諦めることも選べる人。 | 今のところではありますが…
<< ショートカット | main | ♪けれど傷つく心もち続けたい♪ >>
諦めることも選べる人。

【2013.12.28 Saturday 18:32
小学館の国語辞典「大辞泉」編集部が、
「愛」「自由」など8つの言葉を語釈を募ったそうで、
その結果について新聞に掲載されていた。

静大情報学部3年の丸山薫さんが書いた
「愛」は「ケーキに書き込むメッセージを
 注文しているときの感情」など、
ふむふむと納得できるものも多い中、
ちょっと待った!と思うものがあった。

「大人」とは・・・
「諦めることに慣れた人」って語釈。

私は、これ、疑問に思う。

「諦める」ことに関して言えば、
大人は
「諦めるという選択肢を自分のために使える人」
なんじゃないか。
それだと長いから、
「諦めることも選べる人」。
どうだ?


子どもたちと接していると、
トライする前に、いろいろな思い込みで
諦めてしまう子どもも多いように私は思う。
(もちろん、一概には言えないけど)

子「○○ちゃんに、誤解された」
大人「ちゃんと話せば分かってもらえるかも
 しれないよ。話してごらん」
子「無理だもん」

子「どうせできないもん」
大人「そんなこと言わないで、
   まだ時間あるんだから、
   テストまで一問でもがんばってみたら」
子「どうせムダだもん」

のような感じは、
いろいろなシーンで
あることなのではないか?

大学生にコミュニケーションの授業をしたとき、
「期限後に先生にレポートを受けとってもらいたい
 と伝える」という事例で伝え方を考えてもらったが、
それは、諦めてしまう学生が多いからということで、
主催者の方に依頼されてのことだった。

で、じゃ、それらは悪いことなのか?っていうと、
そういう訳ではないし、
むしろ良い面もある。
ひとつのことだけに執着しないことで、
生き延びられるってことは、
確かにあるから。

そういう子どももいるし、
諦めない大人も、確実にいる。

つまり、諦める諦めないは、
それしか方法がなくて諦めるか、
他にも選択肢がある中、
自ら選ぶかが大切なところで、
大人になるってことは、
後者だと考えるんだよね。



他にもいろいろ選択肢はあるけど、
諦めない大人もいる。

昨日Eテレの「いじめノックアウト」という番組で、
元小学校教師金森先生という方の、
「命の授業」と題した
言葉について考える授業を中1のあるクラスに対して
行っているところを見た。

金森先生は、
言葉を大切に扱うことは
いじめをなくすことにつながるってことに対して、
ちょっとも諦めてない大人のように思った。

先生は、
4年生を担任していた時の事件を
教材にしている。

ある時、子どもたちに自習をさせていたが戻ると、
ナオ君という男子が、椅子を振り上げて怒りを
爆発させているところだった。
すでに椅子2〜3脚、ころがっていたそうだ。

自習の内容は算数のドリルが終わったら、
それぞれが調べ学習で調べたことを
画用紙に書くというもので、
勉強が苦手で成績もあまりよくないナオ君は、
やっとの思いで算数を終え、
教壇に画用紙を取りにいこうとしていた時に、
「画用紙がもったいない」と言われ、
逆上してしまったそうだ。

金森先生は、中1の子どもたちに質問する。
(以下、うる覚え)

なぜ、ナオ君は腹がたったのかな?
「ばかにされたから」
画用紙がもったいないって言った子は、
どういう考えで言ったのかな?
「どうせ、ちゃんとできないから
 みたいなことで」
想像してみよう。今回が初めてだったかな?
「違うと思う。今までもこういうことがあって、
 それがたまっていたと思う」
たまっていたのは、どういう気持ちが?
「ばかにされて、くやしい気持ち」
言った人たちは、真剣に言ったのかな?
「違う」
どんな感じで言ったのかな?
「軽く」
それでもナオ君の気持ちは?
「とても傷ついたし、悲しかったと思う」

金森先生は、この部分のまとめとして、

軽く言うということは、
その子を軽く扱ったということです。
軽く言うということは、
自分の言葉も軽く扱っていること、
つまり、自分自身のことも
軽く扱っていることになるんです。


こんなふうに、金森先生は、
金森先生のかつてのクラスで起こったことを通して、
生き方について問う授業をしていた。

その語り口や、
子どもを信じて問いかけ、
子どもの発言を待つ姿に、
人の中にある、
より良く生きたいと思う力を、
まったく諦めてないパワーを感じた。

金森先生は、
まったく諦めてない感じだった。

それはとってもかっこよかった。



私はといえば、
しばらく前まで、
子ども達に
コミュニケーションについての授業をすることに、
葛藤があった。
一番の理由は、
私自身、もし子どもの時に、
学校でコミュニケーションの授業を受けても、
それでも「言えない」し、
「言えない」ことをためて、時々爆発してたと思うから。

そう思いながらも、
「種まき」って思って続けていて、
それがこころのところ、少しずつ手応えを
感じ始めている。
特に今年最後にきて、
小学校、中学校、高校、大学で授業した感想が
まとまって届いて、
意義みたいなものを、十分に感じた。

たとえば、高校生からの授業の感想に、
「小学校の時に同じようなものを
 受けたけど、あの時よりも、
 必要性がわかるし、
 あの時よりも深く知ることができた
 ように思う」
などという感想がいくつかあった。
中学で受けたことを書いてくれている子もいた。

覚えていてくれた子が何人かいるってこと。
ってことは、この高校での授業も、
約1000人の子どものうち何人かは
覚えていてくれて、
コミュニケーションで困った時に、
「でも方法はあるから、大丈夫」って
思い出してくれるのではないかと
考えることができる。

またある大学では、
授業前にアンケートをとり、
コミュニケーションに苦手感を感じていた学生が
約8割いたが、
授業後の感想は、
「方法がある」と認識できたことで、
希望にあふれていた。

またある中学校の先生と話していて、
彼女が、「聴き合い」を取り入れているうちに、
最初は照れてしゃべらなかった子どもたちが、
5〜6回と回を重ねるうちに、
しっとりと聴き合えるようになってきたという話も、
希望だ。


私は、
価値観が違う相手とも、
自分の意見や感情を、
相手も尊重しながら伝え、
そして相手の意見や感情も聴くことができ、
対話で問題解決をすることができる
ってことを、
今までは、
大人に対してまったく諦めてなかったけど、
ここ何年か迷いながらも続けてきたことが、
ちょっとずつカタチになってきて、
現在は、
諦めない対象範囲が広がったと思う。



大人とはという語釈で、
私は
「諦めることも選べる人」とした。

それの意味は、
諦めるってことを選択肢のひとつにもって、
諦めるしかないからしょうがなく諦めるのではなく、
自ら考えて、
それが必要だと思うから、
また今はそれが最善だと考えるから、
諦めることを選んで、
しかも、
その結果について責任を負えるのが大人だと思う。

さらにいえば、
「あきらめる」は「明らかにして認める」こと、
主体的に「あきらめる」ことは、
むしろタフなことだと思う。


「諦めることに慣れた人」と書いた方には
それなりの理由があるし、
その方の体験の中には、
その言葉がぴったりくることがあったのかと思うけど、

私は「諦めることに慣れた人」を
大人って言ってもらっちゃ、
イヤだって思った。

私の周りにいっぱいいる、
諦めることも選択肢に入れながら、
それでも様々なことに諦めずに取り組んでいる
いろいろな方の顔を思い出して、
私はそう思った。

 
author : tanizawa-k
| 日常 | comments(0) |

スポンサーサイト

【2018.07.09 Monday 18:32
author : スポンサードリンク
| - | - |

この記事に関するコメント
コメントする










谷澤 久美子
counselor