にそうなる。

子どもたちは
体力がついてきて、ラグビーのテクニックも身につけ、
上手になってくるに従って、
生活の様子も変わってくる。
脱いだ靴は揃えるし、
練習に走って飛び出していく。


その彼らが、
今日、ついに、県大会の決勝を迎え、
そして
花園行きを決めた。

夫の友だちも、みんな感動をしていた。
「いやあ、寄付しなきゃなあ、まいったなあ」と
言葉では困ったようなことを言いながら、
にこにこ顔だ。

本当によかったな。


author : tanizawa-k
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「あの日、欲望の大地で」

【2009.11.21 Saturday 18:32
絶対にあってはならないことだけど、
そのことをその人がしてしまった理由を知ってしまうと、
それはその人の命を守ることだったんだなと思えるような、
それほどのことってある。

この映画では、そんなことを考えた。

シャリーズ・セロン演じるシルビアは、
海辺の人気レストランのスタッフ。
予約をさばき、ワインをすすめ、
お客さんが心地よい食事の時間を過ごせるように、
気を配る。
仕事ができる彼女だが、
タバコを吸うために休憩するとき、
なぜか、自分のからだを傷つけずにはいられない。
また、プライベートでは
出会った男性と次々とベットを共にする。
それは快楽のためというより、自傷行為のよう。
そうでもしないと生きていけないとでもいうように、
からだを傷つけ、
自分に罰を与えるように男性と関係をもつ。

そんな彼女の前に、
一人のメキシコ人の男が親友の娘を連れて現れる。
その女の子はシルビアの子どもだという。

シルビアは、彼女を生んで二日目に、
恋人と彼女をおいて家を出てきたのだ。

しかし、それにはわけがある。
彼女は娘が自分の影響を受けることを恐れたのだ。
これまでの事を謝罪し、許しを請うときに、
「あなたが私のようになるのが怖かったの」という。

そんなの、シルビア側の勝手な理由で、
恋人と娘が必死で生きてきたそれまでの間のことを
想像すると、どういうことやねん!だけど、
でもそれさえ、その背景が分かると、
そう、
どんな理由があっても子どもを捨てるってことは
あってはならないことだけど、
それでも、背景を知ってしまった私は、
もしシルビアに会えたら、ハグして、
「大丈夫だよ」と言ってあげたくなる。

彼女の人生・・・というより、
彼女の親の人生から、
そうせざるを得なくて、
選んできた行為が次の出来事を呼び、
今に繋がっているのだ。

シルビアは、本当の名前をマリアーナという。
彼女は、4人兄弟の長女で、
普通の幸せな家庭に育った。
弟や妹の面倒をよく見る、かわいらしい女の子だった。

しかし、美しい母親(これがキム・ベイシンガー)が
買い物と言っては、
帰りがおそくなるのを訝しんでいた。
こそこそ誰かと電話をしているのも耳にしている。
あまりにも怪しいので、ある日学校をさぼって
母親の後をつけると、
一台のトレーラーハウスをみつける。
母はそこで男と逢っていたのだ。

びっくりする10代のマリアーナ。

しかし、知ってしまうと、
そのままにはしておけない。
彼女は度々トレーラーハウスにいき、
母親の情事をみる。

その後何でもない顔をして帰宅し、
まだ幼い妹にお休みのお祈りをさせ、
寝かせる母親を嫌悪する。

そしてある日、ちょっとした罰を与えようと、
ガスを漏らすような仕掛けをして、
そこに火を放つのだ。
「ママ、早くでてきて!」とつぶやくが、
情事に夢中な二人は気がつかず、
結局爆発し、二人は死んでしまう。
しかし、マリアーナはもちろん、
そのことを胸の中にしまう。
このことが、彼女の自己否定の元になる。

で、
じゃ、
母親が悪いかというと、
母には母の、そうせざるを得ない
理由があった。
夫は彼女の乳ガンの手術以来、
夫との関係がうまくいってなくて、
その穴を埋めるように男性を求め、
またその彼が、彼女が見せるのをためらう傷跡を、
「これは君が病気に挑んで勝利した跡じゃないか」と
愛おしそうに口づけするような、
そんなふうに条件付きではなく、
彼女のそのままを愛してくれる人だったのだ。

どんなに理由があったとしても、
自分の行動には責任を果たさなければならない。
しかし、こうなってしまったことを、
映画を見ている私としては全否定しきれない。
それほどキム・ベイシンガーの演技が
説得力があったのだ。


しかも、その爆発のあと、
母親の逢い引きの相手の家族の次男が、
マリアーナに近づいてくる。
彼は父親が何を考えていたか知りたかったのだ。
二人は逢っているうちに、愛し合うようになる。

二人が愛し合うことは、
お互いの家族を傷つけることになる。

そうして、お互いの家から逃げていったメキシコで
彼女は娘を生んだのだ。


彼女が生きていきたいと
思っていたかどうかは分からないし、
多分死んでしまいたいと思ったことは
何度もあると思うし、
この世の中からいなくなってしまったほうが、
どんなに楽かと、しょっちゅう考えたと思う。
しかし、そんな中でも、
なんとか、適応しようとしていて、
その方法は、
いろいろな方法で自分を罰するってことだったんだと思う。
必死だったんだろうけど、
そのことが痛々しくて、せつない。
それが建設的な方法だったら、
どんなによかったかと思う。


この映画の全貌が明らかになるのは、
かなり後半。
パスルをうめていくみたいな推理していく楽しみも
あるし、
人間のドラマとしての楽しみもある。

今年私がみた中で、5本の指に入る。



さてさて、
この記事を書いたあと、
他の方はどういう感想を抱かれたのかな?とブログをチェックしていたら、
同じ想いの方の記事に出会えた。
というボーさんのブログです。以下がURLです。
http://bojingles.blog3.fc2.com/blog-entry-1658.html


maruさんの記事には、加賀車と一口にくくれない
せつなさが書かれていて共感した。

http://yaplog.jp/maru-a-gogo/archive/680




author : tanizawa-k
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なみだ ナミダ 涙

【2009.11.20 Friday 21:04
評価:
有田 秀穂
PHP研究所
¥ 735
(2009-05-16)

「共感」についてもっと知りたいし、
興味はつのるばかりなので、
本屋で見つけて飛びついて読んだ。
著者の方は一生懸命に書いたとは思うが、
私にはものたりなかった。

とくに共感脳を育むためには、
母親の関わりが大切だと説明している部分は、
あまりにも根拠があやふやだ。
理論的ではない。
実証されていないことなのに、
母親の役割が重要と書いてしまうのは、
本当に困ると思う。
読みながら、
「もういいよ、母親に全部責任を
もっていく考えは・・・」と
私は何度も叫びそうになった。

今以上に
お母さんたちにプレシャーはいらない!
と私は思う。


と思いながらも、読み進めると、
涙の効用が書かれていた。
これも、科学的に証明されているわけではないが、
しかし
「涙を流すことは、ストレス解消、
 癒しになる」ということは、
私にも思い当たることがある。

私がこれまでの人生の中で一番泣いたのは、
母は死んでしまったときだ。
母は小脳梗塞を煩い一週間入院して
亡くなってしまったのだが、
その一週間は、母の見えないところでよく泣いた。

そして亡くなってしまってからも、
泣いた。
泣いて泣いて泣いた。
しくしく泣いたし、時々わ〜っと泣いた。
おいおい泣いたし、涙がつーっと落ちることも
あった。

ある日、当時婚約をしていた彼の家におじゃまをして、
入院中やお葬式などに至るまでの間にお世話になった
お礼を、彼の家族にした。
彼の家族は、母の病気がどんなふうに進んでいったのかを
きいてくれた。
私はそのとき、
母の変化にすぐに気がつかなかった自分を責め、
そして最初に連れていった先生が「疲れだな」と言った
その見立ての悪さを責め、
点滴をうっても調子の戻らない母を連れていった
比較的大きな病院の最初の医者の「更年期だね」
と言ったその間違った診断を責めた。
その状態での3日の間に、
「なんか変だから、病院を変えよう!」と訴える私を、
押しとどめた父のことを責め、
そして右半身がどんどんきかなくなってくる母を、
ただただ側で看病するだけだった自分を責めた。
責めて責めて、ひくひくと声を挙げて泣いた。
まぶたは腫れ上がり、
声はかすれ、
それでも大きな声を出して泣いたんだ。

あれほどの泣き方をしたのは、
それ以前も、それ以後もない。

その後、彼が車で40分ほどの我が家まで送ってくれた。
その車の中で、彼は
「今日は、あなたに辛いことを思い出させてごめんな。
 うちの家族は無遠慮にきくから、あなたに本当に
 悲しい思いをさせたと思う。
 あなたがトイレにたった時、
 僕は両親を怒ったんだ。本当にごめんな」
と言った。
私はその彼の優しさが嬉しかったが、
なんだか、
それとはちょっと違うような気がしていた。
というのは、妙にすっきりとしていたんだ。

もちろん母が亡くなってしまったことは
変わりないし、
いろんなことや
自分を含めたいろいろな人への
怒りもあったけど、
でも、なんか、心が静かだった。
すっきりしていたんだ。

それがなぜかは、
その時の私はちっともわからなかった。

しかし、なんとなく、
涙や泣く事の効用を知ってしまった気がする。

そのことが、科学者によって、
決して科学的ではないけれど、
文章になっているのを読んで、
ちょっと嬉しかった。


言葉で、感情や自分の身にふりかかった
出来事を表したりすることが苦手な子が、
泣くことで表現をすることがある。
小学校1〜2年の子で、学校でよく泣く子は、
言いたいことがいっぱいあって、
でもそれを表しきれていないってことがよくある。

先生や親御さんが、
「よく泣くのが、困る」とおっしゃる時、
私は、
「何かを伝えたいサインを送ってくれてるんだね」
と話す。
なぜ泣くのか、その前の出来事がわかる時は、
見ていよう。多分理由があるはず。
それをその子が、今はまだ言葉にできないなら、
「こういうことがあったんだね」と
言語化してあげようなんてことを、共有する。

そんなとき、涙は言葉だし、
私のあのときの、あの涙は、
デトックスだったような気がする。

人間に涙腺があるのは、
人間に必要だからだ。

泣く事を目的にするのは、
泣かせる事を目的にするのは
いやだけど、
自然にあふれる涙は大切なんだ。

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言葉って。

【2009.11.19 Thursday 21:20
言葉は、コミュニケーションの道具であると同時に、
考える時の手段としての働きをもち、
さらに行動調整をする手段としての一面ももつ。

明日は子どもさんが幼稚園生の保護者の方に、
お話をする機会があるが、
このことをわかりやすく話したいと思っている。

考える手段ということは、
明白だ。
私たちは頭の中で、言葉を使って考えている。


新しい歌を覚えるために、
先生が最初に歌ってくれてるのに、
○○ちゃんが大きな声で、
違う歌をふざけて歌って、だから、
ちゃんと先生の声が
きこえなくていやだ。

と頭の中で考える。
でもだからって、○○ちゃんを殴るかどうかは、
別の問題だ。

言葉で行動調節の力を働かせる。

あ〜もう、口を手でふさいでやりたい。
でも、そうすると、○○ちゃんはよけい騒ぐ。
そしたら、歌が歌えないから、
やめておこう。

文字にすると、こんなふうにきれいだけど、
もちろん頭の中は、もっとぐちゃぐちゃだ。
でも、こんなようなことを言葉で考えて、
そして行動を調節するのだ。


あ〜もういやになってしまう。
今日は面倒だからバーニーの散歩にいきたくないと
言葉にしながら、
頭の中でもうひとつの言葉が動く。
でもいかなきゃ、バーニーがかわいそうじゃん。
それに夫が帰ってきたら、
すごく怒る。
そしたら一層面倒なことになるよ。

で、よし!と自分の行動を調節する。


人がキレる、つまり行動を調節できない理由には、
いろいろあると思うが、
そのひとつが言葉のたりなさもあるのではないか。

脳の中の前頭前野は人の判断にかかわるところだが、
言葉や数を扱っているとき、
前頭前野は活発に動くらしい。

言葉を扱うことは、
前頭前夜を働かせ、
そしてそのことが、行動の調整にも影響を与える。


では、家庭の中でどうしたらいいか?

家庭の中をコミュニケーションの場にすることだ。
無駄話しをいっぱいして、
時々は愚痴も言ったり、弱音もはく。
それを受け取りあい、でも、
背中を押し合ったり、励まし合ったりする。
伝え、応え、話し、聴く。
笑いあい、ふざけ合い、きまずさも味わい、
認め合う。

言語、非言語のコミュニケーション、
つまり、言葉をシャワーのように浴び、
言葉以外の、
つまり、視線や、表情や、声という
コミュニケーションの道具も、
いっぱい使う。

多分、それにまさる教育ってないのだと思う。




私は今日、ちょっとした達成感を味わっていて、
そのことを、バーニーに話した。
「私さ、バーニー、結構がんばっているんだよ。
 それでさ、勉強してきたことが、
 学校の相談関係者として11年たって、
 やっとやっと、なんとなく、身に付いてきたような、
 そんな気が、ほんのちらっとだけど、してるんだ」
そしたら、バーニーに話している私に
夫が拍手をしてくれて、
夫がバーニーの前足をもって、拍手を送ってくれた。

私の頭の中には言葉がめぐる。

あ〜がんばってきてよかったなあ。
そして、この人と、バーニーが、見守ってくれていて、
嬉しいなあ。よかったなあ。

行動調整を無理矢理する。

明日は、夫の好きな鳥のそぼろにしてあげるとするか!










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「受けるよ」という構え

【2009.11.18 Wednesday 20:55
昨日、ある方と合計4時間くらいお話しする機会があった。
彼がある場所まで車で送り迎えをしてくださったのだ。
行きに2時間、帰りに2時間。
彼とはあらゆることで話があい、しゃべりまくった。
二人とも教育関係者だから、
子どものこと、
子どもに関わる大人のこと、
ま、そんなあれやこれだ。

私は、どちらかというと、
講演などで一方的に話すことや、
相談の場では、とにかく聴くということが多い。
つまり、そういう両極端なパターンはある。

でも、この4時間は、話して聴いて、
そこから派生して考えたことをまた話して、
それに対するその方の反応を伺い・・・ってな感じ。
そういうことを4時間にわたって、というのは、
あまりあることではなく、
私はその時間を楽しんだ。

楽しんだし充実していて、
すべてを丸ごと覚えていないことがおしいほど、
実のある話し合いとなった。

とくに共感しあえたことは、
子どもに対して何かをするときに、
「それは何のためにするか」が
明確でありたいということだ。

たとえば、私は時々心理教育系のプログラムを
子どもたちに対して授業することがあるが、
心理教育プラグラムをやること自体が
目的になってしまうのはおかしい。

子どもたちに「伝えたいこと」とか、
「考えてほしいこと」とか、
「学んでほしい何か」があって、
それを実現する方法のいくつかの中から、
そのプログラムを選択するのだ。

そして、実施する際には、
担任ではない私が子どもたちの前に立つことに、
安心してもらうために、
自己紹介の中で少し笑ってもらえるような話をし、
アイスブレイクで子どもたちにも
オープンになってもらえることを行ったりする。

授業案が出ている本に
そういう流れが出ていたからやるでは、
何の意味もなくなる。

なぜ自己紹介するのか、
なぜアイスブレイクをするのか、
そういう背景があってこそだ。

なぜチームでの活動をしてもらうのか、
なぜその人数を○人に決めたのか、
その「なぜ」が大事だ。

この点に関して、彼とは
隙間もないほど一致していた。
めちゃ気持ちよかった。



そして
私は今日になって、
なぜあれほど話が盛り上がったのか考える。
それは一重に、
彼が「受け上手」ということにつきると思いあたるのだ。

彼は、運転しながらも、
「あなたの話を受けるよ」という構えを常に
感じさせてくれてた。
そういう構えを見せてくれている人に対しては、
次から次へと「伝えたい」思いがあふれてくる。

もっと知ってほしい、
もっと伝えたい、
普段考えていること、
日常の中での疑問や、
4時間もあったのに、時間を惜しむように、
語り合ったのだ。




子どもたちが、
いろいろな思いや考えをリリースするのは、
絶対に受け手が必要だ。
「あなたの話は私が受けるよ」という構えを持って、
この子のことを分かろうと決めて、
たとえわかりきらなくても、
わかりたいと決めて、受け手になるんだ。




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谷澤 久美子
counselor