SC | 今のところではありますが…
「先生はみんなの歌声、好きだな」

【2018.11.22 Thursday 09:46

今月は、いろいろな小中学校で

音楽の発表会があった。

本番は見学できなかったが、

練習は見ることができた学年もあった。

 

その中の一つ、ある小学校の6年生の合奏に

惹かれて、

保健室の先生のところに用事があったのに、

つい、音が聞こえる体育館に向かってしまった。

主旋律を奏でるリコーダーや鍵盤ハーモニカや

アコディオンの音がきちんとしていて、

リズムを刻むパーカッションは安定していて、

特別楽器のそれぞれも思いっきりこの曲の

中に入っているのがわかる、

素晴らしい演奏だった。

聞き惚れてしまって、次の合唱まで聞くと、

声変わりし始めている男子の声が

深みを加える合唱。

は〜いいなあ、音楽っていいなあ〜

なんて思いながら、その気持ちに浸っていると、

音楽を指導している先生が

「あ〜好きだなあ、

 先生はみんなの今の歌声、

 なんか、

 すごく好きだなあ」

って言ったんだ。

 

私は、この先生の一言に感動。

なんか涙が出てきた。

 

なんで涙が出たんだろうと振り返ると、

「良い悪い」という評価の言葉ではなくって、

「好き」という言葉に胸が掴まれてしまった

んだと思う。

 

 

評価。

 

秋は小中学校に講師として伺い、

コミュニケーションやストレスのことなどに

ついて話し、その感想をいただくことが多い。

感想の大半は授業の内容についてだけど、

ここ何年か、

私の授業の仕方に対する評価が増えてきている感覚がある。

数字化できなくって感覚なので、

そう言ってしまっていいのかどうかわからないが、

とにかく、そうで、

しかも低年齢化している傾向も感じる。

 

例えば、

(以下は小4〜6の感想の一部。

  そのままではない)

「ゲームをやったり、

 しずかにするときのあいずがあったり、

 先生はじゅ業を工夫してやっていたので

 すごいと思いました」

「ゲームもたのしくて、説明もわかりやすく

 いいじゅぎょうを受けさせてもらいました」

「せんりゅうを使ってじゅ業をするという

 はっそうがすばらしいです」

「私がすごいなと思ったのは、

 学校保健委員会を最後までみんなに

 あきないで聞いてもらえるような

 工夫がいろいろあったことです」

などなど。

 

もっといっぱいあるのだが、

これらを読んだ時、

私はクスッとしながらも、

複雑な思いがしたんだ。

 

こうやって授業者の立場になって考えてくれて

ありがたいなあという考え。

 

担任の先生が感想を書く前に、

授業者である私を気遣ってくださって

「工夫ある授業をやってくれたね」なんて

話してくれたのかもしてないななんて考え。

 

もしかすると今何かのプレゼンの準備していて、

だから、伝え方、表現方法に注目したのか

という考え。

 

そして、

もう一つは、

子どもたちは「評価の嵐」の中にいるのかもな、、、

という考え。

 

評価の嵐の中にいるというのは、

どういう嵐かというと、

もちろん、自分に対する評価を

しょっちゅう受けているってこと。

「〜〜できて偉かったね」

「いつまでもそんなじゃ、

 6年生とはいえないよ」的な。

 

それ以外にも、

誰かが誰かを評価する言葉を

たくさん浴びているのかも

ということ。

「今度の校長先生の話は面白いね」

「〜先生は教え方が下手だね」的な。

 

あとは、

社会の中の

テレビや

ユーチューブの中の、

良い悪い、

点数や順位付け。

 

 

もちろん、

こういうことは以前からあったわけだけど、

子どもたちの感想へにじみ出ちゃうくらいの

感じになってきているんじゃないのか?

なんて考えてしまった。

 

 

決して評価が悪いわけではなくて、

適切な評価は成長につながるから大切なものだし、

大人になると給料や来年度の契約など、

 評価の中で生きていくわけなんだけど、

評価以外の何か、

例えば「共感のつながり」も

いっぱい感じさせてあげたいなあ。

私はそう思うなあ。

 

 

 

そんな中、

「何かさ、

 先生、みんなの歌声、好きだなあ」

にグッときたんだと考える。

 

 

 

ここのところ、読んだ本

(「うつ病九段」が今の私にキた!

 うつ病発症から回復までの当事者の苦しさが言葉に

 なってる!)

 

 

 

 

 

author : tanizawa-k
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大人の言うことを聞け!いいや、聞くな!

【2018.08.08 Wednesday 08:43

小学校中学年を担任している先生と、

子どもたちに「〜〜について考えて」と

問いを投げかけることの難しさの

話になった。

 

その発問だと、

何をどうすることが考えることなのか

わからない子もいる。

 

なので、

「例えばね」と例を出す。

そうすると、

その例に引っ張られてしまう子もいて、

子どもたちの発想は

教師の考え以上には広がらないこともある。

 

段階を踏んで考えてもらう方法もある。

「考える」とはどうすることなのか

分解して過程を丁寧に踏んでいくやり方だ。

いずれ、先生の示してくれた手順を

子どもたちが自分の頭の中でできるように

なってくれればいいなと願いを込めて、

それをしながらも、

年々、スモールステップになっていることに

「本当にこれでいいのか?」と

悩んでらっしゃる先生がいる。

 

ユニバーサルデザインの考え方が徹底してきて、

教室にいる全員が理解できるような授業に

取り組んでいる先生方の中には、

「考えて」という発問を

噛み砕いて伝えれば伝えるほど、

教師自身の想定内におさまってしまうことを

嘆いていたりする。

 

 

私は、

その先生の葛藤や迷いが、

表情や態度や、

言葉にならないものになって

 

子どもたちによい影響となって

伝わるのではないかと

考えたりする。

 

 

 

一方で、

ちょっと前のアエラの内田樹氏のコラムの

「非常時に生き延びるための知恵を何も教えていない」

というタイトルの記事には考えさせられた。

 

その記事の中に、

内田氏が韓国に行った時のことが書かれていた。

セウォル号沈没事故の後、

韓国の教育関係者と会った時のことだ。

 

「ある高校教師の口から

 『生徒たちを殺したのは私たちの教育だ』

 という痛ましい自己批判の言を聞いた」

とあり、

「船内にいた修学旅行の高校生たちは

 船が45度以上傾き、

 乗組員たちが逃げ出した後も、

 なお船内放送の『待機命令』を守り、

 その多くが溺死(できし)した」

そのことを、

「上位者の命じたことに服従し、

 自分で行動の適否を判断してはならないと

 教えてきたのは私たちだ、

 と言うのである。

 平時はルールを遵守していれば済む。

 けれども、危機的事態に遭遇した時は、

 平時ルールを停止させて、

 非常時対応に切り替えなければならない。

 そういう『生き延びるための知恵」について

 何も教えてこなかったと深く悔いていた」

とあった。

 

「非常時には誰かの指示に従うというよりも、

 自分の頭で考えて行動するのだ。

 自分の命は自分で守ろう」

と教えるのは、

本当に難しいと思う。

 

 

以前、高校生達に

コミュニケーショスキルの授業に行く前に、

夫に、

「あなたが今、

 高校生に

 伝えたいことって何?」

と質問してみると、

彼は

「大人の言うことなんか聞くな、だな」

と答えてくれて、

それは一理あるなって思った。

 

私が彼らに

導入で説明したことは・・・

 

「私がコミュニケーションのことを学んだのは、

 36歳の時で、

 その時心から

 『なんで学校で教えてくんなかったの!』

 と思った。

 で、私は今57歳で、

 36歳からの20年間

 コミュニケーションのスキルは

 私を支えてくれた。


 でも、みんなのことを考えると、

 自分のことを話す、

 相手の立場にも立つってことは、

 もっと大事になってくると思う。

 

 なぜって、私の20年より、

 これからの20年は、

 変化が激しいから。

 

 例えば人口減少は進んで行く。

 未来年表というサイトに行って、

 20年後を検索すると、
 その頃は3人に一人が高齢者。
 2030年完全自動運転が可能で

 移動に困る人がいなくなって、
 2035年位には、

 日本の仕事の49%を

 AIやロボットが代わりにできるようになる。

 2040年代は、

 毎年100万人単位の日本人が亡くなる、
 生産人口は2人に1人。

 2050年には、

 AIと人間が結婚とか書いている。

 
  これらが現実になるかどうかはわからない。

 でも、みんなは、

 私が想像できない未来を生きる。

 こ〜しな あ〜しな、

 大人が今までのやり方や考え方を教えても、

 ずっとそれが使えるかどうかわからない社会を

 みんなは生きていく。

 

 どうなるかわからない、

 想定できない、

 予想がつかない世の中を生きていく時に

 必要なことはいろいろあるだろうけど、

 その一つがコミュニケーションの力だと思う。


 困った時に

 「ちょっと助けて」って言えること。

 「わかんないんだけど、どうすればいい?」

 って言えることだと思う。

 
 もちろんスマホが教えてくれればそれでいい。
 将来、

 スマホが勝手に自分の困惑を察してくれて、

 問題解決してくれる世の中になったら、

 聞かなくても済む。

 いやいや、スマホどころか、

 最適解を勝手に示してくれる何かが、

 体に埋め込まれるかもしれない。

 そしたら、

 言いにくいことを言ったり、

 はずかしいけど質問したり・・・

 ってしなくてすむ。

 

 でも、

 そうなるまでの間、

 変化のめっちゃ激しい時代を

 生きていくみんなが、

 瞬間瞬間、

 せめて、

 困ったことを言えたり、

 助けを求めたりできるといいね。

 

 自分自身を貶められそうになった時や、

 ひどく誤解をされた時に、

 それに対処するスキルがあることは、

 皆を助ける。

 

 自分の考えや感情を

 相手に伝える選択肢を持とう。

 

 同時に、

 自分にも考えや感情や、

 その時々の事情があるように、

 相手にもそれがあるんだって、

 ちゃんと認められる方が、

 受け入れてもらいやすい。

 ちゃんと相手の話を聞けること。

 

 今日は

 そのことをやるよ。

 

 ただね、

 一方で、

 これは今日の私の伝えられること、

 って自覚してる。

 

 変なこと言うけど、

 私の話を聞いて!

 いいや、聞かないで!

 って思いも込めながら、

 今日のところのベターを

 話すよ」

 

生徒の皆さんが、

理解をしてくれたかどうかはわからない。

でも、あれがあの時の

私の精一杯だったなあ。

 

 

 

 

 

学校で、先生たちの中には、

一つの指示を出しながらも、

本当にこれでいいか、

もっといい方法はないか、

迷い、考え、試行錯誤している方も多い。

 

 

「個人を大切にしながら

 集団でも生活できるようになるといい」

 

「指示には従ったほうがいいけれど、

 いざって時には自分の判断で動け」

 

黒板の前に立った時に

そのジレンマを抱えながら伝えることは、

そうではなく、

思考停止して教えている方よりも、

一言が深くなるのではないだろうか。

 

葛藤を引き受けて

それでも伝えることに、

考え続けようという思いが

にじみ出てしまうんではないだろうか。

 

 

 

 

夏休み、

学校の職員室には、

教材研究に没頭する先生、

学年で話し合いを重ねている先生、

夏休み明けの行事などを見通して

 今できる作業を淡々としてる先生、

自費で参加した研修の話を隣の席の方に

熱く語っている先生がいて、

もちろん、残念な感じの先生も

いるだろうけど、

それでも、

そんな中で

 

忙しい学期中には語り合えないことを

話せるのが、ありがたい。

 

そして、

休みあけ、

「考える」「学ぶ」ことの大切を伝えていくためにも、

先生方の夏休みが、

学んだり、考えたりすることを楽しみながら、

リラックスもできる夏休みになるといいな。

 

そんなこと、考えてる。

 

 

 

 

*散歩してたら、見つけた虫。何?

 

 

 

 

 

 

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先生に教わった。

【2018.07.24 Tuesday 19:25

今日で

私の夏休み前の学校での通常の活動は終了。

 

今日も、

子どもたちは、

廊下を、

教室を、

下駄箱を、

そう、下駄箱!

一つ一つ靴を出して履いて拭いて・・・

って、掃除していた。

汗で髪の毛が顔に張り付いてる。

そうやって黙々と掃除する子どもたち。

 

それはこの学校に限ったことではなく、

どこもそうだ。

ある学校では、場所場所に、

「ここを掃除しているのは私たちです」と

名前が書かれた紙が貼られていて、

責任もってやっていることが伝わってくる。

 

もちろん、

掃除の時間に遊んでる子もいるし、

揉めてる事だってある。

でも、基本、

自分たちが生活する場は、

自分たちで綺麗にするものって事が、

ちゃんと彼らに入ってる。

 

 

私は今日、

掃除をしている彼らの姿を見て、

夫が、

W杯で

世界からゴミ拾いを賞賛された時に言った、

「これは教育の勝利だよな」

って言葉を

しみじみとしみじみと、

確かにそうだわ・・・と

かみしめた。

 

 

 

こういう時間が積み重なってる。

 

 

私たちの中に、

ゴミは持ち帰ろうとか、

立つ鳥後を濁さずとか、

来た時よりも美しくとか、

そういうものが流れてる。

 

そういう大枠も流れてるし、

具体的な方法、

例えば、

箒やちり取の使い方、

雑巾の絞り方や

モップのかけ方、

トイレの掃除の仕方なども、

私たちの中に

確かにある。

 

長い休みの前には、

ワックスまでかける。

ワックスのかけ方まで

先生に教えてもらった。

 

そういう積み重ねが、

道にゴミなど落ちてないし、

公園にゴミ箱はなくてもOKだし、

そうして、

あのスタジアムの座席のゴミ拾いや、

代表のスタッフによるロッカールームの

美しさにつながってる。

 

そして、それは

私たちが受けた教育よりも、

今の方が、

もっともっと確実に子どもたちに

届いてると思う。

 

だって、

正直、

以前は電車の中で、

時々空き缶がコロコロ転がってたことがあったし、

新幹線で座席の前の網に前の方のゴミが残って

いることもあったし、

高速道路に向かう道路の中央分離帯には

お弁当のゴミなどが捨てられてたりしてた。

しかし、今、ほぼないもの。

 

遠足に行った時、

社会科見学で、

集団で観劇のあと、

修学旅行先で、

先生たちは、

「ゴミは持ち帰るぞ」

と教えてくれているんだと思う。

 

公共の考え方をプラスして

今の先生方は

伝えてくれているんだ!!!

 

ここは、素直に、

教育の力だと認めた方がいいと思う。

 

 

何か問題が起こると、

先生方は集中砲火を浴びる。

中には残念な先生もいると思うけど、

それでも大概の先生は一生懸命にやっている。

 

そんな先生方に、

たまには社会が感謝していいんじゃないだろうか。

残業の多さや、仕事の大変さを気の毒がるだけじゃなく、

世界から賞賛を与えられた背景に、

先生方の日々の指導があることを、

ちゃんと労い、

ちゃんと感謝を伝えていいんじゃないか。

 

 

 

 

話は変わって、

子ども達の

挨拶もすごいと思う。

 

今日の夕方のカルクラの散歩の時に、

5歳くらいの女の子と3歳前くらいの男の子が

声をかけてくれた。

「こんにちは!触ってもいいですか?」

 

私は、どうぞどうぞ!といい、

「挨拶、上手だね」というと、

「ちゃんと言った方が、気持ちいいから」と

教えてくれた。

 

最近、カルクラの散歩中に、

子どもに急に触られることって、

ほぼない。

 

ちゃんと教わっているんだと思う。

教える親も、

教わる子どもも、

よくやっているなあ、すごいなあ

と思う。

 

そりゃ、ひどい虐待のニュースもあるし、

私も学校で活動しているから、

保護者の姿として疑問を感じざるをえない事例も

耳にすることもある。

あまりにも無責任な態度に腹がたったり、

あまりにも自分本位な考え方に情けなくなったりもする。

もちろん、そうせざるを得ないような背景が

保護者にもあることがあるから、

一概に判断できないけれど、

それでも、困った事例もいっぱいある。

 

でも、

すごく素敵な親子の話もいっぱい知ってる。

 

 

 

 

 

先生方も保護者の方々も、

時々「今の先生は」とか「今の保護者は」と、

ひとくくりにされて、

何か問題があった時に、

叩かれてしまう。

 

それはそれで、意味があることもある。

解決しなくてはならない

学校の問題も、

支援した方がいい家庭もいっぱいあるのも

知ってる。

 

でも、素敵なこともいっぱいある。

 

そういう時には、

ちゃんと認めることって、大切なんじゃないか。

 

認め合っていきたいよ。

 

なんか、今日はそんなことを考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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安心できる場を作るために。

【2018.05.15 Tuesday 08:14

確かに土日はある。

しかし、7月16日まで祝日がない!!!

 

あ〜なんとなく

気持ちが重苦しい、

体がいうこと聞かない、

疲れが取れない・・・

そんな方もいるのではないか。

 

毎年、学校での相談の活動の中で、

6月は最初のピーク。

その背景は

学年がスタートして、

変化した環境に適応しようと

頑張った2ケ月の間に

心も体も疲れ果ててしまった・・・

ってことがあると思う。

 

しかも、

祝日がない月。

 

しかも、

天候が不安定。

 

しかも、

小学校は運動会という目標が終わり、

中学校は修学旅行など

学年の最初の大きな行事が終わり、

しかも、中間テストがある。

 

は〜・・・

なかんじの季節〜〜〜

 

 

 

 

班、クラス、学年、学校の中に、

安心できる場があるといいな!

って思う。

 

安心できる場とは、

 

力を抜くことができて、

弱音が吐けて、

時々は本音の会話ができる場。

そして目標も夢も言えるし、

自分の良さも出せる場。

 

そういう場を作るために

大人ができることって何だろう。

 

 

 

今年度がスタートして、

学校の中で相談のない時間帯は

配布物を読んだり、

子どもの観察や授業の見学などをしているが、

そんな中から先生方の工夫を

いっぱい見つけた。

ほんの一部を紹介する。

これは大人の組織作りにも

大いに役立つと思う。

 

 

やることもゴールも明確

・行事などについて

 「何をやるのか」

 「何のためにやるのか」

 「どのようにやるのか」

 「どういう状態が終了か」

 を短い言葉で明確に説明。

 

 →大人のコミュニケーションの

  トレーニングでも

  背景がわからない指示に

  戸惑う方の困り感はよく聞く。

 →学校では先生の、

  大人の社会ではリーダーの

  「想い」「目指す姿」などを

  伝えてもらえると、

  このチームでの目標が

  はっきりする。

  しかもどうなったら成功かを

  イメージできるのは

  とっても良い。

 (たとえそれが自分の理想とは違った

  としても、「違う」からこそ

  その方との関係の取り方を

  調節することができる)

 

 

共感的なコミュニケーション

・ある校長だよりの今年度第1号に、

 異動、担当クラス学年、分掌など

 不本意ながら引き受けてくれた方も

 いたかもしれないという想像のもと、

 感謝と、それでも一緒にやっていきましょう

 という声かけがあった。

 

 →不本意でも受け入れるのが

  組織として当然、

  という立場だけで考え、

  表現するのではなく、

  戸惑いや諦めも共感的に捉えてくれると

  そう思っていた方にとっては

  勇気づけられると思う。

 

 

 

決定に全員参加

・小4のクラスで賞について決めていた。

 「きれいで賞」「ステキで賞」「やさしいで賞」

 など、そのクラス内での賞を作っていたが、

 それがどういう行為に対して贈られるか

 みんなで話し合っていた。

 

 →自分が参加して作成したルールは

  守らされている余計なものではなく、

  大切なものとなる

 

 

ツッコミやすいボケ

・一年生の国語の授業

先生「『ゆ』だけにゆっくり書こう!

   はい、ここは笑うとこ」

子ども「え〜おもしろくない

   「へんなの〜」

   「笑えないし〜」

 

 →まるでひな壇から全員が「おいおい」

 としてるような瞬間!

 みんなで笑えるといいな。

 笑いは、人を元気にする

 

 

 

失敗を認め謝る

・先生

 「昨日みんなに言うの、忘れちゃったんだけど、

  これ、今日提出日だったんだよね。ごめんなさい。

  ⚪⚪先生に怒られるの、自分だから。

  そう言っておきます」

 

 

わかろうとする態度

・学校によって呼び方は

 「相談部会」「心の教室部会」

 「連絡会議」など違うが、

 校長教頭、生徒指導や相談担当など

 学校の先生と、相談担当者での会議がある。

 その中で、学年が変わったところでの

 行為行動(たとえば「遅刻が多い」とか

 「落ち着かない」など)を

 ネガティブなことと捉えるのではなく

 その背景をわかろうとする質問や、

 それを今後に生かすための対応を探す

 意見などがある。

・小学校からの引き継ぎを生かし、

 中学校での一ヶ月の様子を見て、

 すぐに、担任主任と相談担当だけでは

 あるがケース会議を実施。

 役割分担が明確になった。

 

 

 

という私自身も、

プライベート(犬関係)で

新しい仲間ができ、

私の陥りがちな

「どう思われるかの罠」に

はまりそうな自分を

久々意識してる。

ラインのスタンプ一つ送るのにも、

「あれ?みんなは有料のスタンプじゃん。

 私の企業のイベントスタンプじゃ

 ケチと思われるかも。

 じゃ、送るのやめよ」的な一人会議を経て、

ま、いいかと送ったりしてる。

 

 

ハーバードビジネススクールの

エドモンドソン教授は『TED』で、

心理的安全性が不足していることが

引き起こす4つの不安を紹介してる。

〔誼里世隼廚錣譴詆坩
¬鞠修世隼廚錣譴詆坩
邪魔をしていると思われる不安
ぅ優ティブだと思われる不安

 

私の場合は、

「ケチな人はこのチームにそぐわない」

と思われたらどうしようという、

つまりの不安があったと思う。

不安や、そのあとのひとり会議や、

一周回っての選択など、

まだまだ様子見の時って、

やっぱしんどい。

 

 

 

新しい環境で、

 銑い良坩造叛錣い覆ら

疲れ果てる・・・のではなく、

不安があってもなんとかやっていける場、

できれば

その時困っていることを口にできる場、

口にしたことを大切に扱ってもらえる場、

認め合える場、

そういう場が、

あちこちにできるといいなって思う。

 

この5〜6月のしんどさを、

それを作っていく力に

できたらいいと思う。

 

 

 


で、私の不安について、、、。

今は、

私にこういうところが、

まだまだあってよかったなあと

なんとなく思ってる。

こういう不安があるからこそ、

「安心」の大切さがわかるんだもんね!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

author : tanizawa-k
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社会化と個人化

【2017.05.09 Tuesday 19:28

GW前に、真新しい制服を着た、

中一の男の子が、

うちの前の家の犬に

「モモ〜、癒してええええ〜」と叫んでた。

 

中学校に進学して、

中学生活に合わせていくのが、

大変なんだなあ。

 

彼がGW、ゆっくり休めたらいいなあ!と思った。

 

 

人は社会化を果たしながら自分というものを

作っていく。成長させていく。

 

犬に癒して!と言いたくなるくらい、

社会の中で、

社会の中に合わせていくことは、

しんどいことであるけれど、

でも、

そうやって社会の中に馴染んでいくプロセスは、

同時に

個人が自分自身の力をつけていくプロセスにもなる。

 

 

今日はある小学校で、

小一の男子に

「先生、なんでおしゃれメガネをかけてるの?」と

質問された。

「へっ?これおしゃれメガネ?」

「うん、だって、大きいし、緑だし」

「確かに縁が緑だよね。

 おしゃれって言ってくれて嬉しいけど、

 実は老眼鏡なんだよ」

「老眼鏡って何?」

「年をとると、小さい文字とか見えにくくなったり

 するわけ。そういときにかけるやつ」

「年とるって、何歳から?」

「それは人それぞれ。私の場合は今56歳なんだけど、

 50歳くらいからかけたと思う」

「ふーん。56歳。○○先生より一歳下か。

 もう行っていい?」

 

彼は校内探検の最中で、

ちょっと話しかけたつもりが、

意外に長くかかったんで、

途中で、面倒になったと思う。

話に合わせないとならない自分と、

飽きてきた自分。

 

「もう行っていい?」って言えるって素晴らしい。

社会化の中で、

個人化も進むんだよなあ。

 

 

で、夕方、カルと散歩してると、

公園で、

日曜にあった女子二人がブランコに乗っていて、

カルを見つけて駆け寄ってきてくれる。

しばらくカルと遊んでくれていたら、

一人が

「犬はいいよね。

 面倒な友達付き合いがなくて」

とつぶやいた。

私が

「人間同士はいいこともあるけど、

 面倒なこともあるよね。

 何年生?」

と聞くと、

「5年。

 身長は3年くらいだけど」

と一人が言う。

「5年かあ。

 いろいろあるんだね」

と応えると、

「男子はガキだし、

 女子は面倒なんですよ」

「そうか、大変だね。

 でも、こうして遊べる子がいていいね」

「まあ」

 

一回りして、

帰りに寄ると、

まだ二人はいて、

そのうち一人が走ってきて、

「すみません。

 犬の種類がどうしても覚えられなくって、

 略して言うと何ですか?」

って質問してくれる。

「プチ・バセット・グリフォン・バンデーンが

 正式名称で、略すと

 プチバセだよ」

と言うと、

「ありがとうございます。

 この公園であった犬の

 犬カード作ってるんで」

「へえ、宿題?」

「違います。

 ただやってます」

「そうか、

 見たくなちゃうよ」

なんて、話した。

 

友達関係がなかなか面倒な中でも、

そうやって自分の好きなことに関して、

やろうとすること、

なんか、

人間ってすごい!と思ってしまう。

 

組織の中で生きながら、

個人を育てている。

 

 

先週の土曜日は「アサーティブカフェ」を開催。

10年選手から、

昨年始めた方まで集まって、

日頃のコミュニケーションを振り返る。

 

義理の母親との関係が変わった方、

技術系から事務系の仕事に移り、

新たなコミュニケーションの課題を見つけた方、

春の異動で出会った先輩に

言いにくいことを言う必要のある方・・・。

みんな社会の中で、

自分を社会に合わせながらも、

自分の中から湧き出てくる言いたいことや、

言わなくてはならないことをもっていた。

 

挑戦していくこと。

それは、自分を育てていくことになる。

 

自分の思ったまま、

思ったようにやっていけたら楽だけど、

そんなことはないし、

万が一そんなことあったとしても、

それでは「昨日のままの自分」でよくなってしまう。

 

制限の中でこそ、

人は、

苦しいけど、

自分ってものを

引き出していけるんだ。

 

 

 

 

社会の中で活動していると、

無言だけど結構きつい同調圧力や、

必要以上に空気を読むことを期待されることや、

自分で自分に役割を果たすことを強要してしまうこともある。

心をすり減らす出来事だって多い。

 

そのなかで、

それでも自分をないがしろにしないで

ちゃんと自分を守って育てていくには、

ある程度安心できる組織を作ることと、

(これは、学校の場合は、

 大人の責任だ!)

時々自分をメンテナンスできる空間や

支えてくれる人(または犬)が必要なんだと思う。

 

「モモ、癒してえええええ〜」

って言いながら、

また、

彼も学校に行く。

 

そういうエネルギーがある時は、

そうする。

 

でも、

今はそのエネルギーがたまってなくって、

今はまだ社会の中に入って行かれない人は、

まずは今いられる場所で、

できることをやることだ。

まずは、

今いる場所で、

自分を守ったり、育むことを、

してほしいよなあ。

そしてエネルギーがたまるといい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

author : tanizawa-k
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駄目な子だったです、その2。

【2016.12.03 Saturday 18:14

 

来週伺う中学校では、

新しいプログラムで講演するため、

アンケートを実施した。

 

,笋蕕覆い肇瀬瓩世箸錣っているのに

 なかなかやれないことはありますか?

 やめた方がいいとわかっているのに、

 やめられないことはありますか?

 何ですか?

↓,紡个靴董△△覆燭覆蠅旅夫をしている

 ことはありますか?あったら教えてください。

 

詳細は書けないが、

これがもう本当に

せつないし、

時々おもしろいし、

感心する。

 

勉強をやらなきゃいけないとわかっているけど、

ついついゲームに手がのびてしまう・・・

だから、携帯やタブレットを遠〜くに置くとか、

親が見ているところで勉強するとか、

彼らは頑張っていた。

 

挨拶や掃除、片付けや、

時々ぼ〜っとしてしまうこと、

ちゃんと自覚していて、

しかも、

この学校の子どもたちは

本当に素直に正直に書いてくれている。

 

ほとんどの子が、

ゲームを長時間やるのをやめたいと思っていて、

だから例えば

ポケモンGOをやりにくくするために、

なるべくボールを0にしておくなどの工夫をしている。

立派だと思う。

 

なんだけどその中に一人、

もっとゲームをやりたいのだけど、

眠くて寝てしまうのが悔しい的なことを

書いている子がいて、

その子は、

眠さを抑えるために、

ゲームの音楽をイヤホンで聞きながら

自分を煽る工夫など、

3つの工夫を書いているのだ。

 

それを読みながら、

一瞬、

えっ?まじ?読み間違い?と思った。

 

しかし、うん、

ちゃんとそう書いてある。

 

面白いなあ!!!

 

私は考えた。

 

もしこれを、この中学生が、

アンケート制作者である私に対し、

ふざけた態度で挑んできたとしたら、

それでも3つもの工夫を考えついたことが

すごい!と思う。

 

もしこの中学生が本当にまじに

このことで悔しい思いをしていて、

なんとかしなくちゃ!と工夫をしているとしたら、

それもそれで、素晴らしいことだと思う。

 

だって、どっちにしても、

自分の問題解決のために

考えて、

選択肢を3つもあげることができて、

そこからなんとか行動しようとしているんだもの。

 

 

今日、久しぶりに、

自分のブログの過去に書いたもの

「駄目な子だったです。」

を読んだ。

そこには、

大学3〜4年から25歳くらいまでの、

しょうもない私のことを書いてる。

 

あの頃の私には、

この中学生のように、

自分の中の葛藤への解決のために、

考えて、

選択肢を幾つか考えられる

そんなパワーはなかった。

 

 

話は変わって、

(ご安心を!また戻ってきます)

今日は富士市で

保護者と教職員の方対象の講演会で

講師を務めたが、

ここでリフレーミングを紹介した。

 

思春期の子どもを持つ親のための講座の中では、

リフレーミングの練習をよくする。

 

リフレーミングとは、

一つの事象に違う意味づけをし、

思考を転換することだ。

 

事実はひとつ、

たとえば

「よく話をする」という子がいるとする。

これをネガティブな意味づけをすると、

「おしゃべり」。

ポジティブな意味づけをすると、

「自己主張ができる」

となる。

 

とくに我が子には、

なんとか健やかに成長してほしいと思うから、

ネガティブな意味づけをして

改善していってほしいと願うのが

親だと思う。

ただ、リフレーミングってことも

知っておくといい。

 

たとえば、

「自分から進んで動かない」は

ネガティブな意味づけをすると、

「自主性がない」とか「消極的」。

ポジティブな意味づけをすると

「慎重」「物事をよく考えてから行動する」

 

「お金をよく使う」は

ネガティブな意味づけをすると

「金使いがあらい」「無計画」。

ポジティブな意味づけしてみると、

たとえば

「景気に貢献してる」みたいな。

 

「やりたいことはやる、

 やりたくないことはしない」

はネガティブな意味づけでは

「わがまま」。

ポジティブな意味づけでは

「力の抜き方を知っている」。

 

事実はひとつだけど、

それに対して

ポジティブな視点も持つことができると、

子どもとのコミュニケーションに、

余裕をもたらせてくれる可能性がある。

 

 

 

で、私のダメダメ時代の話に戻る。

 

あの私のダメダメ時代は、

幼い頃を取り戻そうとしてたのではないか?

 

これまでの私の人生を省みた時に、

もしかしたら、

ある程度力の抜き方を知っていて、

やりたいことはやるけど、

やりたくないことはほどほど・・・

ってことを、幼い頃にやってたら、

ちょっと違ったのではないか?

と思うから。

 

幼い頃、

親や家や商売関係者の期待に応えたい!

どうすれば、褒めてもらえるか?

そのことでいっぱいだった私。

緊張もしてただろう。

いい子ちゃん着ぐるみは

時々重かっただろう。

それでも、それをやり続けるしかなかったから、

頑張ってやっていた私に、

今思うと、

人生からのプレゼントみたいな

隙間の時間が、

あのダメダメ時代だったのではないか?

 

ダメダメだったけど、

ダメダメを十分にやらせてもらえたことが、

なんとか今、多少のことでは挑んでいける私で

いられてるんじゃないか。

 

もちろん今はもう、

私の人生に

なんの文句も愚痴もない。

幼い頃の健気な自分も含めて、

今までの全部が結構愛おしいし、

登場してくれた方々の影響あっての今って、

ちゃんとわかってる。

 

 

でもこうして書いておくのは、

「ゲームばっかりやっている子」や、

「やりたいことしかやらない子」も、

だからって、

今だけで判断しなくっていいって、

思うから。

 

 

 

 

 

さて中学生へのアンケートを

自分に問いかけてみる。

 

,笋蕕覆い肇瀬瓩世箸錣っているのに

 なかなかやれないことはありますか?

 やめた方がいいとわかっているのに、

 やめられないことはありますか?

 何ですか?

↓,紡个靴董△△覆燭覆蠅旅夫をしている

 ことはありますか?あったら教えてください。

 

 1・喪中欠礼はがきの準備をしなくてはならないのに

   してない。

 2・近所の野菜ハウスに義父の好きだったイチゴが並んだ。

   お供えしようと思いながら、何日か過ぎた。

 

 1・ホワイトボードにチェックボックス付きの

   やるべきことリストを久しぶりに書く。

   そして、チェックつけるために、やった。

 2・勢いだ!と考え、

   カルの散歩を終えた瞬間、

   面倒だの何だの、何も考えずに、

   野菜ハウスに直行。買ってお供え。

   しばらく義父の位牌と話した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

author : tanizawa-k
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心のリアル、そのままで。

【2016.08.25 Thursday 16:06

昨年の8月25日、

鎌倉市の図書館が

 

「もうすぐ二学期。

 学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、

 学校を休んで図書館へいらっしゃい。

 マンガもライトノベルもあるよ。

 一日いても誰も何も言わないよ。

 9月から学校へ行くくらいなら

 死んじゃおうと思ったら、

 逃げ場所に図書館も思い出してね」

 

というツイートをして話題になった。

何かできることはないかと考え、

その上で、

「何とかしないと!」一心の勇気あるツイート

だと思った。

 

で、

また、その季節だ。

 

 

私の活動する学校は、

1校が昨日から始まり、

今日、明日と月曜は、

なんと、テスト。

もう1校は明日から始まり、

いきなり2時間授業がある。

(私自身の活動スタートは、

 月曜から)

 

授業時間数その他、

そうしなくてはならない理由が

あってのことと思うけど、

子どもたちも、

それを指導する先生も、

また見守る親も、

なんともしんどいスケジュールだと思う。

 

 

 

そんな中、

今日、

昔の自分の日記をいろいろ調べていて、

8年前の8月29日に書いたものを読んで、

びっくりした。

 

変わってない。

っていうか、進歩なしの自分。

ま、ここは「ぶれてない」ってことにする。

 

 

その頃、

学校から依頼を受けた2件の研修のテーマが

「子どもにコミュ能力をつけさせるために」

というものだったことから、

それに対しての考えを書いているのだ。

 

 

 

 

「子どもたちにコミュニケーション力を

 つけさせたいと考えている先生方は多い。
 それは本当に理解できる。
 そして、私は、それが人間関係を

 うまく築けるようになるために・・・という、
 表面的なところからのみで、

 考えられているものでないことを願う。
 もちろん人間関係を作れるようになるのは

 大切なことだが、
 私は、もっと大切なことがあるように思う。

 

 二日くらい前の毎日新聞の夕刊の特集ワイドは
 『川口の中3少女・父親刺殺事件

  今、中学生の生きる世界は』というもので、

 子どもたちの息苦しさと、忙しさを、
 大人たちはどんな目で見て、

 何をしてあげることが必要かが描かれていた。

 取材を通して出会った中学生へのインタビューと、
 東京都の教育相談員の方の話、
 精神科医の話、そして市立の学校の校長先生の

 話がでている。

 

 私は校長先生の言葉が頭から離れない。
 『生まれてから親、教師、仲間など、

  他人の期待に応じる生き方しかしていない。

  悩みや苦しみを外に出したら関係が切れると思っている。

  小学校卒業までに

 【私が私であろうとしたら、この社会で存在できない】

  と学び取っている。

  身近な親にさえ自分を出すことができないのは、

  受け止められた経験が希薄だからだ』

 

 【私が私であろうとしたら、この社会で存在できない】

 と感じている子どもたちに、
 そんなことはないよ!と伝え、
 子どもが心底そう感じてもらえたら、

 どんなにいいだろうかと思う。

 

 つまり、

 コミュニケーション力をつけてほしい1番の理由は、
 他人と上手に関係を築くことの前に、
 自分のことを自分で認めていいんだというところに

 立ってもらうため!私はそう思う。』

 

 

 

 

 

いやあ、変わってない。

違うところがあるとすると、

「自分のことを自分で認めていいんだというところに

 立ってもらうため」

とは、今の私は言わないと思う。

それは言い過ぎてたと思う。

 

「自分で自分のことを認める」って

すっごく難しいことだもの。

その考えをを子どもたちに差し出すのは、

今の私には難しい。

 

今の私なら、

「他人との関係をよりよく築くのも、

 とっても大事。

 ただ、

 あらゆる人間関係の中で

 まず大事にしたい関係は、

 自分との関係なんだよ。

 だから、最初に、

 自分が何を考え、何を感じてるか、

 そのことをわかるところから

 スタートしよう」

くらいの感じかな。

 

 

つまり

子どもたちには、

「あなたがどんな汚い考えや

 どんなネガティブな感情があったとしても、

 それは悪いことではないよ。

 その心のリアルなところを

 キャッチできることが、

 自分との関係を大切にしてることに

 繋がるよ」

と伝えたいな。

 

そして、そのことを

もし、大人の前で口にできた時、

その時は大人の出番だ。

大人たちは、

評価も、判断も、アドバイスも、先回りもしないで

まずは受け止めてあげたい。

そうしてほしい。

 

この校長先生が言ってるように、

大人の役目は、

子どもの話を受け止めることだ。

子どもは

受け取ってもらえるという安心感のあるところでは

口に出してくれる可能性がある。

 

 

400メートル個人メドレーで

金メダルを取った萩野選手は、

予選を終えて、夜の決勝までの間、

仮眠を取ろうと宿舎に戻ったんだそうだ。

そして横になったが、

まったく眠れなかったそうだ。

「体を休めなくては」と思いながらも、

頭の中をレースのことが

ぐるぐるしていたそうだ。

 

そして決勝の会場で

指導者の平井先生に会って、

「眠れなかった」ことを

話したと言っていた。

 

この「話した」ってとこが、

すごくすごく重要だと思う。

「眠れなかった、どうしよう」という

焦りや不安をそのまま持っていても、

どこにもいかない。

 

先生に言えたことで、

大分軽くなったのではないか。

 

弱音が吐けたってことだもの。

 

「弱音を吐いて

 怒られた。

 馬鹿にされた」

という経験を積んでたら、

彼は言えなかったと思う。

 

平井先生は、

その話をそうかと聞き、

それを責めるのではなく、

「このオリンピックで

 人生をかけるレースをする

 って言ってたぞ」

と目標を思い出させたということ

だった。

 

 

 

 

 

学校が始まる。

 

学校に行くことが

心底辛い子が、

近くの大人に、

その気持ちを言えるといいな。

 

それを言ってもらえる

大人でいたいな。

そして、

うろたえながらも、

受け止める大人が

いっぱいいるといいな。

 

そのあと、

一緒に悩み考える大人がいいな。

 

 

それにはまずは、

大人が自分との関係を

良好にしておくことだと思う。

その努力、めちゃ大切だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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大切にする仕方。

【2016.08.02 Tuesday 18:21

6月に行った小学校での学校保健委員会の

感想が届いた。

 

1〜3年と

4〜6年で分けて行ったのだが、

1年生の感想の中に、

 

「こころのなかで

 きもちがいえるようになるといいこと、

 せかいじゅうのこどもに

 おしえてあげてほしいです」

 

というものがあって、

その文字の拙さと、

大きな依頼のギャップに

なんだか

ジーンとした。

 

 

 

 

1〜3年の授業では

「こころ」ってどこにあると思う?

という問から始めた。

 

胸にもあるね。

ドキドキするもんね。

お腹にもありそう。

心配でお腹痛くなったりする時あるし。

私は今、手のひらにもあるって思ってる。

だって、汗かいてるもん。

ガンバんないと!って思ってるんだと思うよ。

 

3年生に

「心」という漢字を黒板に書いてもらった。

 

「土」とか「山」とか

なんかどっしりしてるけど、

「心」は

形を作るの、バランスとるの、

結構難しいんだよね。

そして柔らかそう。

 

「心」大切にしようね。

 

今日は、

どうやったら「心」を大事にできるかを学びます。

 

 

〜なんて感じでスタートしたと思う。

 

 

参観に来てくれた保護者の方の感想の中に、

「今日の体験を通して、

 (心の中の)もやもやを言葉に当てはめて、

 それを伝える一連の流れができる

 ようになったら、娘も楽だろうし、

 私も娘の気持ちに共感し、楽しさを増し、

 辛さを減らせるとしたら、

 どんなに子育てが楽しめるだろうかと思いました。

 そういう関係を作れるよう努力していきます」

とあった。

 

家の中で、

「そりゃ心配だったね」

「面倒くさいこと、あるよね」

「緊張したんだね」

なんて話す時間が増えたら、

ホントいいと思う。

 

 

 

 

 

4〜6年生への授業では、

めんどくさいコミュニケーションのゲームを

体験してもらい、

それを通して学ぶプログラムだった。

 

ゲームでうまくいかなくて、

泣くのをこらえながら

「紙をぐちゃぐちゃにしたいほど悔しい」と

発言してくれた子がいた。

 

その子のそのつぶやきに注目して、

「この子たちの素直さを大切にしたいという

気持ちを改めて強く感じました」

と感想を書いてくれた先生がいた。

 

 

本当に、感想に、

励まされる。

頑張ろうと思う。

 

 

 

これからも、

表現方法は年代によって工夫したとしても、

「心を大切にする仕方」

を伝え続けたい。

 

 

 

心を大事にするとは、

自分の中で渦巻いている考え(自動思考)や感情を

自分で認識することだ。

 

外に出して言えないことでも、

自分の中に湧いてきた考えや感情を、

自分でキャッチすること。

 

せめて、

自分ぐらいは、

自分の中で起こっていることを

理解しておくこと。

 

 

 

自分の中で起こってることを

ないがしろにしていて、

自分を大切にしているとは言えない。

 

そういう日々を重ねていて、

他者(や他者の考えや感情)を

大切にできるだろうか。

 

もしできたとしたら、

相当な犠牲の上だ。

 

相当な犠牲は、

悲しみや無力感や怒りに

繋がっていくだろう。

だって抑え続けているのだもの。

自分の中で起こっていることを、

まるで起こってないことのように

扱っているのだもの。

 

 

自分に対してさえ

抑え続けた考えや感情は、

それでもそこにあるのだから、

対処されることを求める。

 

出口を探す。

 

そういうことが重ねると、

常に沸点ギリギリでいるような

状態になってしまうだろう。

 

苦しいだろうな。

怖いだろうな。

 

自分の頭の中で言語化することは、

慣れてないと難しいだろうから、

安心できる場で、

誰かに手伝ってもらうといい。

 

 

 

 

心を大切にする仕方とは、

自分の中に湧いた考えや感情を、

頭の中で言語化して承認すること。

 

評価も判断もしないで、

承認することだ。

 

 

 

一人一人が、

自分に対してそれをする。

 

一人でやるのが

難しかったら手伝ってもらう。

 

もし、自分でできるのならば、

今、隣にいる人の

それも助ける。

 

 

そんな小さな流動的な単位が

あちこちに現れること。

 

それを想像すると、

ポッと希望で心が温かくなる。

 

 

 

 

 

その先に起こることは、

もう、

自分の考えや感情を特別に観察しなくても、

自然に承認でき、

だからこそ、

自分のためだけではなく

誰かのために、

何かのために、

行動を選択できる

ってことなんだろうなあ。

 

 

と、

受け取った感想を読みながら、

壮大な思いにふける夜。

 

 

「せかいじゅうに」と

思いを巡らせた

一年生のおかげだな。

 

 

 

 

 

 

 

ランチのお供の本。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

author : tanizawa-k
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本当のところ。

【2016.07.22 Friday 09:22

先週行ったある中学校での学校保健委員では、

生徒たちに事前アンケートで、

日常の中のつぶやきを五七五で書いてもらい

それを元に「感情との付き合い方」

について話した。

 

保健室の先生と、

いろいろやりとりしながら

プログラムを作って行ったのだが、

その過程で

「先生方にも書いてもらおう」ってことになった。

お忙しい先生方への依頼は気がひけたが、

保健室の先生が、夕方の職員室で仕事する

先生方に声をかけてくれ、

なんと21の先生のつぶやきが集まったのだ。

(公開することを

 保健室の先生に了解いただきました)

 

その中には

「生徒指導 毎日同じ 繰り返し」

などという、

あ〜先生もお疲れだよなあ、

本当は叱りたくなんかないんだよなあ

と思うものもあれば、

 

「落ち込むな 昔の俺より ずっといい」

という、

なにがなんでも励ましたいというものもあれば、

 

「『おはよう』の 素直なあいさつ やる気でる」

とか

「夏休み 取り戻せるぞ 3年分」

とか

「これぞ!先生」的なつぶやきもあった。

 

その中で、

「素敵だよ 一人でいられる ことだって」

とか

「やる気でない そんな日もある 深呼吸」

とか

「隣の子 うらやましくなる 日もあるよ」

というつぶやきには、心が和んだ。

「ぼっち」は恥ずかしいと思ったり、

やる気ないとダメと思い込んでたり、

スクールカーストの中で惨めさを感じている子、

つまり、

同調圧力の中でもがいている子どもたちは、

どんなにホッとしたかと思う。

 

これらを読みながら。

思い出したことがある。

 

それはかなり前になるが、

ある中学校で

全校道徳の講師を務めた時のことだ。

「どんな感情が湧いてしまっても仕方ない。

 でも行動はコントロールする責任があること

 自覚していこう」的な話をした後、

帰ろうとする私を

車のところで待ってくださっていた保護者の方が、

「小中学生には

 当たり前のこと、

 建前を教えたい。

 いろいろ思いながら

 頑張っている子供たちには、

 今日の講演は

 余計なことだったと思う」

というようなフィードバックを

くださった方がいたのだ。

 

多分、

「どんな感情が湧いてしまっても仕方ない」

という部分を批判されたんだと思う。

 

その時のことを思い出したのだ。

 

 

私はあの時、

待ってくださっていたことへの感謝と、

そういう意見があることも知っていることと、

それでも私は違う意見を持っていることを告げた。

 

彼女は、

「そういうようなことを

おっしゃると思ってました」

的なことを話され、

すぐに保護者会へと行かれた。

 

 

言いっ放しのようにされたその方に対して、

私は腹が立ち、

批判されたこと自体にもカチンときた。

 

しかし、家まで運転する車の中で、

その怒りでもやもやする中身を

あれやこれや探ってみると、

2つの悔しさ、

 屬修ΔいΠ娶を持つ方にも

  そこそこ納得してもらえる講演が

  できなかった自分」

◆峪劼匹發燭舛

  感情のことを話すことの必要性を、

  明確に言葉にしてこなかった自分」

があることに気がつき、

特に2つ目の悔しさについては、

自分の努力不足を自覚することになり、

それに気づけたのは彼女のおかげだと

家に着く頃には、感謝になっていたものだった。

 

そして、私なりに、努力を続けた。

 

 

あれからずいぶん時間がたって、

今回の先生方のつぶやきを読んで、

学校現場はすでに、

「建前」や「すべての人に必要な昔からの教え」的な

ものだけでは、

生徒の心をとらえることができないし、

多様な生徒個人個人の成長へのサポートにはならないことが

浸透しているんだと思った。

 

もちろん

「建前」のようなものも、必要だと思う。

 

助け合おう

努力しよう

失敗しても立ち上がろう

我慢もしよう

仲良くしよう

 

それを言わないんじゃない。

それも大事。

 

でも、

それがいいことだって100も承知で

それでもできない時に、

そんな当たり前を示されても

「知ってるし」で終わってしまうことを、

学校現場は知っている。

もちろん前から知っていたと思うが、

以前はそれは個人との面談の中や

クラスでの話の中であって、

全校という超公の場では

「建前」がほとんどだったと思う。

(私の知ってる限りですが)

 

そのようなことを

先週の中学校での学校保健委員会では

しみじみと考えたのである。

 

 

 

そして昨日の小学校での学校保健員会。

5〜6年生が対象だった。

 

私は話した。

「人間ってね、

 イライラやクヨクヨや、

 悲しい気持ち、辛い気持ちが

 たまってくると、

 なんだか意地悪したくなって

 しまうものなんだよ」

 

それを話しながら幼い時のことを頭に浮かべてた。

 

私は幼い頃、

妹みたいな柔らかい髪じゃなく

硬くてツンツんしてる自分の髪が悲しくて、

母親じゃなく父親に似てる自分が嫌で、

大人には褒められるけど、

同じ年の子からは好かれてないような気がして、

そんなことが辛いなか、

それでも普通に過ごしていて、

ある日、

お風呂で、まだ結構あったリンスを

全部を使ってしまい、

妹に使わせないという意地悪をして、

母に叱られた。

 

「嫌な方の気持ちだって、

 湧いて悪い気持ちなんて

 いっこもないんだよ。

 だからね、嫌な方の気持ちが

 湧いた時だって、

 誰かに言っていいんだよ。

 言えない時もあるって、わかるよ。

 でも、安心できる場で、

 言ってもいいってことは、

 知っておいてほしいんだ」

 

これは「建前」ではなく、

本当のことだと思う。

 

 

 

 

子どもにとっても

ストレスフルな社会の中を、

感情とどう付き合っていくのかという

本当のことを知らないで生きて行くのは、

あまりにも無防備だと私は思うし、

学校もそう考えているように思う。

 

それで、そういう要望が多いし、

それを校外の人に依頼するだけでは

もう足りないんだと思うんだ。

 

 

 

とはいえ、これも今のところの考え。

いろいろ変わっていく中で

その時その時考え続けていくしか

ないよなあ。

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

私はこの文を書きながら、

「あれ?

 もしかして、私は、

 あの時の彼女に、

 自分の正当性を

 認めさせようとしてるのかな?」

と考えた。

正直、ちらっとそれ、あったかもしれない。

(うググ、せせせこい)

 

でもそれよりも、

あの時の彼女と

いろいろ議論してみたい思いの

方が強い。(うん、これ ほんと)

また新しい課題を、

彼女は与えてくれるんじゃないかと思う。

 

ダメだな、それは甘えだな。

自分で「問い」は作らねば!

 

 

 

さ、夏休みだ。

先生方と研修を共にする機会が多い。

その中から、問いを見つけて、

精進していくぞ。

 

 

 

 

静岡県立美術館で

ミッフィー、始まってる!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

author : tanizawa-k
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承認と共感

【2016.06.29 Wednesday 21:39

いつ何があるかわからないって思ってる。

いつでもどんな時でも、

絶対に落ち着いて、

ぶれずに、

冷静でいられる

とは思ってない。

私は、

そこまで自分のことを過信してない。

 

ただ、もしも、

ぶれて、

迷って、

自他の感情に巻き込まれたり、

いろんな事情に振り回されたりしたとしても、

戻るところが

確固としてあることは幸せだ。

 

私の場合は、

CL~建設的な生き方

アサーティブ

ロゴセラピー。

 

 

 

「信頼ベースの学級ファシリテーション」

も、

多くの先生方にとって、

「戻るところ」なんだと思う。

先週2日間の講座に参加して、

その思いを強くした。

先生方に、「戻るところ」があってよかった。

そこに仲間がいてよかった!とすごく思う。

 

自分のキャラや、

成功体験や、

先輩や管理職からの助言や、

その時々に見つけた情報、

頼るものがそれだけでは

心もとないと思う。

「信頼ベースの学級ファシリテーション」には、

教育に対しての哲学があり、

理論が背景となった、

方法論が具体的にある。

 

問題の予防にも

問題解決にも、

より良いクラス運営にも

役に立つ。

 

 

 

 

 

二日目に

「ふりかえりジャーナル」

というツールについて学んだ。

子どもたちが、

その日の出来事を振り返って書く日記形式のものだ。

 

ゴリが始めたもので、

クラスの一人ひとりとつながるためのものとして

開発したとのことだった。

 

帰りの会などで、10分くらいかけて書く。

それを読むと、

先生は、それぞれの

その日の出来事や気持ちなどを知ることができ、

たとえ言葉をかわすことができなかった日でも、

その子の「今」を知ることができるってわけ。

先生は、翌日朝、みんなに返す。

 

子どものその日1日の

よかったことや、達成したこと、

失敗や、もめごとや、

自分への苛立ちを綴ったものなどを読むと、

先生としては

いろいろコメントを書きたくなるもの。

 

ただし、ゴリやせいこさんがすすめる方法は、

コメントは「承認と共感」。

「うんうん」

「なるほど」的な本当に短いコメントやサイン。

 

「評価や判断も指示」もしないし、

ましては

反省を促したり、

アドバイスもしないし、

問題の解決もしない。

 

私はこの「承認と共感」ってのが、

子どもの心を育てる!と思った。

 

 

だって、

人は、「評価と判断と指示」に

まみれて生きているんだもの。

 

ほぼ、そればっかな

日常を送ってるんだもの。

 

 

 

それが良い評価だとしても、

バランスをくずすと、

何かをする時の目的が

「良い評価」になってしまったりする。

 

判断を浴びると、

自分で判断するのが怖くなるし、

他者の判断を待つようになる。

 

指示されてばかりいることは、

自主性を阻む。

 

 

 

「承認と共感」というのは、

「こういう事実があったんだね」

「こういう気持ちだったんだね」

ってことを示すことだ。

 

つまり、

「先生は、

 あなたに今日、

 こういうことがあったこと、

 わかったよ」

「あなたが、〜〜って気持ちに

 なったって、理解したよ」

ってお知らせすること。

 

 

それが、

いい時も、

悪い時も、

成功した時も、

失敗した時も、

良いことした時も、

悪いことしてしまった時も、

変わらずに、

「そういうこと、あったんだね」

「そういう気持ちになったんだね」

と、

感情的にならないで、

「今日、今、その時」を

淡々と受け止める。

そういう先生のコメントは、

安心感につながるのではないだろうか。

 

もちろん、他の場面では、

アドバイスしたり、

褒めたり、

相談に乗ったり・・・とする。

でも、ふりかえりの場だからこそ、

子どもが自分と誠実に向き合う環境を作る。

 

 

子どもが、

他の誰からも、

評価も判断もされないという安心感の中で、

しかしながら黙って見守ってくれている人はいる中で、

「自分を振り返る機会」を持てることは

素晴らしい。

 

「自分を振り返る機会」

 =

「自己観察すること」

 =

「自分を外から見る体験」

 =

「自分の言動に自覚的になる」

 

つまり

メタ認知のトレーニングを

積み重ねることになるのだ。

 

 

人は体験から学ぶのではなく、

体験を振り返ることから学ぶ。

 

「経験の開放性が高いと

 運が強くなる」と

脳科学者が言っていた。

 

 

・・・と

幾重にも好循環な

「ふりかえりジャーナル」

 

 

講座に参加されていた

ほとんどの先生たちは

実践されていた。

 

目を通しながら、

微笑んだり、

泣けてきたり、

大声で笑ったり、

はてな?ってなったり、

腹たったり、

先生たちの感情は

いろいろ動くんだろうな。

 

忙しい中、

その時、

先生は、

一人ひとりとつながるんだな。

 

 

 

 

「信頼ベースの学級ファシリテーション」

という「戻るところ」に出会えた先生方は、

ラッキーだと思う。

 

 

私としては、

これを学年や学校の中に広めていく時に、

アサーティブを使って欲しいな!

なんて思ってる。

 

 

 

 

 

 

 

author : tanizawa-k
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谷澤 久美子
counselor